『能狂言』上35 大名狂言 おにがはら

《名乗り、「雁盗人」の如く、太郎冠者呼び出し、云ひ聞かせて》
▲シテ「扨、かやうに何事も思ひの儘に叶ふと云ふも、日頃因幡堂のお薬師を信仰するによつて、そのご利生であらうと思ふによつて、お礼お暇乞ひに参詣せうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、追つ付けて行かう。供をせい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする。
▲シテ「扨、国元ではこの様な事は知らいで、今日か明日かと待ちかねて居るであらう。
▲冠者「さぞお待ちかねでござりませう。
▲シテ「戻つてこの仕合せを話いたならば、さぞ悦ぶであらうぞ。
▲冠者「殊ないご満足でござらう。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に参り着いた。
▲冠者「誠にお前でござる。
▲シテ「汝もこれへ寄つて拝め。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「扨、いつ参つても森々とした殊勝なお前ではないか。
▲冠者「仰せらるゝ通り、殊勝なお前でござる。
▲シテ「扨、身共が思ふは、この度仕合せ良う国元へ下るも、ひとへにこのお薬師のご利生ぢやによつて、国元へ下つたならば、このお薬師を移いて安置せうと思ふが、何とであらうぞ。
▲冠者「これは一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、これ程にこそならずとも、この御堂は格好の良いみ堂ぢやによつて、とてもの事にこの格好に御堂をも建てうと思ふ程に、汝もこゝかしこを篤と見覚えて置け。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「扨も扨も、あの欄間の彫り物などは、殊の外手の込うだ事ぢやなあ。
▲冠者「誠に手の込うだ事でござる。
▲シテ「とてもの事に、後ろ堂へ廻つて見よう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする。
▲シテ「このみ堂は、飛騨の匠が建てたと云ふが、誠にどれから見ても、なりの良いみ堂ぢやなあ。
▲冠者「どれから見ましても、なりの良い御堂でござる。
▲シテ「やい。太郎冠者。あの破風などは、何と手の込うだ事ではないか。
▲冠者「殊の外念の入つた破風でござる。
▲シテ「やい。太郎冠者。
▲冠者「何事でござる。
▲シテ「あの破風の上にある物は何ぢや。
▲冠者「はあ。あれは鬼瓦でござる。
▲シテ「何ぢや。鬼瓦ぢや。
▲冠者「中々。
▲シテ「はあ。あの鬼瓦は、誰やらが顔によう似たが。
▲冠者「いや。申し。あれに似た顔はござりますまい。
▲シテ「いやいや。よう似た者があつたが、誰であつたか。をゝ。それそれ。《泣く》
▲冠者「いや。申し。頼うだ人。こなたは何を嘆かせらるゝぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。最前から、あの鬼瓦が誰やらによう似たよう似たと思うたれば、国元の女共にその儘ぢや。《と云うて泣く》
▲冠者「誠に、仰せらるればどこやら似ましてござる。
▲シテ「あの目のくるくるとした所、また鼻のいかつた所などは、その儘ではないか。
▲冠者「いかさま、よう似ましてござる。
▲シテ「扨又、あの口の耳せゝまでくわつと切れた所は、常々汝を叱る時の面によう似たではないか。
▲冠者「成程、私を叱らせらるゝ時のお顔に、よう似ましてござる。
▲シテ「こゝ元で身共が内の者を誰見た者もあるまいに、この様にも生き写しにするといふは、不思議な事ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「身共はあの鬼瓦を見たれば、しきりに女共が懐かしうなつたいやい。《泣く》
▲冠者「近頃御尤でござる。いや。申し申し。頼うだお方。よう思し召しても見させられい。この様にお仕合せ良うて、追つ付け下らせらるれば、その儘逢はせらるゝ事でござる。嘆かせらるゝ処ではござるまい。御機嫌を直させられい。
▲シテ「誠にそちが云ふ通り、追つ付け下れば逢はるゝ事ぢや。その上、仕合せ良う下るに、何も嘆く処ではない。さらば機嫌を直いて、いざどつと笑うて戻らう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「それへ出い。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「まだ出い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「さあ、笑へ。
《二人笑うて留めるなり》
《「墨塗」「鬼瓦」など、長上下にてする時は、大名と名乗らずにすべし。その他も少々づゝ変へるべし》

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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