『能狂言』上33 大名狂言 がんぬすびと
▲シテ「遠国に隠れもない大名です。長々在京致す処に、訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を頂き、新地を過分に拝領致し、その上国元へのお暇までを下されてござる。この様なありがたい事はござらぬ。まづ太郎冠者を呼び出いて、悦ばせうと存ずる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。長々在京する処に、訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を頂き、新地を過分に拝領したは、何とありがたい事ではないか。
▲冠者「かやうのお仕合せを待ち受けまする処に、近頃めでたう存じまする。
▲シテ「それよそれよ。それにつき、まだ汝が悦ぶ事があるいやい。
▲冠者「それは又、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「国元へのお暇までを下された。
▲冠者「これは重ね重ね、思し召す儘のお仕合せでござる。
▲シテ「その通りぢや。扨、これといふも、各々のお取り成し故ぢやによつて、いづれもをざつと振舞うて、その上で国元へ下らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「いかさま、これはそれが良うござらう程に、お振舞ひの上で下らせられたが良うござる。
▲シテ「それならば、台所に何ぞ肴があるか。
▲冠者「いや。今日はお台所に、何も肴はござりませぬ。
▲シテ「何ぢや。ない。
▲冠者「中々。
▲シテ「いゑ。肴町にはあらうか。
▲冠者「何が扨、肴町にないと申す事がござらうか。肴町にはござりませう。
▲シテ「その儀ならば、汝は大儀ながら今から肴町へ行て、何ぞ求めて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「早う戻れ。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、めでたい事でござる。頼うだお方のご訴訟も思し召す儘に叶ひ、新地を過分に拝領なされ、その上お国元へのお暇までを下されたと仰せらるゝ。この様な悦ばしい事はござらぬ。それについてお振舞ひをなさるゝによつて、肴町へ行て、肴を求めて来いと仰せらるゝ。急いで肴町へ参らう。かう参つても、何ぞ良い肴があれば良うござるが。さりながら、何ぞないと申す事はござるまい。いや。来る程に肴町ぢや。はあ。浦が荒れたと見えて、これは何もない。いや。これに何やらある。
なうなう。御亭主。それは何でござる。
▲売り手「これは初雁でござる。
▲冠者「何と新しうござるか。
▲売手「取り取りでござるによつて、随分新しうござる。
▲冠者「代物はいか程でござる。
▲売手「三百疋でござる。
▲冠者「それは高直にござる。二百疋に負けて下されい。
▲売手「それならば、二百疋に負けて進じませう。
▲冠者「それは忝うござる。かう持つて参らう。
▲売手「いや。これこれ。代りを置いてござれ。
▲冠者「代りとは。
▲売手「この雁の代りを置いてござれ。
▲冠者「いや。某は、頼うだ人のみ内の太郎冠者でおりやる。
▲売手「いや。その頼うだ人から致いて知らぬものを。
▲冠者「これは尤ぢや。それならば、今戻つて代りを取つて参る程に、その内店を引いて置いてくれさしめ。
▲売手「いかにも引いて置きませう。さりながら、遅いと店を出しまする程に、さう心得さしめ。
▲冠者「心得た。追つ付け参らう。
《雁売りは店を引く》
▲冠者「扨も扨も、不念な事を致いた。急いで戻つて代りを取つて参らう。某も某、又頼うだ人も頼うだ人ぢや。代りなしにはおこさぬ筈でござる。いや。戻り着いた。
申し。頼うだお方。ござりまするか。太郎冠者が戻りました。
▲シテ「いゑ。太郎冠者が戻つたさうで、声が致す。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲冠者「ござりまするか、ござりまするか。
▲シテ「ゑい。戻つたか。
▲冠者「只今戻りました。
▲シテ「扨、云ひ付けた肴物は、何を求めて来たぞ。
▲冠者「初雁を求めて参りました。
▲シテ「出かいた出かいた。早う見せい。
▲冠者「まだ肴町にござる。
▲シテ「肴町にある物が、晩の用に立つものか。
▲冠者「さればその事でござる。三百疋と申す雁を二百疋に値直いてござれども、代りを持つて参らぬによつて、雁をおこしませぬ。
▲シテ「なぜに身が内の者ぢやと云はぬ。
▲冠者「左様に申してござれども、こなたから致いて存ぜぬと申しまする。
▲シテ「それならば、先度そちに渡いたは何とした。
▲冠者「もはや久しい事でござるによつて、使ひ切つてござらぬ。
▲シテ「恥づかしい事なれども、長々の在京なれば、身共が方にも使ひ切つてないが、何としたものであらうぞ。
▲冠者「それならば、お振舞ひを延べさせられたが良うござる。
▲シテ「延ばす事もならぬ。
▲冠者「それはなぜにでござる。
▲シテ「汝が行た後で、いづれもへ人を遣つたれば、各々お揃ひなされて、晩程御出なされうと云うて来た。
▲冠者「扨々、それは早い事をなされました。私が戻つた上の事になさるれば良うござるに。これはまづ、何となされて良うござらうぞ。
▲シテ「汝は日頃才覚な者ぢやによつて、雁を只取る調儀をせい。
▲冠者「いかに才覚なと申して、代りなしに雁が只取らるゝものでござるぞ。あゝ、苦々しい事をなされたが。何と致いて良うござらうぞ。
▲シテ「されば何として良からうぞ。
▲冠者「いゑ。こなたの肴町まで御出なさるれば、ざつと済む事でござる。
▲シテ「身共が行て済む事ならば、いづ方までも行かうが、まづ何とするぞ。
▲冠者「さればその事でござる。最前も申す通り、三百疋と申す雁を二百疋にねないてござれども、代りがござらぬによつておこしませぬ程に、今戻つて代りを取つて来るによつて、その間店を引いて置いてくれいと申してござれども、余程間もござるによつて、定めて店を出いたでござらう処へ、こなたの御出なされて、雁を求めうと仰せられたならば、お大名と見受けまして、定めて値良う申すでござらう程に、きやつが申す通りに買はせられたが良うござる。
▲シテ「何と代りなしに雁が買はるゝものぢや。
▲冠者「そこが調儀でござる。処へ私の参つて、代りを持つて来た程に、雁を持つて参らうと申しませうが、こなたへ値良う上げた事ゆゑ、中々私の方へはおこしますまい。
▲シテ「誠に、汝が方へはやるまい。
▲冠者「その時、亭主と一つ二つ申し上がつて喧嘩を致しませうが、何とでござらうぞ。
▲シテ「これは良からうが、この御政道正しい御代に、喧嘩がなるものか。
▲冠者「いや。作り喧嘩でござるによつて、苦しうござるまい。
▲シテ「誠に、苦しうあるまい。
▲冠者「処でこなた、お腹を立てさせられて、刀の柄にお手を掛けさせられい。それを見ましたならば、定めて亭主は肝を潰いて、こなたへすがつて止めませう。その内に私は雁を取つて外しませうが、これは何とでござらう。
▲シテ「誠にこれは一段と良からうが、その肴町はどこ元ぢや。
▲冠者「これを真つ直に御出なされて、左へひぢたをらせらるれば、角から三軒目の新しい家でござる。
▲シテ「あの辺りは大方覚えて居る。それならば行かう程に、汝はつがひの抜けぬ様に後から来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「扨も扨も、才覚な者を使へば、雁を只取る調儀を致す。まづこれを真つ直に行て、左へひぢたをれば、角から一軒二軒三軒。いや。太郎冠者が申したは、この家の事でござらう。
やいやい。亭主亭主。
▲売手「はあ。
▲シテ「それは何だ。やい。
▲売手「これは初雁でござる。
▲シテ「何と新しいか。
▲売手「取り取りでござるによつて、随分新しうござる。
▲シテ「して、代物はいか程ぢや。
▲売手「五百疋でござる。
▲シテ「五百疋に身が買はんず買はんず。どちへも遣るな。
▲売手「遣る事ではござらぬ。
▲冠者「いや。良い時分ぢや。頼うだ人が待ち兼ねてござらう。急いで参らう。
《と云うて廻り掛かる。シテも待ち遠がり、そろそろと廻り掛かりて、太郎冠者に行き合ひ、互にうなづきて、後へ戻りて》
なうなう。ご亭主。代りを持つて参つた。この雁を持つて参らう。
▲売手「あゝ。これこれ。遣る事はならぬ。
▲冠者「それはなぜに。
▲売手「さればその事ぢや。最前遅くは店を出すと云うた。則ちそなたが余り遅いによつて、店を出いたれば、あれ、あのお大名へ値良う上げた程に、そなたへ遣る事はならぬ。
▲冠者「これはいかな事。それ故最前、店を引いておくりやれと云うた。どうあつても、先に身共が求めて置いた雁ぢやによつて、こちへ取らねばならぬ。
▲シテ「やいやい。亭主亭主。
▲売手「はあ。
▲シテ「どちへも遣るな。
▲売手「遣る事ではござらぬ。
いやいや。何程云うても、遅いによつて店を出いた。どうあつても遣る事はならぬ。
▲冠者「いやいや。身共が先へ求めた雁ぢやによつて、是非ともこちへ取らねばならぬ。
▲売手「遣る事はならぬ。
▲シテ「やいやいやい。そこな奴。
▲冠者「やあ。
▲シテ「やあとは。おのれ憎い奴の。誰が者なれば、諸侍の求めた雁に手をさゆるぞ。
▲冠者「やあら。こなたも見ればご仁体でござるが、むさとした事を仰せらるゝ。そもやそも、この雁づれに主の名が名乗らるゝものでござるか。これは私の初めに値ないた雁でござるによつて、私が持つて参る。
▲シテ「おのれ、そのつれな事を云うたらば、ために悪からうぞよ。
▲冠者「ために悪からうと云うて、何となさるゝ。
▲シテ「目に物を見せう。
▲冠者「それは誰が。
▲シテ「身共が。
▲冠者「《笑うて》某も、似合ひに主を持つて居まする。こなたの目に物を見せさせられたりとも、深しい事はござるまいぞ。
▲シテ「ていとさう云ふか。
▲冠者「おんでもない事。
▲シテ「たつた今、目に物を見せう。《と云うて、右の肌脱ぎ、刀の柄へ手を掛くる》
▲冠者「これは身共が持つて参る。
▲売手「いやいや。遣る事はならぬ。
▲シテ「亭主。そこをのけ。ひと打ちにしてくれう。
▲売手「あゝ。聊爾をなさるゝな。
▲シテ「いやいや。そこをのけと云うに。《と云うて、伸び上がりて、太郎冠者、雁を取つたか取らぬかを見る》
▲売手「何とぞご免なされて下されい。
▲シテ「《太郎冠者、雁を取りしを見て》むゝ。亭主の詫び言か。
▲売手「中々。私のお詫び言でござる。
▲シテ「それならば堪忍をせう。《と云うて、脇へのく》
▲売手「南無三宝。雁を外された。《と云うて、引つ込むなり》
▲シテ「扨、太郎冠者は何としたか知らぬ。
▲冠者「頼うだ人は何となされたか知らぬ。
《互に正面にて行き逢うて》
▲シテ「いゑ。太郎冠者。
▲冠者「ゑい。頼うだ人。
▲シテ「何と、取つたか取つたか。
▲冠者「取りました取りました。
▲シテ「何と取つたか。
▲冠者「まんまと取りましてござる。
▲シテ「扨、今の喧嘩は何とあつたぞ。
▲冠者「存ぜぬ者が見ましたならば、定めて誠の喧嘩ぢやと存じませう。
▲シテ「誠に、知らぬ者が見たならば、作り喧嘩とは思ふまいぞ。
▲冠者「扨、こなたには早い事をなされましたの。
▲シテ「早い事とは。
▲冠者「亭主と一つ二つ申し募つた時分、棚の端へちよつとお手が参りましたが、何を取らせられたぞ。
▲シテ「こゝな者は。諸侍が、何とその様なさもしい事をするものぢや。
▲冠者「いやいや。隠させらるゝな。確かに見ましてござる。
▲シテ「いやいや。何も取らぬ。
▲冠者「それ程隠させらるゝならば、私の雁もお目に掛けますまい。
▲シテ「すれば、真実見たか。
▲冠者「中々。見ましてござる。
▲シテ「辺りに人はないか。
▲冠者「いや。誰も居りませぬ。
▲シテ「それならば見せう程に、これへ出い。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「まだ出い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「国元への土産にせうと思うて、これ、これを取つたわ。《懐より紫のふくさを出して見する》
▲冠者「私は雁を取りました。
▲シテ「近頃出かいた。急いで毛をひかせい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
《「麻生」「雁盗人」などは、わざと片言の国郷談を入るゝなり》
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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