『能狂言』上29 大名狂言 ひとうま
《初め、名乗りより、太郎冠者を{*1}呼び出し、「新参の者を抱へて来い」と云ふ。太郎冠者{*2}、上下の街道へ出、待ち合はする。新参の者、「文相撲」などの如く名乗り、道行する。太郎冠者、言葉を掛け、抱へて同道して戻る事、「文相撲」同断。但し、国を問ふばかりにて、芸能の事は問はぬなり。戻り着いて、過を云ひ目で使ふ処までは、諸事「文相撲」同断なり》
▲シテ「出かし居つたなあ。
▲冠者「でかしましてござる。
▲シテ「扨、きやつが国はいづくぢやと云ふ。
▲冠者「遥か遠国ぢやと申しまする。
▲シテ「遠国と聞けば国がゆかしい。扨、何ぞ芸があるか問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
いや。なうなう。
▲新参の者「何事でござる。
▲冠者「殊ない御機嫌ぢや。扨、何ぞ芸があるかと仰せらるゝ。
▲新参「いや。何も申し立てに致す芸はござりませぬ。
▲冠者「何もない。
▲新参「中々。
▲冠者「それならば、その通り申し上げう。
承つてござるが、何も芸はござらぬと申しまする。
▲シテ「何ぢや。芸はない。
▲冠者「中々。
▲シテ「芸のない者が役に立つものか。早う往ないてやれ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
いや。なうなう。
▲新参「何事でござる。
▲冠者「頼うだ人の仰せらるゝは、芸のない者は御用にないと仰せらるゝ程に、気の毒ながら戻つてくれさしめ。
▲新参「扨々、それは残念な事でござる。私も長う御奉公致さうと存じてござるが。是非に及びませぬ。それならばかう戻りませう。
▲冠者「それならば戻らしめ。
▲新参「さらばさらば。《と云うて、少し行て、立ち戻り》
いや。申し申し。
▲冠者「何事ぢや。
▲新参「只今思ひ出いてござる。私は人を馬になす事を覚えて居りまするが、これも芸の内でござらうかと仰せられて下されい。
▲冠者「扨々、これは珍しい芸ぢや。その通り申し上げう。それに待たしめ。
▲新参「心得ました。
▲冠者「はあ。きやつが申しまするは、人を馬になす事を覚えて居りまするが、これも芸の内でござらうかと申しまする。
▲シテ「何ぢや。人を馬にする事を覚えて居る。
▲冠者「中々。
▲シテ「それは一段と珍しい芸ぢや。急いで人を馬にないて見せいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
いや。なうなう。その通り申し上げたれば、急いで人を馬にないて見せいと仰せらるゝ。
▲新参「それならば、馬になる人を出させられいと仰せられて下されい。
▲冠者「心得た。
きやつが申しまするは、馬になる人を出させられいと申しまする。
▲シテ「人を出せと云ふか。
▲冠者「中々。
▲シテ「誰彼と云うて、他に人もないによつて、汝、馬になれ。
▲冠者「いや。申し。私も幼少より召し使はれ、只今まで窮労致いて、漸うこの度新参の者を抱へさせられたならば、ゆるりと休息をも致さうと存ずる処に、取り立てゝは下されいで馬になれとは、余りお情けない事でござる。
▲シテ「汝が云ふ処は近頃尤なれども、某もふと云ひ掛かつて、今更人がないと云うては、きやつが思ふ処も恥づかしい。他に人もない処で、そちが馬にならねば身共が馬にならうより他はない処で、迷惑にはあらうずれども、随分といたはつてやらふ程に、何とぞ馬になつてくれい。
▲冠者「いかに主命なればとて、畜生になれとは。近頃迷惑にはござれども、それ程にまで仰せらるゝ事でござるによつて、主のためには命をも捨つる習ひなれば、是非に及びませぬ。馬になりませう。
▲シテ「それは近頃満足した。その儀ならば、早うきやつを呼び出いて、馬になして見せいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
いや。なうなう。扨々、和御料はむさとした人ぢや。芸こそあらうずれ、人を馬になす芸を覚えて居るといふ事があるものか。由ない事を仰しやつたによつて、身共が馬にならねばならぬ。
▲新参「何ぢや。こなたの、馬にならせらるゝ。
▲冠者「中々。
▲新参「やれやれ。それは気の毒な事でござる。私も、折角参つて戻るが迷惑さに、むさとした事を申して、近頃気の毒にござる。
▲冠者「是非に及ばぬ。あれへ出て、馬にないてお目に掛けさしめ。
▲新参「心得ました。
▲冠者「つゝとお出やれ。
▲新参「畏つてござる。
▲冠者「はあ。新参の者。出ましてござる。
▲シテ「やいやい。
▲新参「はあ。
▲シテ「そちは珍しい芸を覚えて居るなあ。
▲新参「はあ。
▲シテ「早う太郎冠者を馬にないて見せい。
▲新参「畏つてござる。
▲冠者「いや。申し。只今ちと申し置く事がござる。今少し待たせられて下されい。
▲シテ「心得た。
▲冠者「いや。なうなう。身共が馬になつたならば、定めて口取りは和御料であらう。
▲新参「左様でござらう。
▲冠者「某は第一綺麗好きぢやによつて、朝夕掃除をもよくして、裾などをも度々してくれさしめ。
▲新参「心得ました。
▲冠者「扨、身共はちかゞつゑぢや程に、飼ひをも度々付けておくりやらうず。その上、御酒を一つ呑む程に、夏ならば冷やし済まし、冬ならば燗をし済まいて、馬に相応する程に呑ませてくれさしめ。
▲新参「いかにも呑ませませう。
▲冠者「扨又、某はかねがね不達者でおりやる程に、余り遠いへは乗らせられぬ様にしてくれさしめ。又、身共は蚊が嫌ひぢや程に、夏は蚊帳をも吊つてくれさしめ。
▲新参「何が扨、心得ましてござる。
▲冠者「まだ云ひたい事もあれども、頼うだ人がお待ち遠にあらう程に、後はそなた、よう心を付けていたはつておくりやれ。
▲新参「その分は、お気遣ひなさるゝな。私が心を付けて、随分いたはつて進じませう。
▲冠者「それならば、追つ付け馬にないてくれさしめ。
▲シテ「さあさあ。早う馬にないて見せい。
▲新参「畏つてござる。《太郎冠者を這はせて、新参の者、挽き茶を出し》《謡》
いでいで馬になさんとて、まづやまもゝの皮を顔に摺り塗れば、顔より馬にぞなりたりける。《太郎冠者、「ひんひん」といばゆる》
▲シテ「はゝあ。さればこそ馬になりかゝつた。総じて、地獄の馬は顔ばかりが人ぢやと云ふが、これはそれとは違うて、顔から馬になつた。
▲新参「左様でござる。
▲シテ「尚々、馬にないて見せい。
▲新参「畏つてござる。追つ付け馬になしまする程に、こなたはぬからず乗り留めさせられい。
▲シテ「ぬかる事ではない。早う馬にせい。
▲新参「畏つてござる。《謡》
尚々馬になさんとて、陳皮乾薑色々の、加薬を取り替へ取り替へ摺り塗りたれど、中々馬にはならざりけり。《と云うて、太郎冠者を真ん中へ突き出し、新参は逃げ込むなり》
▲シテ「どうどうどう。《と云うて、シテ、太郎冠者に乗る》
▲冠者「いや。申し。これは私でござる。
▲シテ「まだ馬にならぬか。
▲冠者「中々。
▲シテ「すれば、すつぱであらう。早う捕らへい。
▲冠者「心得ました。
▲両人「どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「太郎くはじや呼出し」。
2:底本は、「太郎」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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