『能狂言』上36 大名狂言 はぎだいみやう

▲シテ「遠国に隠れもない大名です。永々在京致せば、心が屈して悪しうござるによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと存ずる。《常の如く、太郎冠者呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。永々在京すれば心が屈して悪しいによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「御意なくば申し上げうと存じてござる。これは一段と良うござりませう。
▲シテ「さりながら、この辺りは大方見尽くいたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へ行きたいものぢや。
▲冠者「誠に、この辺りは大方見物なされましたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へお供申したうござるが、どこ元が良うござらうぞ。
▲シテ「汝、分別をして見よ。
▲冠者「さればどの辺りが良うござらうぞ。
▲シテ「どこ元が良からうぞ。
▲冠者「いゑ。下京辺に良い庭を持たれたお方がござるが、これに只今、宮城野の萩が盛りでござる。これへお供致しませう。
▲シテ「それは行きたいものぢやが、先の亭主と知る人でないによつて、え行かれまい。
▲冠者「それは苦しうござらぬ。かねて私の知る人になつて置きましてござる。
▲シテ「いゑ。それならば追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲冠者「まづ待たせられい。
▲シテ「待てとは。
▲冠者「あれへお腰を掛けさせらるれば、決まつて亭主が歌を所望致しまするが、それがなりませうか。
▲シテ「はて。亭主が所望するならば、恥づかしい事ぢやが、一つ二つ謡はうまでよ。
▲冠者「こなたの仰せらるゝは小歌の事。私の申すは三十一字ある歌の事でござる。
▲シテ「こゝな者は。三十一字ある歌もあらうず。又五十字百字ある歌もあらうわ扨。
▲冠者「さりとては、その小歌の事ではござらぬ。三十一字に限つて、萩の花を折り入れ当座に詠む歌の事でござる。
▲シテ「その様な難しい所ならば、行くまいまでよ。
▲冠者「はて。これ程にまで思し召し立たせられて、御出なされぬと申すは残念な事でござる。いや。それについて、辺りの若い衆の、萩を見に行くとあつて歌の下詠みをして置かれたを、私が承つて覚えて居りまする。これをこなたへ教へませうが、何とでござる。
▲シテ「扨、その歌は、何といふ歌ぢや。
▲冠者「別に難しい事もござらぬ。七重八重九重とこそ思ひしに、十重咲き出づる萩の花かなと申す歌でござる。
▲シテ「まづは面白さうな事ぢやが。扨、それは誰が云ふ事ぢや。
▲冠者「こなたの仰せらるゝ事でござる。
▲シテ「身共一人で。
▲冠者「歌を幾たりで詠むものでござる。
▲シテ「いかないかな。その様な難しい事が、一年や二年習うて云はるゝ事ではないやい。
▲冠者「これ程の事がなりませぬか。
▲シテ「中々。
▲冠者「扨々、それは苦々しい事でござる。はあ。何と致いて良うござらうぞ。
▲シテ「されば何として良からうぞ。
▲冠者「いゑ。物によそへては何とでござる。
▲シテ「いかに某が愚鈍なと云うて、物によそへて覚えられぬ事はあるまいが。扨、何によそふるぞ。
▲冠者「まづこの扇子と申す物が、大数、骨の十本ある物でござる。
▲シテ「をゝ。十本ある物ぢや。
▲冠者「七重八重と申す時は、七本八本開きませう。九重に九本、十重咲き出づるに、ぱらりと開きませうが、何とでござる。
▲シテ「一段と良からうが、まだ後に何やらある様な。
▲冠者「この後の萩の花かなは、なりませう。
▲シテ「むゝ。これもなるまい
▲冠者「これ程の事がなりませぬか。
▲シテ「中々。ならぬ。
▲冠者「扨々、気の毒な事でござる。これは何によそへたものでござらうぞ。
▲シテ「されば何が良からうぞ。
▲冠者「いや。これも良いよそへ物がござる。
▲シテ「何によそふるぞ。
▲冠者「常々こなたの私を叱らせらるゝに、臑はぎの伸びての屈うでのと仰せらるゝによつて、慮外ながら向かう臑と鼻の先をお目に掛けませう。
▲シテ「これは一段と良からう。それならば追つ付けて行かう。
▲冠者「それが良うござらう。
▲シテ「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする、参りまする。
▲シテ「扨、その庭は、景の良い庭か。
▲冠者「つゝと打ち開いた景の良い庭でござる。あれへ御出なされたならば、何かを差し置いて褒めさせられい。
▲シテ「褒めて良い事からば、いか程も褒めう。扨、程は遠いか。
▲冠者「今少しでござる。急がせられい。
▲シテ「心得た。
▲冠者「いや。参る程にこれでござる。
▲シテ「これか。
▲冠者「こなたのお供致いた通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲シテ「心得た。
▲冠者「物申。案内申。
▲亭主「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲冠者「私でござる。
▲亭主「ゑい。太郎冠者。そなたならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りは召されぬぞ。
▲冠者「左様には存じてござれども、お客ばしござらうかと存じて案内を乞ひました。扨、只今参るも別なる事でもござらぬ。私の頼うだ者が、こなたのお庭を聞き及ばれまして、何とぞ見せて下されうならば忝うござると申されまする。
▲亭主「近頃易い事なれども、この間は不掃除なによつて、お目に掛くる事はなるまい。
▲冠者「その分は苦しうござらぬ。早ご門前まで参られました。
▲亭主「やあやあ。門前まで早御出なされた。
▲冠者「中々。
▲亭主「それならばお目に掛けう程に、かうお通りなされいと仰しやらうず。又、某をも良い時分に引き合はいてくれさしめ。
▲冠者「心得ました。申し。かうお通りなされいと申されまする。
▲シテ「通らうか。
▲冠者「つゝと通らせられい。
▲シテ「亭主は内にか。
▲冠者「内にでござる。つゝと通らせられい。
▲シテ「心得た。はゝあ。これは打ち開いた景の良い庭ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「とてもの事にゆるりと見物せう。床机をくれい。
▲冠者「畏つてござる。
御亭主。あれへ出させられい。
▲亭主「心得た。
▲冠者「はあ。お床机でござる。
▲シテ「太郎冠者。これへ出い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「扨々、これは聞き及うだよりは、打ち開いた景の良い庭ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。それへ出られましたが御亭主でござる。
▲シテ「なうなう、亭主亭主。
▲亭主「はあ。
▲シテ「今日はふと庭を無心申したに、早速見せておくりやつて満足致す。
▲亭主「これは不掃除な所へお腰を掛けられて、面目もござらぬ。
▲シテ「やい。太郎冠者。
▲冠者「はあ。
▲シテ「不掃除なと仰しやるが、隅から隅まで塵が一つもないやい。
▲冠者「常々掃除の者を付けて置かれまする。
▲シテ「さうであらう。やい。太郎冠者。あの島先に見ゆる木は何ぢや。
▲冠者「あれは梅の古木さうにござる。
▲シテ「何ぢや。こぶく。
▲冠者「しい。古木でござる。
▲シテ「古木、見事におりやる。
▲亭主「はあ。
▲シテ「やい。太郎冠者。あの古木に、つゝと地を這うて、上へきつと立ち伸びた枝がある。
▲冠者「ござりまする。
▲シテ「あれが良い仕物がある。
▲冠者「何になりまする。
▲シテ「あそこから引き切つて、茶臼の挽き木。
▲冠者「しい。亭主が承りまする。
▲シテ「なうなう。
▲亭主「はあ。
▲シテ「茶臼の挽き木などにお召さりやるなや。
▲亭主「私の秘蔵の木でござるによつて、むさと左様の物には致しませぬ。
▲シテ「それが良からう。
やい。太郎冠者。こちらの隅に、真つ黒な物が寄せ掛けてある。あれは何ぢや。
▲冠者「あれは立て石さうにござる。
▲シテ「何ぢや。たけ石。
▲冠者「しい。立て石でござる。
▲シテ「なうなう。亭主亭主。
▲亭主「はあ。
▲シテ「立て石、見事におりやる。
▲亭主「あれは北山より引かせましてござる。
▲シテ「それは造作な事の。
▲亭主「はあ。
▲シテ「やい。太郎冠者。あの立て石に、握り拳程白い所がある。
▲冠者「ござりまする。
▲シテ「あれも良い仕物があるいやい。
▲冠者「何になりまする。
▲シテ「あそこから打ちかいて、火打石。
▲冠者「しい。亭主が承りまする。
▲シテ「なうなう。亭主亭主。
▲亭主「はあ。
▲シテ「構へて火打石などにお召さりやるなや。
▲亭主「左様の物に致す事ではござらぬ。
▲シテ「それが良からう。
やい。太郎冠者。又、こちらの隅に真つかいな物が見ゆるが、あれは何ぢや。
▲冠者「あれは宮城野の萩でござる。
▲シテ「かの難しいのか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「萩、見事におりやる。
▲亭主「もはや落花致しました。
▲シテ「何ぢや。落馬した。
▲冠者「いや。落花でござる。
▲シテ「落花、見事におりやる。
▲亭主「はあ。太郎冠者殿。ご存じの通り仰せ上げられて下されい。
▲冠者「心得ました。
はあ。亭主申されまするは、これへお腰を掛けらるゝ程のお方へは、歌を一首づゝ所望申しまする。こなたにも、何とぞ一首遊ばして下されいと申されまする。
▲シテ「何ぢや。亭主が歌を所望する。
▲冠者「中々。
▲シテ「なうなう。亭主亭主。
▲亭主「はあ。
▲シテ「某は田舎者で、つひに歌などを詠うだ事はおりない。これは許いてくれさしめ。
▲亭主「これは定めてお卑下でかなござらう。これへお腰を掛けさせらるゝ程のお方は、皆一首づゝ遊ばしまする。こなたにも、何とぞ一首詠ませられて下されうならば、私の外聞にもなる事でござる。
▲シテ「何ぢや。外聞。
▲亭主「中々。
▲シテ「やい。太郎冠者。異な事を外聞に召さるなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「外聞とも仰しやるによつて、一首詠うでも見ようか。
▲亭主「それは近頃忝うござる。
▲シテ「さりながら久しう詠まぬによつて、ちと案ぜずばなるまい。その内は、つゝとそちらを向いて居てくれさしめ。
▲亭主「畏つてござる。
▲シテ「七本八本。
▲亭主「何ぢや。七本八本。
▲冠者「しい。七重八重でござる。
▲シテ「なうなう。今のはちと違うておりやる。
▲亭主「何とでござる。
▲シテ「七重八重でおりある。
▲亭主「はあ。七重八重。
▲シテ「中々。
▲亭主「まづ、いつ文字が面白い事でござる。
▲シテ「さうであらう。後はなほ面白い事でおりやる。
▲亭主「早う承りたうござる。
▲シテ「追つ付け申さう。九つ時。
▲冠者「しい。九重とこそ思ひしに。
▲シテ「今のはざれ言でおりやる。
▲亭主「はあ。何とでござる。
▲シテ「九重とこそ思ひしにでおりやる。
▲亭主「これは段々面白うござる。
▲シテ「この後はいよいよ面白い事でござる。
▲亭主「早う承りませう。
▲シテ「只今申さう。ぱらりと開いた。
▲冠者「十重咲き出づる。
▲シテ「や。
▲冠者「十重咲き出づる。
《太郎冠者、少し腹を立て、すぐにすねと鼻の先を教へて引込むなり》
▲シテ「面目もない。又違うておりやる。
▲亭主「再々違ひまするの。
▲シテ「今度は、十重咲き出づるでおりやる。
▲亭主「十重咲き出づる。
▲シテ「中々。
▲亭主「ちと吟じて見ませう。
▲シテ「や。
▲亭主「吟じて見ませう。
▲シテ「勝手次第。
▲亭主「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲き出づる。
これは殊の外面白うござる。後を承りたうござる。
▲シテ「この後は、なほなほ面白い事でおりやる。只今申さう。いや。太郎冠者が見えぬ。太郎冠者、太郎冠者。
▲亭主「申し申し。どれへ御出なさるゝぞ。
▲シテ「太郎冠者が見えぬ。
▲亭主「歌に太郎冠者がいるものでござるか。早う今の後を仰せられい。
▲シテ「はて。いるやらいらぬやら、そなたが知つて。太郎冠者、太郎冠者。
▲亭主「さりとては、歌に太郎冠者がいるものでござるか。平に今の後を仰せられい。
▲シテ「むゝ。今の後はあまり面白うもおりない。聞かずとも置かしめ。
▲亭主「面白うないと云うて、歌の後が聞かずに置かれませうか。是非とも仰せられい。
▲シテ「それならば、宿から云うておこさう。
▲亭主「その様な事があるものでござるか。平に今の後を仰せられいと申すに。
▲シテ「今の後は、七重八重でおりやる。
▲亭主「それはいつ文字で、合点でござる。その後は。
▲シテ「その後は、九重とこそ思ひしにであつた。
▲亭主「その後は。
▲シテ「はて。十重咲き出づるでおりやる。
▲亭主「それでは字が足りませぬ。
▲シテ「足らずば足らぬと疾う仰しやらいで。足しておまさうものを。
▲亭主「何と。
▲シテ「十重咲き出づる十重咲き出づると、足る程仰しやれ。
▲亭主「こゝな人は。身共をおなぶりやるか。それでは字が短いと申すに。
▲シテ「短くば短いと仰しやらいで。長うしておまさうものを。
▲亭主「何と。
▲シテ「十重咲き出づる《引く》と、いつまでなりとも引かしめ。
▲亭主「やあら。こなたはいよいよ身共をなぶると見えた。その十重咲き出づるの後を仰しやらぬと、後へも先へもやる事ではないぞ。
▲シテ「はあ。今思ひ出いた。
▲亭主「何と。
▲シテ「物と。
▲亭主「何と。
▲シテ「物と。
▲亭主「何と。
▲シテ「十重咲き出づる。
▲亭主「十重咲き出づる。
▲シテ「太郎冠者が向かう臑。
▲亭主「あのやくたいなし。とつとゝお行きやれ。
▲シテ「面目もおりない。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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