『能狂言』上44 大名狂言 ぶあく

▲主「誰そ居るかやい。誰も居らぬか。次には誰も居ぬか。
▲冠者「いや。呼ばせらるゝさうな。
はあ。呼ばせられまするか。
▲主「声をばかりに呼ぶに。どれに居た。
▲冠者「お次に居りましてござるが、お声を承りませなんだ。
▲主「次には誰も居らぬか。
▲冠者「他に誰も居りませぬ。
▲主「それならば、云ひ付くる事がある。これへ出い。
▲冠者「畏つてござる。
▲主「まだ出い。
▲冠者「心得ました。
▲主「つゝと出い。
▲冠者「はあ。
▲主「例の不奉公者の武悪めは、何としたぞ。
▲冠者「さればその事でござる。今朝も人をおこしましたが、気色も段々に快うござるによつて、この間には出勤をも致さうと、申し越しまして御ざる。
▲主「武悪が取り成し、聞き事におりやる。
▲冠者「はあ。
▲主「今日は汝に云ひ付くる程に、成敗して来い。
▲冠者「畏つてはござれども、あの武悪が事は、幼少より召し使はれた者の事でござるによつて、又異見をも加へませう程に、何とぞこの度は御免なされて下されい。
▲主「それは汝が云ふまでもない。幼少より使うた者なれば、今日は心も直るか、明日は出勤をもするかと思うて居れば、日に増し不奉公が度重なつて、もはや堪忍ならぬによつて、汝に云ひ付くる。是非とも成敗して来い。
▲冠者「お言葉を返しまするは、何とも慮外にはござれども、武悪が事におきましては、幾重にもお詫び言を申し上げまする。
▲主「むゝ。すれば汝は、武悪に頼まれたな。
▲冠者「いや。左様ではござらぬ。
▲主「良うおりやる。
▲冠者「はあ。
▲主「この上は、武悪を成敗せうともさせうず。又、せずともさせうが、ていと仰しやるまいか。
▲冠者「まづ物を云はせられい{*1}。
▲主「物を云はせいとは。
▲冠者「成敗致しませう。
▲主「いや。おしやるまいものを。
▲冠者「いや。致しませう。
▲主「それは誠か。
▲冠者「誠でござる。
▲主「真実か。
▲冠者「一定でござる。
▲主「さうなうて叶はぬ事ぢや。これは重代なれども、これを貸して遣る程に、易々と成敗して来い。
▲冠者「かやうにお受けを申しまするからは、やすやすと成敗致しませう。
▲主「早う戻れ。
▲冠者「心得ました。
▲主「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、苦々しい事でござる。まづかうござらうと存じて、色々異見をも加へてござれども、承引致さいで、今この仕儀になつてござる。是非に及ばぬ。まづそろりそろりと参らう。扨、あの武悪は、日頃心得た者でござるによつて、参るぞ。かゝるぞ、ではなるまいが。何と致さう。いや。たばかつて討たうと存ずる。いや。参る程にこれぢや。お太刀を見付けられてはなるまい。隠いて案内を乞はう。
物申。案内申。武悪は内に居りやるか。
▲シテ「はあ。表に物申とあるが。あれは確かに太郎冠者が声でござる。又、聞きにおこされたものであらう。さりながら、太郎冠者とは日頃申し交はいた事もござるによつて、逢うても苦しうあるまいと存ずる。
▲冠者「物申。
▲シテ「案内とは誰そ。
▲冠者「武悪は内に居りやるか。
▲シテ「さう云ふは、太郎冠者ではないか。
▲冠者「さう云ふは、武悪ではないか。
▲シテ「ゑい。太郎冠者。
▲冠者「ゑい。武悪。
▲シテ「和御料ならば案内に及ばうか。つゝと通りはせなんだぞ。
▲冠者「さうは思うたれども、もし客ばしあらうかと思うて、それ故案内を乞うておりやる。
▲シテ「それは念の入つた事ぢや。扨、頼うだ人のご機嫌は何とあるぞ。
▲冠者「さればその事ぢや。今朝も今朝とてお尋ねなされたによつて、気色も段々快うござるによつて、近々には出勤をも致さうと申し越しました、などゝ申し上げたれば、殊ないご機嫌でおりやつた。
▲シテ「それは近頃満足致す。和御料がお側に居て、お取り成しを云うてくるゝによつて、心長う養生をして、この様な満足な事はおりないぞ。
▲冠者「それはそつとも気遣ひお召さりやるな。さりながら、そなたも段々気色も良さゝうな程に、早う出勤をしたならば良からう。
▲シテ「中々。某も大方快い程に、近々には出勤をもするであらうぞ。
▲冠者「それが良からう。
▲シテ「扨、今は何と思うておりやつたぞ。
▲冠者「只今参るも別なる事でもおりない。そなたに注進があつて参つた。
▲シテ「それは心元ないが。いかやうな事でおりやる。
▲冠者「いやいや。そつとも気遣ひな事ではない。頼うだ人、今晩俄かに客を得させらるゝが、肴にはつたと事を欠かせられた。そなたは時ならず川魚を獲つて上ぐるによつて、それを獲つて上げさせ、鼻に当てゝ出勤をもしたならば、いよいよ御首尾も良からうと思うて、その注進に参つた。
▲シテ「やれやれ。ようこそ知らせておくりやつたれ。幸ひ、裏に生簀程の所があるが、これに魚は夥しうある。獲つて上げう程に、まづ内へ入つて一盃呑むまいか。
▲冠者「いやいや。内も忙しい程に、早う獲つて上げさしめ。
▲シテ「それならば、まづそなたからおりやれ。
▲冠者「いやいや。不案内な程に、和御料から行かしめ。
▲シテ「その儀ならば、身共から参らう。さあさあ。おりやれおりやれ。
▲冠者「参る参る。
▲シテ「最前も云ふ通り、和御料がお側に居て、色々とお取り成しを云うておくりやるによつて、心長う養生をして、この様な満足な事はおりないぞ。
▲冠者「それは、身共が良い様に申し上ぐるによつて、少しも気遣ひさしますな。さりながら、大方良さゝうなによつて、少しも早う出勤をさしめ。
▲シテ「何が扨、この間には出勤をするであらう。いや。来る程にこれでおりやる。
▲冠者「はあ。この池にも魚が居るか。
▲シテ「見た処は小さい池なれども、魚は夥しうある。しいしいしい。あれあれ。あの如く、魚はある事ぢや。
▲冠者「誠に夥しい事ある。扨、これは何ぞ道具でもいるか。
▲シテ「いやいや。別に道具はいらぬ。押し草といふ事をして獲る程に、そなたも這入つて獲らしめ。
▲冠者「いやいや。身共は戻るとその儘、お前へ出ねばならぬ程に、足を濡らいてはならぬ。和御料ばかり這入つて獲らしめ。
▲シテ「それならば、某ばかり這入つて獲らう程に、そなたは、それで草を集めてくれさしめ。
▲冠者「心得た。早う這入らしめ。
▲シテ「心得た。
やつとな。しいしいしい。
▲冠者「あれあれ。あれへも行くわ。
▲シテ「心得た、心得た。
▲冠者「がつきめ。やるまいぞ。
▲シテ「ざれ事をすな。しいしいしい。
▲冠者「うろたへ者。お太刀ぢやが、見知らぬか。
▲シテ「誠に。見ればお太刀ぢや。すれば汝は、真実討ちに来たか。
▲冠者「御意で討ちに来た。覚悟せい。
▲シテ「まづ待て。
▲冠者「待てとは。
▲シテ「物を云はせい。
▲冠者「物を云はせいとは。
▲シテ「さればその事ぢや。一旦のお腹立ちは御尤なれども、お相口を以てお詫び言を申し、又、ともどもお詫び言を云うてくれうそちが、易々とお受けを申して討ちに来る所存は、何とも聞こえぬ事でおりやる。
▲冠者「それは汝が云ふまでもない。お相口を以てお詫び言を申し、某もともどもお詫び言を申し上げたれども、そちが不奉公が度重なつたによつて、汝を成敗せぬにおいては、身共までもお手討になされうとのお事ぢや。背に腹は替へられず、討ちに来た。とても逃れぬ処ぢや。尋常に討たれい。
▲シテ「まづ待て。
▲冠者「待てとは。
▲シテ「それ程にまで思し召し詰めさせられた事ならば、なぜに宿で知らせてはくれぬぞ。宿で知らせたならば、妻子とも暇乞ひをし、又そちとも盃をして、やい武悪。尋常に腹を切れ。介錯をば某がして遣らう、などゝ云ふそちが、たばかつて討つ所存は聞こえぬ事でおりやる。
▲冠者「それも汝に習はうか。宿へ知らせたうはあつたれども、宿で知らせたならば、妻子とも名残が惜しからうず。その上汝は、日頃心得た者ぢやによつて、参るぞ。かゝるぞ、と云うて討ち損なうては、頼うだ人のお名までもづると思うて、たばかつて討ち、後は良い様に弔うてとらせう程に、尋常に討たれい。
▲シテ「まだそのつれな事を云ふか。御意で討ちに来た者に、何しに手向かひをするものぢや。こゝをよう聞いてくれい。某もこの辺りで武悪武悪と云うて、人に黒づらをも見知られた者が、あの武悪こそ、太郎冠者にたばかられ、溝川へぼつ込うで、蛙などを踏み潰いた様に、闇々と討たれたと云はれう事ならば、いかほどそちが弔うてくれても、そつとも受くる事ではない。恨みはそちにとゞまつてあるぞ。《泣くなり》
▲冠者「やあら。汝は日頃の口程にもない、未練な事を云ふものぢや。とやかう云へば、命を惜しむに当たる。とても逃れぬ処ぢや。尋常に斬られい。
▲シテ「まだ云ひたい事もあれども、とやかう云へば命を惜しむに当たると云ふによつて、今それへ上がつて尋常に討たれう。さあさあ。おのれが斬りたからう方より、斬り居れいやい、斬り居れいやい。
《太郎冠者も、太刀振り上げて見て、泣く》
▲冠者「やいやい。汝をひと討ちと思うたれども、その覚悟極めた体を見たれば、日頃の未練が起こつて、太刀の打ち付けう所がない。命を助くるぞ。
▲シテ「まだ人にものを思はする様な事を云ふか。おのれが斬りたからうかたから、斬り居れいやい、斬り居れいやい。
▲冠者「やいやい。何しに偽りを云ふものぢや。則ち、お太刀も鞘に納むるぞ。
▲シテ「それは誠か。
▲冠者「誠ぢや。
▲シテ「真実か。
▲冠者「一定ぢや。
▲シテ「ひとへに命の親と存ずる。
▲冠者「あゝ。勿体ない。その手を取つて立たしめ。
▲シテ「心得た。
▲冠者「扨、これからは、そなたにちと頼み事がある。
▲シテ「それは又、いかやうな事ぢや。
▲冠者「頼うだ人へは、武悪をまんまと手に掛けましたと申し上げう処で、そなたは見えぬ国へ行てくれずばなるまい。
▲シテ「何が扨、見えぬ国へも行かうず。身共が良い手本ぢやによつて、そなたも随分、御奉公を大切に勤めさしめ。
▲冠者「中々。大切に勤むるであらう。和御料も随分、息災におりやれ。
▲シテ「何と、妻子に掛からせらるゝ程の事もあるまいか。
▲冠者「いや。中々妻子に掛からせらるゝ程の事ではあるまい。その分は気遣ひさしますな。
▲シテ「それならば心安い。扨、見えぬ国へ行たならば、これが正真の生き別れといふものぢや。
▲冠者「誠に、生き別れといふものぢや。
▲シテ「さりながら、命さへあらば、又逢ふ事もあらうぞ。
▲冠者「中々。又逢ふ事もあらうとも。まづそれまでは、さらば。
▲シテ「さらば。
▲両人「さらばさらばさらば。
▲冠者「あゝ。扨、致すまいものは宮仕へでござる。武悪をひと討ちと存じたれども、きやつが覚悟極め、首差し延べた処を見たれば、日頃の未練が起こつて、命を助くる事は助けてござるが。これからは、某が身の上が大事ぢや。まづそろりそろりと参らう。さりながら、頼うだ人はつゝと正直なお方ぢやによつて、面白可笑しう申したならば、誠になされぬと申す事はござるまい。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。
申し。頼うだお方。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲主「いや。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲冠者「ござりまするか、ござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲冠者「只今戻りました。
▲主「扨、かの武悪めは成敗したか。
▲冠者「まんまと討ちましてござる。
▲主「や。まんまと討つた。
▲冠者「中々。
▲主「それは誠か。
▲冠者「誠でござる。
▲主「真実か。
▲冠者「真実でござる。
▲主「やれやれ。それはでかいた。身共は汝を遣つた後で、殊の外気遣ひをしたいやい。
▲冠者「それは又、いかやうの事でござる。
▲主「あの武悪めは、日頃心得た者ぢやによつて、参るぞ。かゝるぞ、で討ち損なうては、外聞も悪しいと思うて、いくばくか気遣ひにあつたいやい。
▲冠者「私もぬかる事ではござらぬ。溝川へぼつ込うで、たばかつて討ちましてござる。
▲主「何ぢや。たばかつて、溝川へぼつ込うで討つた。
▲冠者「中々。
▲主「それはでかいた。扨、その太刀の切れ味は、何とあつたぞ。
▲冠者「お大事になされませいわ。只、水などへ打ち込うだ様に、手の内に覚えがござりませぬ。
▲主「さうであらう。親者人の、わざよしぢやと云うて譲られた。
▲冠者「定めて左様でござらう。
▲主「扨、武悪程の者なれども、今日は手討にせうか、明日は汝に云ひ付けて成敗させうかと思うて居たれば、何やら胸の内へ打ち込うだ様にあつたが、今日汝が成敗したといふ事を聞いたれば、心が清々としたいやい。
▲冠者「御尤でござる。
▲主「この様な心面白い時は、遊山に出よう。
▲冠者「良うござりませう。
▲主「東山へ行かう。
▲冠者「尚々でござる。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする。
▲主「扨、武悪が最期は何とあつたぞ。
▲冠者「さすがは日頃の口程ござつて、首差し延べて尋常に討たれましてござる。
▲主「いかさま、さうであらう。身共に逢ひたいとは云はなんだか。
▲冠者「何とぞ今一度お目に掛かりたい、掛かりたい、と申しましてござる。
▲主「きやつは幼少より使うた者ぢやによつて、定めてさうであらう。
《主、廻り掛かると、一の松にて名乗る》
▲シテ「太郎冠者が蔭で、命を助かる事は助かつてござるが、これと申すも、日頃清水の観世音を信仰致すによつて、その御利生であらうと存ずる。又、見えぬ国へ行たならば、再び参詣致す事もなるまいによつて、これよりお暇乞ひに清水へ参らうと存ずる。
《と云ひ、舞台へ入る時、主に行き逢ふ。シテは袖にて顔を隠し、一の松へ屈みて居る》
▲主「太郎冠者。そこをのけ。
▲冠者「何を見させらるゝ。
▲主「今、それへ武悪が出た。行て見て参らう。
▲冠者「いや。申し。武悪は私が手に掛けましてござる。
▲主「何ぢや。手に掛けた。
▲冠者「中々。私の手に掛けました者が、何と出るものでござる。
▲主「いやいや。今のは確かに武悪であつた。行て見て参らう。
▲冠者「いや。申し。私を連れさせらるゝは、何のためでござる。この様な時のためではござらぬか。私が見て参りませう。
▲主「それならば、汝に云ひ付くる程に、きつと見て来い。
▲冠者「畏つてござる。
扨々、むさとした奴ぢや。どこ元に居る事ぢや知らぬ。
やい。こゝなうろたへ者。
▲シテ「面目もおりない。
▲冠者「面目もないと云うて。何としてこれへは出たぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。そなたの蔭で、命を助かる事は助かつたが、これと云ふも、日頃清水の観世音を信仰したによつて、その御利生であらう。又、見えぬ国へ行たならば、再び参詣する事もなるまいによつて、お暇乞ひに清水へ参らうと思うてこれまで出たれば、某が運こそ尽きたれ。今頼うだ人のお目に掛かつた。この上は、そなたに恨みはない程に、身共が首を取つて、頼うだ人のお目に掛けてくれさしめ。
▲冠者「又うろたへた事を云ふ。一旦武悪は私が手に掛けましたと申し上げたものを、今又、これが武悪が首でござると云うて、何とお目に掛けらるゝものぢや。
▲シテ「誠にその通りぢや。とかく、某は途方に暮れて、分別にあたはぬによつて、和御料、良い様に了簡をしてくれさしめ。
▲冠者「扨々、むさとした事をした。これはまづ、何としたものであらうぞ。
▲シテ「されば、何として良からうぞ。
▲冠者「いゑ。今一度そなた、頼うだ人にお目に掛からしめ。
▲シテ「何と、頼うだ人の前へ出らるゝものぢや。
▲冠者「されば、そこが調儀ぢや。最前路次で、武悪が最期は何とあるぞとお尋ねなされた時分、今一度こなたにお目に掛かりたい、掛かりたいと申しましてござると申し上げて置いた処で、そなたは幽霊になつてお目に掛からしめ。
▲シテ「むゝ。某も、今まで色々のものになつたが、つひに幽霊になつた事はおりない。
▲冠者「又うろたへた事を云ふ。誰が幽霊になつた者があるものぢや。昔語りにも聞き及うだであらう程に、幽霊らしう取り繕うて、あの藪の陰から出さしめ。
▲シテ「それならば、幽霊らしう取り繕うて、あの藪陰から出よう程に、そなたは頼うだ人の、傍へ寄らせられぬ様にしてくれさしめ。
▲冠者「その分は心得た。早うお出やれ。
▲シテ「追つ付け出るぞ。《楽屋へ入る》
▲冠者「はて。合点の行かぬ事ぢや。
は。見ましてござる。
▲主「何と、見たか。
▲冠者「あの高い所へ登つて見ますれば、蟻の這ふまでも見えまするが、武悪の事は扨置き、人影も見えませぬ。
▲主「何ぢや。人影もさゝぬ。
▲冠者「中々。
▲主「はて。合点の行かぬ。今のは確かに武悪であつたが。
やい。おのれ、武悪を助けて置いて、後日に知るゝと従類を絶やすぞよ。
▲冠者「弓矢八幡、討ちましてござる。
▲主「何ぢや。弓矢八幡討つた。
▲冠者「中々。
▲主「はて。合点の行かぬ。あの様によう似た者もないものぢや。
▲冠者「いや。私はちと思ひ当たる事がござる。
▲主「それは、いかやうな事ぢや。
▲冠者「最前も申す通り、今一度こなたにお目に掛かりたい、掛かりたいと申してござるが、幸ひ、所は鳥辺野なり。もし武悪が幽霊ばし、出ましたものでござらう。
▲主「何ぢや。武悪が幽霊。
▲冠者「中々。
▲主「むゝ。こゝは鳥辺野ぢやな。
▲冠者「左様でござる。
▲主「はあゝ。今まで心面白うあつたが、武悪が幽霊といふ事を聞いたれば、頻りに怖ろしうなつた。
▲冠者「私も気味が悪うなりました。
▲主「この様な時分には宿へ戻らう。
▲冠者「それが良うござらう。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする、参りまする。
▲主「遊山には、又いつなりとも気分の良い時分にづるが良い。
▲冠者「左様でござる。
▲主「すれば、武悪が最期には、今一度身共に逢ひたいと云うたか。
▲冠者「さればその事でござる。他の事は申さいで、只こなたに今一度お目に掛かりたい、掛かりたいと申しましてござる。
▲主「さうであらう。あれは幼少より使うた者ぢやによつて、某に逢ひたいと云うたは尤ぢや。
《と云うて、橋掛かりへ行き、武悪を見て》
そりやそりや。何やらあれへ出た。
▲冠者「誠に何やら出ましてござる。
▲主「他に道はないか。
▲冠者「他に道はござらぬ。
▲主「まづ待て待て。某程の者が、鳥辺野で異形なものに逢うて、え言葉を掛けなんだとあれば、後難も口惜しい。言葉を掛けう。
▲冠者「さりながら、傍へは寄らぬ{*2}ものでござる。
▲主「中々。寄る事ではない。
やいやい。それへ出たは何者ぢや。
▲シテ「武悪が幽霊でござる。
▲主「やいやい。武悪が幽霊ぢやと云ふわ。
▲冠者「左様に申しまする。
▲主「その武悪は、太郎冠者に云ひ付けて成敗させたが、何としてこれへは出たぞ。
▲シテ「さればその事でござる。御主の命を背いた者でござれば、地獄へも参らず、まして極楽へは参らず。魂は冥途にありながら、魄はこの世にとゞまつて。あゝ。苦しうござる。
▲主「やいやい。太郎冠者。今のを聞いたか。この世で主命を背いた者は、來世までを取り外すと云ふ。汝も随分、大切に奉公をせい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「まだ尋ぬる事がある。
▲冠者「申し。傍へは寄らせらるゝな。
▲主「心得た。地獄極楽があるとも云ひ、無いとも云うて、有無の二見が知れぬが。あるが定か、無いが定か。
▲シテ「地獄も極楽も確かにござる。
▲主「やいやい。太郎冠者。すれば、後生をば願はう事ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「まだ尋ぬる事がある。
▲冠者「申し。必ず傍へ寄らせらるゝな。
▲シテ「寄る事ではない。やい。地獄にも知る人といふ事があるか。汝より先へ行た者に逢ふ事か。但し、逢はぬ事か。
▲シテ「多くのお知る人にお目に掛かつてござるが、中にもこなたの親御様に、お目に掛かりましてござる。
▲主「や。何ぢや、親者人に逢うた。
《これより泣きて、傍へ寄る》
▲冠者「いや。申し申し。傍へ寄らせらるゝな。
▲主「やれやれ。お懐かしや。何となされてござる。早う云うて聞かせいやい。
▲シテ「討死をなされた処でござれば、修羅道へ堕ちさせられ、夜に三度、日に三度の戦ひに、太刀も刀も打ち折らせられてござるによつて、お目に掛かつたならば、お太刀、刀を取つて来いと仰せ付けられてござる。
▲主「やい。太郎冠者。親者人は修羅道へ堕ちさせられたと云ふわ。
▲冠者「左様に申しまする。
▲主「さう云うてくれい。これはこなたの譲らせられた太刀々でござる。則ち、これを進じますると云うて、武悪に届けてくれいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
やいやい。これを遣はさるゝによつて、届けてくれいと仰せらるゝ。
▲主「もはや何もないか。
▲シテ「まだござる。
▲主「あらば早う云うて聞かせい。
▲冠者「申し。傍へ寄らせらるゝな。
▲主「心得た。
▲シテ「あの方はこの方と違ひまして、殊の外暑うござるによつて、扇子をも取つて来いと仰せ付けられてござる。
▲主「やいやい。太郎冠者。この世では刃金をならいた侍が、あの世では扇子一本に事を欠かせらるゝと云ふわ。
▲冠者「左様でござる。
▲主「これは持ち古しましたれども、途中の事でござるによつて、まづこれを進じまする。重ねて良い便りに、いか程なりとも進じませうと云うて、届けて貰うてくれい。
▲冠者「畏つてござる。
やいやい。武悪。今の通り云うて、早うお届け申せ。もはや早う戻つたらば良からう。
▲主「もはや何も云ふ事はないか。
▲シテ「まだござる。
▲主「早う云うて聞かせい。
▲シテ「こなたのお屋敷の狭い事をお心に掛けさせられ、あの方に広いお屋敷を求めて置かせられてござるによつて、お目に掛かつたならば、お供して来いと仰せ付けられてござる。
▲主「やいやいやい。やい。武悪。それは親者人の了簡違ひと云ふものぢや。汝もよう思うて見よ。身共がこの世に居てこそ、親者人の五十年忌も百年忌も弔へ。某があの世へ行て良いものか。戻つたならば、さう云うてくれい。屋敷の狭い事をお心に掛けさせられて、武悪にお言伝を仰せ下されて、近頃忝うござる。さりながら、私はその方の広い屋敷より、この方の狭い屋敷が勝手でござる。その上只今では、隣り屋敷を買ひ足しまして、殊の外広う住まひまするによつて、その方の屋敷は他へ譲らせられいと云うてくれい。
▲シテ「それは、こなたのお卑怯でござる。是非ともお供して来いと仰せ付けられましたによつて、どうあつてもお供致しませう。
▲主「やいやい。汝が跡をも懇ろに弔うてとらせう。早う戻れ。
▲冠者「やいやい。武悪。早う戻らぬか。
▲シテ「いかやうに仰せられても、是非ともお供致さねばなりませぬ。
▲主「まだ、これへ来る。早う戻つてくれい。太郎冠者。早う戻いてくれい。
▲冠者「やいやい。早う戻れ。
▲シテ「それは御卑怯でござる。是非ともお供致さねばなりませぬ。
▲主「あゝ。許いてくれい、許いてくれい。

校訂者注
 1:底本は、「云はさせられい」。
 2:底本は、「側へは入らぬ」。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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