『能狂言』中46 小名狂言 ゐぐひ
▲シテ「これは、この辺りに住居致す、居杭と申す者でござる。こゝに、お目を掛けさせらるゝお方がござるが、これへさへ参れば、居杭よう来たとては頭を張り、ひたもの{*1}頭を張らせらるゝが迷惑さに、清水の観世音へ祈誓を掛けてござれば、ご夢想にこの頭巾を下されてござる。この頭巾を着たならば、頭を張られぬか、但し張られても痛うないか、何ぞ奇特のないと申す事はござるまい。今日はあれへ参り、頭巾の奇特を見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。お宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれでござる。まづ案内を乞はう。
物申。案内申。
▲亭主「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シテ「私でござる。
▲亭主「いゑ。居杭。そちならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせぬぞ。
▲シテ「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、案内を乞ひましてござる。
▲亭主「それは念の入つた事ぢや。扨、この間は久しう来なんだが、何として見えなんだぞ。
▲シテ「さればその事でござる。この間は田舎へ参つて、それ故御無沙汰を申しましてござる。
▲亭主「某は又、その様な事は知らいで、誰ぞ中言でも云うて来ぬかと思うて、気遣ひをしたわ。居杭。
▲シテ「誰もなかごとを申す者はござらぬが、ありやうは、これへさへ参れば、居杭よう来たとては頭を張り、ひたもの{*2}頭を張らせらるゝが迷惑さに、おのづと御無沙汰致しましてござる。
▲亭主「これはいかな事。そちが頭を張るは、憎うては張らぬ。可愛さが余つて張る事ぢやによつて、そつとも心にかけな。居杭。
▲シテ「ご存じのお方は良うござるが、ご存じないお方の思し召しは、あの居杭は、あの様に頭を張られても、何が嬉しうてお出入りをするぞと思し召す処が、迷惑にござる。
▲亭主「これはいかな事。そちが頭を張るは、いづれもご存じの事ぢやによつて、そつとも心にかけな。居杭。
これはいかな事。今まで居た居杭が見えぬ。居杭、居杭。
▲シテ「扨も扨も、不思議な事でござる。この頭巾を着たれば、見えぬさうな。ちと鼻の先へ参らう。
▲亭主「居杭、居杭。居杭はどちへ行たぞ。居杭、居杭。居杭はそれへは行かぬか。居杭、居杭。
▲シテ「いよいよ見えぬさうな。ちと頭巾を取つて見よう。
▲亭主「居杭、居杭。
いゑ、居杭。そちはどちへ行たぞ。
▲シテ「只今、表で人が逢ひたいと申しましたによつて、表へ参りました。
▲亭主「たまたま来ては、早表へ出る。かう通れ。
▲シテ「いや。これが良うござる。
▲亭主「いやいや。平にかう通れ。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲亭主「扨、この間は久しう来なんだ程に、五日も十日も留めて置いて、ひたもの{*3}頭を張らうぞ。居杭。
▲シテ「たとへ往ねと仰せられても、ごにちやじふにちで往ぬる事ではござらぬ。
▲亭主「又、往なうと云うたりとも、往なす事ではないぞ。居杭。
又、居杭が見えぬ。いづ方へ行たか知らぬ。居杭、居杭。
▲シテ「扨も扨も、奇特な事でござる。清水の観世音は験仏者ぢやと申すが、疑ひもござらぬ。
▲算置「占屋算。うらの御用。しかも上手。うらやさん。占の御用。しかも上手。
▲亭主「いや。これへ算置きが参る。一算置かせうと存ずる。
いや。なうなう。しゝ申し。
▲シテ「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござる。
▲亭主「いかにも和御料の事ぢや。そなたは陰陽か。
▲シテ「いかにも、いんにやうでござる。
▲亭主「ちと頼みたい事がある。かう通らしめ。
▲賛置「心得ました。
はあ。これは、こなたのお屋敷でござるか。
▲亭主「中々。身共が屋敷でおりやる。
▲賛置「まづは五百八十年、万々年も御子孫繁昌のお屋敷の図と見えまする。
▲亭主「余の者の云ふと違うて、和御料達のさう仰しやれば、近頃満足する事でおりやる。
▲賛置「これは、我々の存ぜいで叶はぬ事でござる。
▲亭主「さうであらう。扨、頼みたい事がある。まづ下におりやれ。
▲賛置「心得ました。扨、お尋ねなされたいと仰せらるゝは、いかやうな事でござる。
▲亭主「別なる事でもおりない。失せ物でおりやる。
▲賛置「失せ物。
▲亭主「中々。
▲賛置「総じて、失せ物の、待ち人のと申すが、算置きの手取り物でござる。
▲亭主「さうであらう。
▲賛置「扨、いつの事でござる。
▲亭主「今日只今の事でおりやる。
▲賛置「今年は。《年のえと、月日刻限を云うて》まづ手占を置いて見ませう。
たんちやうけんろぎんなんば。
はゝあ。これは、生類でござるの。
▲亭主「扨々、和御料は上手ぢや。いかにも生類でおりやる。
▲シテ「扨も扨も、いかい上手かな。疑ひもない生類でござる。又、何事を申すか。承らう。
▲賛置「この生類が合うて申すはいかゞでござるが、私の置く算はよう合ふとあつて、ある名は仰せられいで、ありやうか、ありやう来たか、などゝ仰せらるゝ事でござる。
▲亭主「定めてさうであらう。扨、その生類が、この屋敷を離れたか離れぬかを見てくれさしめ。
▲賛置「はあ。かう見ました処が、広いお屋敷でござるによつて、手占の分では知れませぬ。一算置きませう。
▲亭主「それならば、一算置いてくれさしめ。
▲賛置「心得ました。只今置き顕はいてお目に掛けませう。まづ今日の卦体が、とうどこれに当たつて居りまする。
▲亭主「はゝあ。これは珍しい算でおりやるの。
▲賛置「これは、お素人かと存じてござれば、良い処へお気が付きました。これは天狗の投げ算と申して、私の家ならで他にない算でござる。
▲亭主「さうであらう。つひに見た事がおりない。
▲賛置「算木配りと申して、これを悉く置き直す事でござるが、殊の外難しい事でござる。
▲亭主「定めてさうであらう。
▲賛置「一徳六害の水、二義七陽の火、三生八難の木、四殺九厄の金、五鬼十の土。水生木、木生火、火生土、土生金、金生水、金克木、金克木。
▲亭主「何とでおりやる。
▲賛置「はあ。大方知れましてござるが。こゝに金克木と克致いた処で、ちと難しうはござれども、さりながら、大方知れましてござる。
▲亭主「何と知れておりやる。
▲賛置「お屋敷の事は扨置き、お座敷を離れぬ失せ物でござる。
▲亭主「いやいや。座敷に居て見えぬ物ではおりない。
▲賛置「扨、それは何でござる。
▲亭主「人でござる。
▲賛置「や。人。
▲亭主「中々。
▲算置「人などが、この曇り霞みもないお座敷の内で見えぬと申すは、何とも不審な事でござる。
▲亭主「それについて、最前から合点の行かぬ事がある程に、きやつが居所を指いてくれさしめ。
▲賛置「居所を指いてくれい。
▲亭主「中々。
▲賛置「これは良い処へお気が付きました。今一算置いて、今度こそ、神変奇特を置き顕はいてお目に掛けませう。
▲亭主「それが良からう。
▲賛置「犬土走れば猿木へ登る。鼠桁走れば猫きつと見たり見たり。
知れましてござる。
▲亭主「何とでおりやる。
▲賛置「こなたの左の方に座して居るとござる。
▲亭主「いやいや。某が左のかたには、何も見えぬぞや。
▲賛置「いや。見た処は見えませぬ。きやつは仏神の加護を得た者と見えまするによつて、中々見た分では見えますまい。ちと捜いて見させられい。
▲亭主「それならば、捜いて見ようか。
▲賛置「それが良うござらう。
▲亭主「やつとな。
▲シテ「これはいかな事。すでに捕らへられうと致いた。ちと所を替へう。
▲賛置「何と、お手に触はりまするか。
▲亭主「何も手へ触はらぬ。
▲賛置「確かに左の方に居るとござるが。
▲亭主「いやいや。何も手が当たらぬ。
▲賛置「申し申し。はや所を替へました。
▲亭主「何ぢや。所を替へた。
▲賛置「中々。
▲亭主「それは、どこに居るぞ。
▲賛置「それは、今一算置かねば知れませぬ。
▲亭主「それならば、今一算置いてくれさしめ。
▲賛置「心得ました。今度こそ、置いたり置いたりと仰せらるゝ様に、置き顕はいてお目に掛けませう。
▲亭主「早う置いてくれさしめ。
▲賛置「大水づれば堤の弱り。何と尤な事ではござらぬか。
▲亭主「尤な事でおりやる。
▲賛置「大風吹けば古家の祟り。これも尤な事でござる。
▲亭主「その通りでおりやる。
▲賛置「あちらとこちらは隣なりけり、となりなりけり。
知れましてござる。
▲亭主「何とでおりやる。
▲賛置「今度は、こなたと私の間に居て、こなたの顔をぢろり、私の算を置く所をぢろりぢろりと見て居るとござる。
▲亭主「そなたは最前もその様な事を仰しやつたが、お見やれ。和御料と某が間には、何も見えぬぞや。
▲賛置「見た処は見えませねども、総じて神隠しなどゝ申して、かやうの事は時々ある事でござる。その上、最前はこなたの声高に仰せられたによつて、きやつが外いたものでござらう。今度はこなたと私と致いて、誑いて捜しませうが、何とござらう。
▲亭主「これは一段と良からう。
▲賛置「構へてぬからせらるゝな。
▲亭主「ぬかる事ではおりない。
▲二人「やつとな。
▲シテ「又、捕らへられうと致いた。何と致さう。いや。致し様がござる。《八卦を取り散らし、算木を取つて》
これこれ。いかな上手でも、これを取つたならば、算は合ふまいと存ずる。
▲賛置「何と、お手には触はりませぬか。
▲亭主「いやいや。何も手にはさはらぬ。
▲賛置「確かにこの辺りに居る筈でござるが。
いや。申し。算の合はぬこそは道理なれ。この様に八卦を取り散らし、その上算木が見えませぬ。こなたの取らせられて、何の役に立たぬ物でござる。こちへ返させられい。
▲亭主「そちはむさとした事を云ふ。身共が取つて、何にするものぢや。
▲賛置「でも、こなたの取らせられいで、誰が取るものでござる。
▲亭主「これこれ。皆、これへ出た。和御料は最前の生類が合うたばかりで、いかい下手ぢや。早う仕舞うて帰らしめ。
▲賛置「こなたは算置きを呼うで、算は置かせうではなうて、なぶらせらるゝと申すものでござる。
▲シテ「ちと喧嘩をさせう。
▲亭主「あ痛、あ痛、あ痛。やい。そこな者。
▲賛置「何事でござる。
▲亭主「なぜに身共が鼻の、抜くる程引いた。
▲賛置「何ぢや。鼻を引いた。
▲亭主「中々。
▲賛置「こなたは物に狂はせらるゝか。身共は算木を仕舞うて居て、そこへ手もやりはせぬものを。
▲亭主「おのれがせいで、誰がするものぢや。
▲賛置「あ痛、あ痛、あ痛。なう。そこな人。
▲亭主「何事ぢや。
▲賛置「何事とは。なぜに某が耳を引かせられた。
▲亭主「そちは気が違うたか。身共はそれへ、手もやりはせぬ。
▲賛置「はて。こなたがせいで、誰がするものでござる。
▲亭主「あゝ。痛、痛、痛。やいやいやい。そこな奴。
▲賛置「やあ。
▲亭主「やあとは。おのれ憎い奴の。諸侍をなぜに打擲した。
▲賛置「何ぢや。打擲。
▲亭主「中々。
▲賛置「《笑うて》いよいよこなたは物に狂ふと見えた。これ。お見やれ。まだ算袋の紐を締めて、そこへ手もやりは致さぬ。
▲亭主「おのれがせいで、誰がするものぢや。
▲賛置「あ痛、あ痛、あ痛。なうなうなう。そこな人。
▲亭主「何事ぢや。
▲賛置「何事とは落ち着いた。算置きも公界者ぢや。なぜに打擲召された。
▲亭主「いや。おのれは、最前から色々の云ひ掛かりをする。某は、それへ手もやりはせぬ。
▲賛置「はて。和御料がせいで、誰がするものぢや。
▲亭主「あゝ。痛、痛、痛。
▲賛置「あゝ。いた、いた、いた。
▲亭主「もはや堪忍ならぬ。果たし合はう。
▲賛置「引く事ではないぞ。
▲亭主「いざ。ござれ。
▲二人「やあやあやあ。
▲シテ「扨も扨も、面白い事かな。
これはいかな事。見れば、誠の喧嘩になつた。出ずばなるまい。
はあ。申し申し。
▲亭主「何やら声が致す。
▲賛置「誠に声が致す。
▲シテ「聊爾をなさるゝな。お尋ねの居杭は、こりや。これに居りまする。
▲亭主「尋ぬる者は、あれでござる。
▲賛置「急いで捕らへさせられい。
▲亭主「あの横着者。捕らへてくれい。
▲二人「やるまいぞ、やるまいぞ。
▲シテ「あゝ。許させられい、許させられい。
校訂者注
1~3:底本は、「したもの」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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