『能狂言』上32 大名狂言 がんつぶて
《雁をば初めより大臣柱の元へ出し置く、尤、大臣烏帽子にてするなり》
▲シテ「これは、いづれもご存じの者でござる。この間は久しういづ方へも出ねば、心が屈して悪しうござる。今日は天気も良うござるによつて、野遊びに出ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に今日は天気も良うござるによつて、何ぞ獲物のないと申す事はござるまい。その上、一両日中には各々を申し入るゝ筈でござるによつて、何ぞ射たらばその時分のもてなしに致さうと存ずる。いや。何かと云ふ内に、はや野へ出た。いつもこの辺りには鳥が居るが、今日はすきと見えぬ。いや。あれに雁が居る。さらばこれを射て取らう。
《と云うて弓矢番ひ、名乗座より狙ひ、「いやいや。これからは遠い」と云うて、目付柱の方より狙ひ、「これからは寄りにくい」と云うて、笛の上の方へ行き、弦など湿し、矢を矯めなどして居る内に、アド出て打ち殺す。シテ{*1}目付柱の方へ行て狙ふ時分、アド出て良し。一の松にて名乗る》
▲アド「なうなう。忙しや。急なお使ひに参る。急いで参らう。いや。あれに見事な雁が居る。礫を打つて見よう。《石を拾うて打ち付くる真似する》
ゑい。やつとな。さればこそ当たつた。なうなう。嬉しや嬉しや。さらば持つて参らう。
▲シテ「やいやいやい。そこな者。
▲アド「やあ{*2}。
▲シテ「やあとは、おのれ憎い奴の。なぜに諸侍の狙ひ殺いた雁に手をさゆるぞ。
▲アド「いや。申し。見ればこなたは御仁体でござるが、よう思うても見させられい。何とこの雁が、狙うたばかりで死ぬるものでござるぞ。これは私の礫で打ち殺いた雁でござるによつて、かう持つて参る。
▲シテ「おのれ、そのつれを云うて。そこへ置いて行かずば、ために悪からうぞよ。
▲アド「ために悪からうと云うて、何と召さるぞ。
▲シテ「目に物を見せう。
▲アド「それは誰が。
▲シテ「身共が。
▲アド「こなたの分で目に物を見せうと云うて、深しい事があるものか。
▲シテ「ていとさう云ふか。
▲アド「おんでもない事。
▲シテ「悔やまうぞよ。
▲アド「何の悔やまう。これはどうあつても身共が持つて参る。
▲シテ「おのれ、ひと矢に射殺いてくれう。
▲アド「あゝ。許させられい。
▲シテ「おのれ、逃げたりと逃がさうか。《一遍追ひ廻りて》
▲アド「あゝ。出合へ出合へ出合へ。
▲支人「あゝ。いや。申し申し。この御政道正しい御代に、殊に見れば御仁体でござるが、何事をわつぱと仰せらるゝぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。和御料も聞いてくれさしめ。今日は天気も良いによつて、野遊びに出ておりやるが、あれに雁が居たによつて、身共が狙ひ殺いて置いたれば、あれ、あの者がいづ方からやら来て、取つて行かうと云ふによつて、それを云ひ上がつての事ぢや。某が狙ひ殺いた雁ぢやによつて、取つてくれさしめ。
▲支人「その通り申しませう。まづ待たせられい。
▲シテ「心得た。
▲支人「いや。なうなう。その雁は、あのお侍の狙ひ殺して置いた雁ぢやと云はるゝ程に、あのお侍へ返さしめ。
▲アド「いや。申し。こなたもよう思し召しても御らうぜられい。生きた雁が{*3}、何と狙うたばかりで死ぬるものでござるぞ。これは私の礫を打つて打ち殺いた雁でござるによつて、返す事はならぬと云うて下されい。
▲支人「心得た。
申し申し。その通り申してござれば、あの者が礫で打ち殺いた雁ぢやにより、進ずる事はならぬと申しまする。
▲シテ「又そのつれな事を云ひまする。よう思うてもお見やれ。あの雁が、何と礫などで死ぬるものであらうぞ。どうあつても身共が狙ひ殺いた雁に違ひはない程に、是非ともこちへおこせと云うておくりやれ。
▲支人「心得ました。
いや。なうなう。今のをお聞きやつたか。
▲アド「中々。承つてござる。
▲支人「とかくこれでは理非に分からぬによつて、身共が思ふは、その雁を元の所へ置いて、あのお侍に射させて、当たつたならばお侍におまさうず。もし当たらずば、和御料、取つて行たが良うおりやる。
▲アド「これは一段と良うござらうが、最前は生きた雁でござる。只今は死んだ鳥でござるによつて、これは当たるは必定でござる。これはなりますまい。
▲支人「いやいや。さう仰しやるな。あの人の体を見た処が、中々当たりさうにはないによつて、平に身共が云ふ通りにさしめ。
▲アド「その儀ならば、ともかくも致しませう程に、その通り云うて下されい。
▲支人「心得た。
いや。申し申し。これではとかく理非が分かりませぬによつて、あの雁を元の所へ置いて、こなた射させられて、当たつたならば取らせられうず。もし当たらずば、あの者に遣らせられたが良うござる。
▲シテ「和御料も、よう思うてもお見やれ。最前生きた時でさへ狙ひ殺いたものを、今では当たるは知れた事ぢや。射るには及ばぬ程に、こちへ取つてくれさしめ。
▲支人「さりながら、これを射させられねば、こなたのお負けでござる。
▲シテ「何ぢや。某が負けになる。
▲支人「中々。
▲シテ「それならば是非に及ばぬ。射て見せう程に、最前の所へ雁を置けと云うておくりやれ。
▲支人「心得ました。これこれ。今の通り云うたれば、射て見せう程に、元の所へ置けと云はるゝ。
▲アド「それならば元の所へ置きませう。確かこの辺りでござつた。
▲シテ「これこれ。その辺りではない。つゝとこちでおりやる。
▲アド「いやいや。この辺りでござる。さあさあ。早う射させられい。
▲シテ「それならば、今射て見せう。《と云うて矢つがひて、舞台の真ん中頃よりつかつかと雁の方へ行くを見て》
▲アド「あゝ。申し申し。何と、生きた雁がその様に近う寄する処でござるぞ。その上、最前はその辺りにはござらぬ。つゝとあれにござつた。元の所から射させられい。
▲シテ「いやいや。最前もこの辺りから狙ひ殺いた。
▲アド「いやいや。その辺りではござらぬ。つゝとあれでござる。
▲シテ「それならば、この辺りから射て見せう。《と云うて射る。当たらぬ故、アトは雁を取つて笑うて、「良い仕合せをした」と云うて引つ込む。仲媒も笑うて、「殊の外の下手ぢや」と云うて引つ込むを見て》
やいやいやい。
▲アド「やあ。
▲シテ「その雁は取るとも、片羽交ひなりとも置いて行け。
▲アド「片羽交ひを何にする。
▲シテ「羽箒にするいやい。
▲アド「いやいや。かたはがひも遣る事はならぬぞならぬぞ。《と云うて引つ込む》
▲シテ「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて追ひ入る》
校訂者注
1:底本、ここに「シテ」はない。『狂言全集』(1903)に従い補った。
2:底本は、「や」。
3:底本は、「又雁が」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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