『能狂言』上31 大名狂言 きんや
▲オモアド「これは、この辺りの者でござる。この禁野は、昔より殺生禁断の所でござるに、この間何者やら、毎日禁野へ出て殺生を致すによつて、捕らへうとは存ずれども、弓矢を持つて居まするによつて、聊爾に近付く事がなりませぬ。それにつき、私の工み{*1}出いた事がござるが、いち人ではなりませぬ。こゝに誰と申す大いたづら者がござる程に、今日はこれを語らうて捕らへうと存ずる。《常の如く道行云うて、案内を乞うて》
只今参るも別なる事でもござらぬ。《名乗りの通り云うて》一人ではなりませぬによつて、こなたも来て下されうならば、忝うござる。
▲次アド「扨々、それは憎い奴でござる。成程、私も参つて、こなたと致いて丸裸に致いてやりませう。
▲オモ「それは忝うござる。その儀ならば、まづござれ。
▲次ア「まづこなたからござれ。
▲オモ「私から参らうか。
▲次ア「それが良うござらう。
▲オモ「さあさあ。ござれござれ。
▲次ア「参る参る。
▲オモ「この交野は、昔より殺生堅く禁断の所でござるに、それへづると申すは、近頃大胆な奴でござる。
▲次ア「誠に大胆な奴でござる。今日も天気が良うござるによつて、出ぬ事はござるまい。
▲オモ「中々。出ぬ事はござるまい。いや。参る程にきんやでござる。
▲次ア「誠に、かたのへ参つた。
▲オモ「いつもこの辺りへ出まする。これに待つて{*2}居りませう。
▲次ア「それが良うござらう。
▲オモ「《シテ出たるを見付けて》申し。あれでござる。
▲次ア「はあ。あれでござるか。
▲オモ「中々。私が言葉を掛けて、誑いて弓矢を取りませう程に、弓矢を取つたならば、こなたも出させられい。
▲次ア「何が扨、心得ました。
《これより言葉を掛くる》
▲シテ「罷り出たる者は、いづれもご存じの者でござる。毎日交野へ殺生に参る。また今日も参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に、この交野は禁野と申して、昔より殺生禁断の所ではござれども、さる仔細あつて、某は苦しうござらぬ。それ故、かやうに毎日殺生にづる事でござる。昨日は雉子がほろゝを掛けてござるによつて、二つまで射取つてござる。何とぞ今日も仕合せを致したい事でござる。いや。何かと申す内に、これは早交野ぢや。昨日はこの辺りに雉子があまた見えたが、今日は一羽も居らぬ。
▲オモ「申し申し。これは殺生に出させられてござるか。
▲シテ「中々。殺生に出ておりやる。
▲オモ「総じて、昔よりこの交野は殺生禁断の所ぢやと申しまするが、何としてこなたには、殺生をなされても苦しうござらぬぞ。
▲シテ「仰しやる通り、この交野は昔より殺生禁断なれども、さる仔細あつて、某は苦しうない事でおりやる。
▲オモ「それは一段の事でござる。扨、この交野を禁野と申すには、何ぞ仔細でもござるか。
▲シテ「中々。夥しい仔細がある。知らずば語つて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲オモ「心得ました。
▲シテ「《語》まづこの交野を禁野と云ふ事は、人皇三十四代推古天皇の御宇にてもやありけん、この所へ三足の雉子出来する。化鳥なれば退治あるべしとて、鷹匠に仰せ付けられ、逸物の鷹を合はせけれども、かの雉子の尾、刃の剣にて、御鷹を刺し殺し候ふ間、鷹匠色々工夫をめぐらし、くろがねにて鷹を作り、かの雉子に合はせければ、真の鷹と心得、刺せども刺せども刺されず。その時逸物の大鷹を助鷹にやりかけ、ひしと取り組みたる処を、人々寄り合ひ打ち殺したるにより、すけだかといふ事始まりたり。けてうなれば、その雉子を土中に突き込め、神に斎ひ、雉子の宮と号し、雉子領を下され、その跡を禁野と名付け、今に至るまで殺生禁断なり。さりながら最前も云ふ通り、さる仔細あつて某は苦しうない事でおりやる。
▲オモ「扨も扨も、かやうの仔細を初めて承つてござる。扨、今日も何ぞ射させられてござるか。
▲シテ「さればその事ぢや。昨日はこの辺りでほろゝをかけたによつて、二つまで射取つておりやるが、今日は未だ何も得ぬ事でおりやる。
▲オモ「はあ。すれば昨日の雉子は、古歌の心を知らいでほろゝをかけたものでござらう。
▲シテ「いや。和御料はこびた事を云ふが、その歌は何といふ歌ぢや。
▲オモ「もの云へば父はながらの人柱啼かずば雉子も射られまじきを。この歌は昔、ながらの橋の人柱に立つた者の娘の詠うだ歌ぢやと申すが、昨日の雉子もこの歌の心を存じて居たならば、こなたのお手には掛かりますまいものを。
▲シテ「扨々、そなたは近頃面白い事を云ふ人ぢや。暇ならば、今日はゆるりと同道して、何とぞ身共がこぶしの程を見せたい事でおりやる。
▲オモ「誠にこなたのお拳を拝見致したい事でござる。
▲シテ「今日は天気も良いによつて、雉子が居さうなものぢやが。
▲オモ「誠に今日は天気も良うござる程に、雉子が居りさうなものでござるが。いや。申し申し。向かうに雉子が居りまする。早う射させられい。
▲シテ「どれどれ。どこ元に居るぞ。
▲オモ「あれ。あの草の蔭に居まする。
▲シテ「はて。合点の行かぬ。某が目には見えぬ。
▲オモ「あれ程頭を上げて居りまする。しかも雄鳥でござる。早う射させられい。
▲シテ「そなたがその様に仰しやると、心がせくによつて、いよいよ某が目には見えぬ。
▲オモ「扨々、もどかしい。はや立ちまする程に、早う射させられいと申すに。
▲シテ「はて。射たいものぢやが。いづ方に居る事ぢや知らぬ。
▲オモ「すれば、すきと見えませぬか。
▲シテ「中々。いかやうにしても見えぬ。
▲オモ「もはや立ちさうに致しまする程に、弓矢を貸させられい。私が射て進じませうか。
▲シテ「それならば弓矢を貸す程に、早う射てくれさしめ。
▲オモ「心得ました。これへおこさせられい。
▲シテ「中つたならば、構へて雉子はこちへおこさしめ。
▲オモ「いかにも雉子はこなたへ進じませうとも。
▲シテ「早う射さしめ。
▲オモ「がつきめ。やるまいぞ。
▲シテ「これは危ない。何とするぞ。
▲オモ「何とするとは。この殺生禁断の所で、よう雉子を射居つた。おのれ、ひと矢に射殺いてくれう。
▲シテ「あゝ。まづ待て。
▲オモ「待てと云ふ事があるものか。
▲シテ「あゝ。出合へ出合へ出合へ。
▲次ア「あゝ。これこれ。そなた達は何を喧しう仰しやるぞ。
▲オモ「さればその事でござる。あの者がこの殺生禁断の所で、毎日雉子を射まするによつて、あの様な者は見せしめに、只ひと矢に射殺いてやりませう。そこを退かせられい。
▲シテ「あゝ。止めておくりやれ。
▲次ア「まづお待ちやれ。某がきつと叱つてやらう。
▲オモ「それならば、きつと叱つて下されい。
▲次ア「申し申し。こなたは見ればご仁体でござるが、この殺生禁断の所で、なぜに殺生をなさるゝぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。今日は天気も良いによつて、身共は的前を射に出たれば、あの者が雉子を射るによつて弓矢を貸せと云うた程に、貸しておりやる。あの者こそ殺生をすれ、某は何も咎はない程に、あの弓矢を取つておくりやれ。
▲オモ「まだそのつれな事をいふか。昨日も二つまで雉子を射たと云うたではないか。その上、禁野の仔細も知つて居ながら、毎日毎日殺生をする。おのれが様な者は、後々の見せしめに、ひと矢に射殺いてやらう。
▲シテ「あゝ。真つ平命を助けてくれい。
▲オモ「何ぢや。命が助かりたい。
▲シテ「中々。
▲オモ「いや。申し。それならば、あれが差いて居る物をおこせと仰せられて下されい。
▲次ア「心得た。申し申し。こなたのひと腰をおこせと申しまする。
▲シテ「何ぢや。差いた物をおこせ。
▲オモ「中々。
▲シテ「おのれは推参な事を云ふ。諸侍のひと腰が、何と放さるゝものぢや。遣る事はならぬ。
▲オモ「おのれ。おこさずば、ひと矢に射殺いてやらう。
▲シテ「あゝ。それならば、遣らう遣らう。
▲オモ「早うおこせ。
▲シテ「是非に及ばぬ。これを遣ると云うてくれさしめ。
▲次ア「さあさあ。腰の物をば取つた程に、命をば助けてやらしめ。
▲オモ「とてもの事に、あの小袖上下をも、脱いでおこせと云うて下されい。
▲次ア「いや。申し申し。その小袖上下をも、脱いでおこせと云ひまする。
▲シテ「扨々、おのれは憎い奴の。諸侍が、何と丸裸にならるゝものぢや。遣る事はならぬ。
▲オモ「それをおこさずば、ひと矢に胴腹を射てくれう。
▲シテ「はあ。それならば、遣らう遣らう。
▲次ア「申し申し。命には替へられますまい。早う遣らせられい。
▲シテ「あゝ。是非に及ばぬ。それならば、この小袖上下を遣る程に、弓矢をばこちへ返せと云うて、取つてくれさしめ。
▲次ア「心得ました。《と云うて小袖上下を取つて》
やい。聞くか。
▲シテ「何事ぢや。
▲次ア「我々は、この辺りに隠れもない大いたづら者ぢやが、おのれがこの禁野へ毎日殺生に出ると云ふによつて、今日は捕らへて丸裸にせうと思うて、云ひ合はせて来た。身共はこれを取つて退くぞ。
▲シテ「あのすつぱめ。憎い奴の。その弓矢をおこさしめ。一矢に射てやらう。
▲オモ「又そのつれな事を云ふ。おのれこそ、ひと矢に射殺いてやらう。
▲シテ「あゝ。命ばかりは助けてくれい、助けてくれい。
▲オモ「どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「云ひ出いた」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
2:底本は、「参つて」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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