『能狂言』上39 大名狂言 ふじまつ
《初めは「二千石」同断。作り声して案内乞うて、叱る処まで同断》
▲シテ「さればその事でござる。いち人召し使はるゝ太郎冠者の事でござれば、お暇の儀を申し上げたりと、とても下されまいと存じて、忍うで富士参詣を致いてござる。
▲主「富士参詣をすれば、主に暇を乞はぬ法ですか。
▲シテ「はあ。
▲主「憎い奴の。
これはいかな事。散々に折檻を加へうと存じてござれば、富士参詣を致いたと申す。権現への恐れもござるによつて、まづこの度は差し許さうと存ずる。
やいやい。許す。立て。
▲シテ「それは誠でござるか。
▲主「誠ぢや。
▲シテ「真実でござるか。
▲主「一定ぢや。
▲シテ「あら心安や。
▲主「何と気遣ひにあつたか。
▲シテ「いつもよりお気色が変らせられてござるによつて、すはお手討ちにでも合ひませうかと存じて、身の毛を詰めて居りました。
▲主「某も、いつもよりは腹が立つたれども、富士参詣をしたと云ふによつて許いた。これへ出て、富士の様子を語れ。
▲シテ「畏つてござる。天下治まりめでたい御代でござれば、峯から谷、谷から峯まで、参り下向の人ばかりでござる。
▲主「定めてさうであらう。扨、聞けば汝は、見事な富士松を持つて来たとな。
▲シテ「いや。私は左様の物を持つては参りませぬ。
▲主「な隠しそ。夜前、かな法師が告げた。
▲シテ「やあやあ。かな法師が申し上げましたか。
▲主「中々。
▲シテ「持つては参りましたが、あれは人のことづかり物でござる。
▲主「ことづかり物なりと、見する事はなるまいか。
▲シテ「お目に掛くる分は苦しうござらぬ。お目に掛けませう。さらさらさら。あの松でござる。
▲主「あの松か。
▲シテ「中々。
▲主「扨も扨も、聞き及うだよりは木付きの良い、見事な松ぢや。
▲シテ「やいやい。頼うだ人の御出なされた程に、お盃を出せ。何ぢや。代りがない。代りがなくば、古袷なりとも持つて行け。ゑい。
▲主「やいやい。太郎冠者。
▲シテ「何事でござる。
▲主「これは、聞き及うだよりは木付きの良い、見事な松ぢやなあ。
▲シテ「路次すがらも、見る程の者が褒め物に致しました。
▲主「さうであらう。扨、汝が行た後で庭を作り直いたが、島さきにあの松を植うる程のらい地がある。あの松を身共にくれまいか。
▲シテ「最前も申す通り、人のことづかり物でござるによつて、上ぐる事はなりませぬ。
▲主「それならば、替へ事には何とあらうぞ。
▲シテ「替へ事には何とござらうか。
▲主「替へ事と云へば、汝も早、趣くよな。
▲シテ「左様ではござらぬが。先の者に承つて見ようとの事でござる。
▲主「これは尤ぢや。扨、何と替へたものであらうぞ。
▲シテ「何が良うござらうぞ。
▲主「備前三郎の大太刀と替へう。
▲シテ「これは結構な替へ物ではござれども、先の者が太刀を持たする程の者でござらぬによつて、これとはえ替へますまい。
▲主「それならば、これとは替へまい。何が良からうぞ。
▲シテ「何が良うござらうぞ。
▲主「いゑ。鷹犬と替へよう。
▲シテ「これも良い替へ物ではござれども、先に鷹がござらぬによつて、鷹のない犬ばかりはいりますまい。
▲主「誠に、鷹のない犬ばかりはいるまい。何と替へうぞ。
▲シテ「何とが良うござらうぞ。
▲主「惜しけれども、黒の馬と替へう。
▲シテ「繋ぎ所がござらぬ。
▲主「汝が家に繋げ。
▲シテ「あのお馬は口の強いお馬でござつて、小家の一軒や二軒は引き倒しまする。
▲主「誠に口の強い馬ぢやによつて、小家の一軒や二軒は引き倒さう。もはや何も替へう物もない処で、身共は戻らう。
▲シテ「申し。富士の神酒がござるが、戴かせられぬか。
▲主「何ぢや。富士の神酒がある。
▲シテ「中々。
▲主「戴かう程に、これへ持て。
▲シテ「畏つてござる。
はあ。神酒でござる。
▲主「これへ注げ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「この神酒を戴けば、富士禅定したも同じ事ぢやなあ。
▲シテ「御同然でござる。
▲主「今一つ注げ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「恰度ある。
▲シテ「恰度ござる。
▲主「扨、この神酒について思ひ出いたが、汝はいづれもへ交じつて推参を云ふとな。
▲シテ「いや。私は左様の事は申しませぬ。
▲主「な隠しそ。口が良いと聞いた。この神酒に付けて、一句以て参らう。
▲シテ「良うござりませう。
▲主「かうもあらうか。
▲シテ「早出ましたか。
▲主「手に持てる。
▲シテ「手に持てる。
▲主「かはらけ色の古袷。
▲シテ「加へて参りませう。
▲主「早う加へて来い。
▲シテ「畏つてござる。
やいやい。次でものを声高に云ふな。最前の古袷を、早御句になされたぞ。ゑい。
加へて参りました。
▲主「これへ注げ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「扨、今のは付けぬか。
▲シテ「何とやらでござりました。
▲主「手に持てる土器色の古袷。
▲シテ「かうもござりませうか。
▲主「早出たか。
▲シテ「さけごとにあるつぎ目なりけり。
▲主「《吟じて》聞いたよりは、一段と口が良い。もう呑むまい。取れ。
▲シテ「今一つ上がりませぬか。
▲主「いやいや。もはや呑むまい。
▲シテ「それならば取りませう。
▲主「扨、某はこれから山王へ参らう。
▲シテ「お供致しませう。
▲主「いや。おりやるまいものを。
▲シテ「いや。参りませう。
▲主「はて。来いで何とせう。お立ちやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「扨、山王へ参る路次すがら、付け合ひをして、付けずばあの松を取るぞ。
▲シテ「これは迷惑にござる。
▲主「後なる者よ暫しとゞまれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「太郎冠者、太郎冠者。やい。太郎冠者。おのれはそれに何をして居るぞ。
▲シテ「後なる者よ暫しとゞまれと仰せられたによつて、これにとゞまつて居りまする。
▲主「今のは句でおりやる。
▲シテ「やあやあ。御句でござるか。
▲主「中々。
▲シテ「それならばそれと仰せられいで。付けませうものを。
▲主「早う付けい。
▲シテ「ふたりとも渡れば沈む浮き橋を、後なる者よ暫しとゞまれ。
▲主「句は出来たが、仕方を置け。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「上もかたかた下もかたかた。
▲シテ「三日月の水に移ろふ影見れば、上もかたかた下もかたかた。
▲主「仕方を置けと云ふに。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「下もかたかた上もかたかた。
▲シテ「いや。申し。それは、只今のを下上へなされた分の事でござる。
▲主「上を下へせうが、下を上へせうが、句は身共が儘ぢや。付けずば松を取るぞ。
▲シテ「あゝ。付けませう、付けませう。
▲主「早う付けい。
▲シテ「うつほ木の本末叩くけらつゝき、下もかたかた上もかたかた。
▲主「これから難句を以て参らう。
▲シテ「これはこは物にござる。
▲主「こは物ともに以て参らう。西の海千尋の底に鹿啼きて。
▲シテ「鹿の子まだらに立つは白浪。
▲主「余り句早い。静かに付けい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「奥山に舟漕ぐ音の聞こゆるは。
▲シテ「申し。ちと申し上げたい事がござる。
▲主「それはいかやうな事ぢや。
▲シテ「最前、西の海で啼く鹿を奥山へ遣らせられ、又、奥山で漕ぐ舟を西の海へ遣らせられたならば、良い句が二句出来ませう。
▲主「海で鹿を啼かさうとも、山で舟を漕がさうとも、句は身共が儘ぢや。付けずば松を取るぞ。
▲シテ「あゝ。付けませう、付けませう。四方の木の実やうみ渡るらん。
▲主「《吟じて》いや。何かと云ふ内に、これは早、お前ぢや。
▲シテ「誠に、お前でござる。
▲主「汝もこれへ寄つて拝め。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「扨、いつ参つても森々とした、殊勝なお前ではないか。
▲シテ「誠に、いつ参つても森々と致いて、殊勝なお前でござる。
▲主「この山王の前の鳥居について、一句以て参らう。
▲シテ「良うござりませう。
▲主「かうもあらうか。
▲シテ「早出ましたか。
▲主「山王の。
▲シテ「山王の。
▲主「前の鳥居に丹を塗りて。
▲シテ「赤きは猿の面ぞ可笑しき。
▲主「やい。そこな奴。
▲シテ「はあ。
▲主「おのれは憎い奴の。身共は酔ふ上戸で、色にづるを知つて居ながら、富士の神酒ぢやの何のと云うて、呑ませ居つて。今更色に出たが可笑しいか。
▲シテ「まづお心を静めて、よう聞かせられい。山王のお使者はお猿殿ではござらぬか。そのお猿殿のお顔の赤い事をこそ申せ。こなたのつらの事ではござらぬ。
▲主「まだ面と云ふか。
▲シテ「はあ。
▲主「さりながら、お前ぢやによつて許す。立て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「扨、汝も見事云ひ、某は又、いか程云うても尽くる事ではないによつて、これからは千句に一句、一句詰めで以て参らう。
▲シテ「良うござりませう。
▲主「それへ出い。
▲シテ「心得ました。
▲主「まだ出い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「これも句よ。
▲シテ「あて句をなさるゝ。
▲主「あつと云ふ。
▲シテ「あつと云ふ。
▲主「声にもおのれ怖ぢよかし。
▲シテ「けら腹立てば。
▲主「螻蛄腹立てば。
▲シテ「つぐみ悦ぶ。
▲主「何でもない事。しさり居ろ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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