『能狂言』上40 大名狂言 ちくぶしまゝゐり

《初め、「富士松」同断。「富士参詣」を「竹生嶋参り」と云ふばかりの違ひなり》
▲主「これはいかな事。散々に折檻を加へうと存じてござれば、竹生嶋参りを致いたと申す。天女への恐れもござるによつて、まづこの度は差し許さうと存ずる。《「富士松」の如く云うて》
▲シテ「誠に、天下治まりめでたい御代でござれば、参り下向の人々は、夥しい事でござる。
▲主「定めてさうであらう。扨、何ぞ珍しい事はなかつたか。
▲シテ「別に珍しい事もござりませなんだが、下向道に、夥しう人がこぞつて居りましたによつて、何事ぞと存じて立ち寄つて見ましてござれば、申し。珍しい物が居りました。
▲主「それは何が居つたぞ。
▲シテ「昔より、犬と猿とは仲の悪いものぢやと申しまするが、仲良さゝうにひと所に居りました。
▲主「扨々、それは珍しい事ぢや。
▲シテ「その脇にあぶないものが居りました。
▲主「それは何が居つたぞ。
▲シテ「かはづとくちなはが居りました。
▲主「誠に、これはあぶないものぢやが、何と呑みはせなんだか。
▲シテ「いやいや。呑みは致さいで、彼らが申すは、かやうに出合ふと云ふは珍しい事ぢやと申して、皆秀句を云ひのきに致しました。
▲主「それは、何と云ひのきにしたぞ。
▲シテ「まづそれへ犬が出まして、犬つくばひにつくばひまして、いづれもはこれにござれ。某は往ぬるで候ふと申して、辺りの在所へくはらくはらと駆けて参りました。
▲主「犬の秀句にいぬるで候ふは面白い。それから何であつたぞ。
▲シテ「今度は猿が真つかいな顔を致いて出まして、いづれもはこれにござれ。身共は去るで候ふと申して、傍なる大木へかさかさと駆け上りましてござる。
▲主「猿の秀句に去るで候ふも出かいた。扨、何であつたぞ。
▲シテ「今度は蛙がひたりひたりと出まして、目をしよぼしよぼ致いて、おのおのはこれにござれ。某は帰るで候ふと申して、傍なる溝川へどんぶりづぶづぶと這入りましてござる。
▲主「蛙の秀句に帰るで候ふも面白い。扨、何であつたぞ。
▲シテ「もはやござらぬ。
これはいかな事。頼うだお方のご機嫌を直さうと存じて、むさとした事を申し上げて、くちなはの秀句にほうど詰まつた。何と致さう。
▲主「いや。まだ何やらあつたが、何であつたか。をゝ。それそれ。くちなはであつた。やいやい。くちなはであつたわ。
▲シテ「誠に、くちなはでござつた。
▲主「くちなはゝ何と云うたぞ。
▲シテ「いや。何とも申しませなんだ。
▲主「これはいかな事。皆余の者が云うて、くちなはゞかり云はぬ事はあるまい。云うて聞かせい。
▲シテ「くちなはの。
▲主「中々。
▲シテ「くちなはゝ、往ぬるで候ふ。
▲主「それは犬の秀句で合点ぢや。くちなはの秀句を云へ。
▲シテ「くちなはゝ、くるりくるりと輪になつて、去るで候ふ。
▲主「それも猿の秀句で合点ぢや。くちなはの秀句を云へ。
▲シテ「はあ。くちなはの。
▲主「中々。
▲シテ「くちなはゝ、鎌首をきつと持ち上げ、帰るで候ふ。
▲主「やあら。おのれは身共をなぶるか。それは蛙の秀句ぢや。くちなはの秀句を云はぬと、後へも先へも遣る事ではないぞ。
▲シテ「はあゝ。今思ひ出しました。
▲主「何と。
▲シテ「物と。
▲主「何と。
▲シテ「物と。
▲主「何と。
▲シテ「くちなはゝ。
▲主「《吟じて》くちなはゝ。
▲シテ「くるりくるりと輪になつて。
▲主「輪になつて。
▲シテ「鎌首をきつと持ち上げ。
▲主「持ち上げ。
▲シテ「元の穴へぬらぬら。
▲主「あのやくたいなし。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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