『能狂言』上27 大名狂言 かずまふ
▲シテ「この辺りに隠れもない大名です。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたの相撲の会は、夥しい事でござる。それにつき、某も相撲の者をあまた抱へうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて申し付けう。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居るか居るか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居たか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「そちを呼び出す事、別なる事でもない。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたの相撲の会は、何と夥しい事ではないか。
▲冠者「御意の通り、夥しい事でござる。
▲シテ「それよそれよ。それにつき、某も相撲の者をあまた抱へうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「御意なくば申し上げうと存ずる処に、これは一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、せかせかと置かうより、一度にどうと置かう。
▲冠者「良うござりませうが、いか程置かせらるゝぞ。
▲シテ「物程置かう。
▲冠者「いか程。
▲シテ「物程。
▲冠者「いか程。
▲シテ「ゑゝ。三千ばかりも置かうか。
《これより「文相撲」同断。「汝は太儀ながら、今から上下の街道へ行て、相撲をも取り、又奉公をする者を抱へて来い」と云ひ付くる。後、「今参り」同断。太郎冠者、言葉、道行、「今参り」同断。上下の街道にて待ち合はす》
▲蚊の精「これは、江州守山に住む蚊の精でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、都には相撲が流行ると申すによつて、相撲取りになり、都へ上り、人間に近付き、思ひの儘に血を吸はうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、何とぞ抱へてくるれば良うござるが。さりながら、広い都でござるによつて、誰そ抱へられぬと申す事はござるまい。
▲冠者「いや。これへ興がつた者が参る。言葉をかけう。
なうなう。しゝ申し。
▲蚊精「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲冠者「いかにもそなたの事ぢや。聊爾な申し事なれども、どれからどれへ行くぞ。
▲蚊精「私は相撲取りでござるが、奉公の望みで都へ上る者でござる。
▲冠者「それは幸ひの事ぢや。抱へうものを。
▲蚊精「あの、そなたがの。
▲冠者「不審、尤な。某が抱ふるではない。身共が頼うだ人は、くわつとお大名でおりやるが、今度相撲の者をあまた抱へさせらるゝによつて、そなたが望みならば、云うて出いてもやらうかと申す事でおりやる。
《これより又「文相撲」などゝ{*1}同断。一遍廻りて国を問ひ、「江州守山は相撲所ぢやと聞いた。さあさあ。おりやれおりやれ」「参る参る」「頼うだ人は今か今かとお待ち兼ねであらう。そなたを抱へた事を申し上げたならば、殊ない御機嫌であらうぞ」「それは一段の事でござる。扨、程は遠うござるか」「今少しぢや。急がしめ」「心得ました」「何かと云ふ内に戻り着いた」。この後、「文相撲」同断。過を云うて、目見えを云ひ付け、「掛かりへ水を打たせて掃除させせい」。新参の者、篤と見て》
▲シテ「今のが新参の者か。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「扨々、興がつた面ぢやなあ。
▲冠者「興がつたつらでござる。
▲シテ「あれが相撲を取るか。
▲冠者「いかにも取りまする。
▲シテ「扨、国はいづ方ぢやと云ふ。
▲冠者「江州守山ぢやと申しまする。
▲シテ「何ぢや。守山ぢやと云ふか。
▲冠者「中々。
▲シテ「むゝ。守山は相撲所と聞いた。相撲が見たい程に、これへ出て取れと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
《これより又「文相撲」同断。「身共が取らう」と云うて、身拵へして、「相撲の者を呼び出せ」と云ふ》
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。身拵へが良くば、あれへお出やれ。
▲蚊精「畏つてござる。
《こよりを面の口へ咥へ、袖にて顔を隠して出る》
▲冠者「相撲の者、出ましてござる。
▲シテ「汝は行司をせい。
▲冠者「畏つてござる。
やあ。お手。
《と云うて合はする時、蚊の精、袖を広げ、「ぶうぶう」と云うて刺す体なり。シテ、「文相撲」などの如く気を失ふを、太郎冠者、呼びながら肩へ掛けて、「頼うだ人、何となされました」と云ふ。気が付いて》
▲シテ「扨々、きやつが相撲は不思議な相撲ぢや。やつと云ふ。おつ開くと、何とやら身内がしくしくとすると思うたれば、目がくるくると舞うた。近頃合点の行かぬ相撲ではないか。
▲冠者「左様に仰せらるれば、羽を広ぐる様に致いて、嘴が長うなる様に見えました。
▲シテ「むゝ。扨、きやつは国はいづくとやら云うたの。
▲冠者「江州守山ぢやと申しまする。
▲シテ「何ぢや。守山ぢやと云うたか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「はあ。それについて思ひ出いた事がある。江州守山は蚊の名所で、昔も人程の蚊が出て相撲取りになり、人間の血を吸うたと云ふが、すればきやつは疑ひもない、蚊の精であらう。
▲冠者「すれば、疑ひもない、蚊の精でござらう。
▲シテ「扨、今のは身共が負けか。
▲冠者「いづれお勝ちとは見えませぬ。
▲シテ「蚊の精に負くるといふは、何とも口惜しい事ではないか。
▲冠者「私までも残念にござる。
▲シテ「何とぞして勝ちたいものぢや。
▲冠者「何とぞ致いて、お勝ちになる様に致したい事でござる。
▲シテ「それそれ。蚊といふものは、風を嫌がるものぢや。今一番取らう程に、汝は精を出いてあふげ。風を嫌がるならば、疑ひもない蚊の精であらう程に、きやつが嘴を引き抜いてやらう。
▲冠者「これは一段と良うござらう。
▲シテ「それならばこれへ出せ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。今一番取らうと仰せらるゝ。あれへお出やれ。
▲蚊精「心得ました。
▲冠者「はあ。相撲の者、出ましてござる。
▲シテ「今度は心得て行司をせい。
▲冠者「畏つてござる。
やあ。お手。
《合はすると、太郎冠者、精を出しあふぐ。蚊は両袖広げ、「ぶうぶう」と云うて、目付柱の方に居て、シテの方へ近寄らうとする時、精を出しあふぐと、又吹き戻され吹き戻されして、一遍廻りもする》
▲シテ「さればこそ嫌がるわ。疑ひもない蚊の精ぢや。随分精を出いてあふげ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「扨も扨も、嫌がるわ。
《と云うて、シテ悦びて笑うて、一遍廻りても良し。良き処を見済まいて嘴を引き抜き、引き廻して打ち倒いて、「お手」と云うて留める。シテ嘴を抜くを見て、太郎冠者は太鼓座へ{*2}引つ込み、シテの後に付いて入るなり。蚊は起き上がり、袖を広げ、「ぶう」と云うて引つ込む。嘴を{*3}抜かれし故、初めの「ぶう」と云ふのとは、云ひ様心持ちあるべし》
校訂者注
1:底本は、「文相撲など同断」。
2:底本は、「たいこ座引込」。
3:底本は、「口ばしぬかれしゆゑ」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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