『能狂言』上30 大名狂言 うつぼざる
▲シテ「遠国に隠れもない大名です。長々在京致せば、心が屈してあしうござるによつて、今日はどれへぞ野遊山に出ようと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。長々在京すれば、心が屈してあしいによつて、今日はどれへぞ野遊山に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「御意なくば申し上げうと存ずる処に、これは一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする参りまする。
▲シテ「今日は天気も良いによつて、何ぞ出たならば射て取らうと思うて、弓矢を用意した。
▲冠者「誠に今日は天気も良うござるによつて、何ぞ出ぬと申す事はござりますまい。
▲シテ「出たならば、身共がこぶしの程を見せたい事ぢや。
▲冠者「お拳を拝見仕りたい事でござる。
《シテ廻り掛かると猿引出て、一の松にて名乗る》
▲猿引「これは、この辺りに住居致す猿引でござる。今日は天気も良うござるによつて、旦那廻りを致さうと存ずる。まし、行け行け。今日は天気も良うござるによつて、ゆるりと旦那廻りを致さうと存ずる。《など云うて、舞台の内へ入る》
▲シテ「やいやい。太郎冠者。それへ出たは、猿ではないか。
▲冠者「いかにも猿でござる。
▲シテ「扨も扨も、これは毛の込うだ良い猿ぢや。《と云うて、猿の傍へ寄り、靭の丈を比ぶる。猿、掻き付くなり》
▲猿「きやあきやあきやあ。
▲猿引「やい。まし。何とした事ぢや。
▲冠者「なう。そこな人。わゝしうばわゝしいと、なぜに仰しやらぬぞ。
▲猿引「真つ平ご許されて下されい。ご仁体を見付けませぬによつて、むさとした事を致いてござる。良い様に仰せ上げられて下されい。
▲シテ「やい。太郎冠者。苦しうないと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
苦しうないと仰せらるゝ。
▲猿引「ひとへにお取り成し故でござる。
▲シテ「太郎冠者。こちへ来い。
▲冠者「何事でござる。
▲シテ「行て云はうは、あれは良き猿かと云うて問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。それは良き猿かと仰せらるゝ。
▲猿引「いかにも良き猿でござると仰せられい。
▲冠者「心得た。
申し。良き猿{*1}ぢやと申しまする。
▲シテ「良き猿ぢやと云ふか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「それならば行て云はうは、猿引に初めて逢うて、無心を云ふはいかゞなれども、ちと頼みたい事があるが、聞いてくれうかと云うて問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲猿引「猿引づれに御用はござりますまいが、似合ひました御用ならば承りませうと仰せられい。
▲冠者「心得た。《その通り云ふ》
▲シテ「聞かうと云ふか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「猿引に礼を云はう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「初めて逢うて無心を云うたに、聞いてくれうとあつて、満足致す。
▲猿引「似合ひました御用ならば承りませう。
▲シテ「太郎冠者。こちへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲猿引「行て云はうは、無心と云つぱ、別なる事でもない。汝も知る通り、この着た靭を、内々猿皮うつぼにしたいと思へども、似合はしい猿の皮がない。あの猿は毛の込うだ良い猿ぢやによつて、皮を貸せ、靭に掛けたいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲猿引「御用と仰せらるゝはその事でござるか。
▲冠者「中々。
▲猿引「《笑》これは殿様の御機嫌の余りに、おざれ事でござりませう。真実の御用が承りたうござると仰せられて下されい。
▲冠者「心得た。《その通り云ふ》
▲シテ「むゝ。きやつが長うも借る事ぢやと思うてさう云ふであらうが、一年か二年掛けたならば、後は返さうと云へ。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲猿引「むゝ。すれば一定でござるか。
▲シテ「中々。
▲冠者「いや。申し。こなたもよう思うても見させられい。あれは生きた猿でござる。あの皮を剥げば、その儘命が失せまする。その上某も、あの猿故に身命を繋いで居りまする。いかにお大名なればとて、その様な無体な事は云はぬものぢやと云うて下されい。
▲シテ「やいやいやい。猿引。
▲猿引「やあ。
▲シテ「やあとは、おのれ憎い奴の。一旦諸侍に一礼までを云はせて、今更貸すまいといふ事があるものか。
▲猿引「こなたも御仁体でござるが、よう思うても見させられい。あれは生きた猿でござる。皮を剥げばその儘命が失せまする。その様な無理な事は云はぬものでござる。
▲シテ「おのれ、そのつれな事を云うて。皮を貸さずば、ためになるまいぞよ。
▲猿引「ためになるまいと云うて、何と召さる。
▲シテ「目に物を見せう。
▲猿引「それは誰が。
▲シテ「身共が。
▲猿引「《笑うて》猿引ぢやと思うて侮つて仰しやるが、某も似合ひに旦那を持つて居まする。こなたの目に物を見せたりと、深しい事があるものか。
▲シテ「ていとさう云ふか。
▲猿引「おんでもない事。
▲シテ「悔やまうぞよ。
▲猿引「何の悔やまう。まし。行け行け。
▲シテ「たつた今、目に物を見せう。
▲猿引「早う置かしやらいでの。
▲シテ「太郎冠者。そこをのけ。ひと矢に射殺いてやらう。
▲猿引「あゝ。まづ待たせられい。
▲シテ「待てとは。
▲猿引「物を云はせて下されい。
▲シテ「物を云はせいとは。
▲猿引「貸しませう。
▲シテ「いや。お貸しやるまいものを。
▲猿引「いや。貸しませう。
▲シテ「それは誠か。
▲猿引「誠でござる。
▲シテ「真実か。
▲猿引「一定でござる。
▲シテ「やい。太郎冠者。早う猿の皮を貸せと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
さあさあ。早う猿の皮を貸せと仰せらるゝ。
▲猿引「扨々、お気の早い殿様でござる。何とお詫び言はなりますまいか。
▲冠者「いやいや。お詫び言はならぬ。
▲猿引「それならば、さう仰せられて下されい。あの大雁股で射させられましたならば、猿の皮に疵が付いて御用に立ちますまい。こゝに猿の一打ちと申して、只ひと打ちで命のうする所がござる。これを打つて上げませうかと仰せられて下されい。
▲冠者「心得た。《その通り云ふ》
▲シテ「早う打つて出せと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
さあさあ。早う打つて出せと仰せらるゝ。
▲猿引「何と、お詫び言はなりますまいか。
▲冠者「いやいや。お詫び言はならぬ事ぢや。
▲猿引「それならば、是非に及びませぬ。今打つて上げませう。
やい。まし。それへ出よ。汝、畜生なれども、よう聞け。そちが小猿の時よりも飼ひ育て、色々の芸能を教へ、今は汝が蔭で身命を繋ぐ処に、某が運こそ尽きたれ。今日といふ今日、あれ、あのお大名に出合うたれば、そちが皮を貸せ、靭に掛けたいと仰せらるゝ。それを貸すまいと云へば、あれ、あのおほがりまたで某ともに射て取らうとのお事ぢや。背に腹は替へられず、今汝を打つ程に、必ず草葉の蔭でも某を恨みとばし思うてくれな。今打つぞ。ゑい。
▲シテ「やい。太郎冠者。何をくどくどして居るぞ。早う打つて出せと云へ。《これまでに二度ばかりもせがみて良し》
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。何をくどくどして居るぞ。早う打つて出せと仰せらるゝ。
▲猿引「さればその事でござる。あの猿は、小猿の時よりも飼ひ育て、色々の芸能を教へてござるが、中にもこの間、舟の櫓を押す真似を教へてござれば、畜生の悲しさは、今おのれが命の失する事は存ぜいで、例の舟漕ぐ真似をせよと申す事かと存じて、打つ杖をおつ取つて、舟の櫓を押す真似を致しまする。あの体を見ましては、猿引ともにご成敗なされうとあつても、猿引において{*2}打つ事はならぬと仰せられて下されい。《又泣く》
▲シテ「やい。太郎冠者。何をくどくどして居る。早う打つて出せと云へ。
▲冠者「猿引申しまする。《猿引云うた通りを云ふ》
▲シテ「何と云ふぞ。あの猿は、小猿の時よりも飼ひ育て、色々の芸能を教へた。中にもこの間、舟の櫓を押す真似を教へてあれば、畜生の悲しさは、今おのれが命の失する事は知らいで、例の舟漕ぐ真似をせよと云ふ事かと思ひ、打つ杖をおつ取つて、舟の櫓を押す真似をする。その体を見ては、たとひ猿引ともに射て取らうとあつても、打つ事はならぬと云ふか。
▲冠者「中々。
▲シテ「それでの。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「《泣きて》扨も扨も、哀れな事ぢや。猿引に、な打つそと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
これこれ。な打つそと仰せらるゝ。
▲猿引「何ぢや。な打つそ。
▲冠者「中々。
▲猿引「それは誠でござるか。
▲冠者「誠ぢや。
▲猿引「真実でござるか。
▲冠者「一定でおりやる。
▲猿引「ひとへにこなたのお取り成し故でござる。猿に御礼を申させませう。
▲冠者「それが良からう。
▲猿引「やいやい。まし。あれへ行て、お礼を申せ。
▲シテ「やいやい。猿が礼をするわ。
▲冠者「左様でござる。
▲猿引「太郎冠者殿にも、お礼を申せ。
▲冠者「私にも礼を致しまする。
▲シテ「誠に、汝にまで{*3}礼をした。扨々、利根なものぢやなあ。
▲猿引「申し。太郎冠者殿。
▲冠者「何事ぢや。
▲猿引「めでたう猿に舞はせませうかと仰せられい。
▲冠者「心得た。
いや。申し。めでたう猿に舞はせませうかと申しまする。
▲シテ「早う舞はせいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
早う舞はせいと仰せらるゝ。
▲猿引「畏つてござる。
▲猿引・猿「《唄》はあ。猿が参りて、こなたの御知行まつさるめでたい能仕る。踊るが手もと、たちみまや。牧おろしの春の駒が、鼻を揃へて参りたり。もとより鼓は波の音、寄せ来る波を数へ申せば、真如の囀り音楽の声、諸法実相と響き渡れば、地より泉が相生して、天より宝が降りくだる。
《右の小唄の内、シテ、浮かれて猿の真似して、猿に掻き付かれ、悦び笑ひて扇子を取らせ、小刀を取らせ、この小歌の済み際に小袖上下を取らせて良し。小袖上下を脱ぎてから、太郎冠者は太鼓座へ着く》
はいや、はあ。興がりきよくしゆんたり。こなたのお庭を今朝こそ見たれ。いや。こがね升にて米はかる、よねはかる。明日は出ようずもの、舟が出ようずもの。重たげもなくおよる殿御よ、およる殿御よ。夜さの泊まりはどこが泊まりぞ、那波か坂越か、室が泊まりよ、室が泊まりよ。舟の中には何とおよるぞ、つゝと出て寝よ寝よ。苫を敷き寝の梶枕、梶枕。淀の川瀬の水車。誰を待つやらくるくると、くるくると、木幡山路に行き着きて、月を伏見の草枕、草枕、これから在所まぢや日が暮れうか。与十郎。片割れ月は、いよ。宵の程よの、宵の程よの。松の葉越しに月見れば、月見れば、つゝと出て月を見よ、まだ見よ見よ。いや。しばし曇りて又冴ゆる、又冴ゆる、いとし殿御のござるやら、犬が吠え候ふ四つ辻で、四つ辻で、とゞろとゞろと鳴る神も、こゝは桑原よも落ちじ、よも落ちじ。吾妻下りの殿は持たねど、嵐吹けとはさらに思はず、さらに思はず。汲んだる清水で影見れば、我が身ながらも良い殿御、良い殿御。ひんだの横田の若苗を、若苗を、つゝと出て田を植ゑ、まだ植ゑまだ植ゑ、しよんぼりしよんぼりと植ゑたもの、今来る嫁が刈らうずよの。腹立ちや、四角柱や角柱、かどのないこそ添ひ良けれ、添ひ良けれ。ひんだの踊りはこれまでぞ、これまでぞ。
《シテ、小歌の内、度々猿に掻き付かれて、その度々に笑ふ。この小歌の終わりにも又笑ひて、「この様な良き慰みはござるまい」と云うて悦ぶ》
いや。一の幣立て二のへいだて、三に黒駒信濃をとれ、船頭殿こそ勇健なれ、泊まり泊まりを眺めつゝ、かの又獅子と申すには、百済国にて普賢文殊の召されたる、猿と獅子とはご使者の者、なほ千秋や万歳と、俵を重ねて面々に、面々に、面々に、楽しうなるこそめでたけれ。
《この小歌になり、猿は幣を持ち、シテは何もなき故、そこら捜して靭を見付け、うつぼを持ちて舞ふ。「俵を重ねて面々に」と云ふ時、猿と同じ様に靭持ちながら転びを三度して、うつぼ持つて左へ廻り、拍子にて踏み込み、「やあ」と云うて、靭担げて留めるなり》
校訂者注
1:底本は、「のう猿」。
2:底本は、「猿において」。
3:底本は、「汝まで」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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