『能狂言』中47 小名狂言 くりやき

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、さる方より重の内を貰うてござる。太郎冠者を呼び出し、推致させうと存ずる。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「居たか。
▲シテ「お前に。
▲主「念なう早かつた。そちを呼び出す事、別なる事でもない。さる方より重の内を貰うた。汝にすいさする程に、まづそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい、この重の内の物ぢや。推して見い。
▲シテ「その御重の内でござらば、定めて御菓子の類でござりませう。
▲主「まづ云うて見よ。
▲シテ「饅頭か芋羹などではござらぬか。
▲主「いやいや、その様な物ではない。
▲シテ「それならば、果物のたぐひではござらぬか。
▲主「それも云うて見よ。
▲シテ「只今時分の事でござるによつて、梨か柿などではござらぬか。
▲主「いやいや、その様な物ではない。これ見よ。栗ぢや。
▲シテ「扨も扨も、これは見事な栗でござる。
▲主「これについて、合点の行かぬ事がある。とても下されう物ならば、五十か七十下されうを、四十下されたは、何とも合点の行かぬ事ではないか。
▲シテ「いや、それは、こなたを思し召す方から進ぜられたものでござらう。
▲主「それはなぜに。
▲シテ「はて。始終末代までも仰せ合はされうとのお事でかなござりませう。
▲主「これは、よう云うてくれた。扨、この栗について、いづれをも申し入れうと思ふが、客は七、八十人もあり、栗は只四十ならではないが、これは何としたものであらうぞ。
▲シテ「それは、良い致し方がござる。まづその栗を焼栗に致いて、ぐわらりぐわらりと摺り砕き、丸じ合はせて進ぜさせられたが良うござる。
▲主「こゝな者は。それでは、この栗の見事な詮がない。
▲シテ「誠に、栗の見事な詮がござらぬが。それならば、私の存じまするは、上座にござるお客へは、その栗を進ぜさせられうず。又、末々のお客へは、余の御菓子でも苦しうござるまい。
▲主「誠に、末の衆は余の菓子でも苦しうあるまい。それならば、汝に云ひ付くる程に、この栗を焼栗にして来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「ぐわらぐわらぐわら。数の決まつた物ぢや。大切に焼いて来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、見事な栗かな。この様な見事な栗は、つひに見た事がござらぬ。扨、これはお末へ持つて参らうか。お台所へ持つて参らうか。いやいや。お末へ持つて行たならば、定めて稚子様方の出させられ、こゝへもくれい。かしこへもくれいと仰せられう。それを進上申さずば、定めておむつかるであらう。これは、只お台所へ持つて参らう。かう持つて参つても、何とぞお台所に良い火があれば、良うござるが。火がなければ、熾いて焼かねばならぬ。いや。来る程に、栗を焼けと云はぬばかりの、上々の熾がある。扨々、これは良い処へ参つた。さらば、あふがう。これはいかな事。最前からおこいて置いたによつて、散々尉が立つ。さらば、まづ一つ焼いて見よう。この火では、その儘焼くるであらう。ぽん。これはいかな事。散々に跳ねた。をゝ。それそれ。栗を焼くには、芽を欠いて焼けと云ふ事があつたを、はつたと忘れた。さらば、芽を欠いて焼かう。これこれ。物をば承つて置かう事でござる。最前からかやうに致いて焼いたならば、一つ跳ばすまいものを。近頃残念な事を致いた。さらば、焼きませう。はゝあ。焼くるわ、焼くるわ。気味の良い事ぢや。この火では、手間もいらず、その儘焼くるでござらう。いや。何かと云ふ内に、片端よりはや焦ぐるさうな。あゝ、熱や、あつや。これは熱い事ぢや。もはやないさうな。さらば、皮を剥かう。あゝ、熱や、あつや。手をしたゝかに焼いた。扨も扨も、見事な栗かな。焼いたれば、ひとしほ見事になつた。はゝあ。これは、ちと焦げ過ぎたが、多い内ぢやによつて、一つばかりは苦しうあるまい。扨も扨も、上々の狐色に焼けた。これも、一段と見事でござる。もはやないさうな。さらば、持つて参らう。扨も扨も、見事な栗かな。この様な見事な栗は、つひに見た事がござらぬ。一つ食うて見たいものぢやが。いやいや。数の極まつた物を、一つ跳ばいたさへあるに、食ふ事はなるまい。只急いで持つて参らう。が、お客へは定めて某が持つてづるであらう。お客の仰せられうは、やい。太郎冠者。その栗の風味は何とあるぞと仰せられた時分に、されば何とござりまするか、存じませぬとは申されまい。一つは頼うだ人の御外聞ぢや。幸ひ、これにちと小さい栗がある。これはお客へは出されまい。これをたべう。扨も扨も、旨い事かな。この様な旨い栗を、つひに喰うた事がござらぬ。今一つたべたいものぢやが。いや。これにちと焦げ過ぎたがある。これこそお客へは出されまい。これをたべう。これはいかな事。散々苦い。旨い口を散々に致いた。腹も立つ。口直しに、この狐色をたべう。扨も扨も、これは又、格別旨い事ぢや。いや。一つ喰うて叱らるゝも、二つ喰うて叱らるゝも、同じ事ぢや。只喰へ喰へ。手が離さるゝ事ではない。扨も扨も、旨い事かな。頤が落つる様な。只喰へ喰へ。これはいかな事。旨い旨いと思うて喰ふ内に、四十の栗を皆喰うた。これはまづ、何としたものであらうぞ。さりながら、頼うだ人は、つゝと正直なお方でござるによつて、面白可笑しう申しないて置かうと存ずる。
申し。頼うだお方。ござりまするか。太郎冠者が、栗を焼いて参りましてござる。
▲主「いや。太郎冠者が栗を焼いて参つたと見えた。太郎冠者。栗を焼いて来たか、焼いて来たか。
▲シテ「ござりまするか、ござりまするか。
▲主「何と、栗を焼いて来たか。
▲シテ「まんまと焼いて参りましてござる。
▲主「一段と出かいた。早う見せい。
▲シテ「さればその事でござる。私の存じまするは、お末へ持つて参らうか、但し、お台所へ持つて参らうかと存じてござるが、お末へ持つて参つたならば、定めて稚子様方の出させられて、こゝへもくれい。かしこへもくれいと仰せられう。それを進上申さずば、おむつかるであらうと存じ、お台所へ持つて参り、まんまと焼栗に致いて、かう持つて参りますれば、後ろから、太郎冠者。太郎冠者と申して呼びまするによつて、何事ぞと存じ、後ろをきつと見てあれば。《謡》
もうせん頭に戴き、鬢髪に黒き髪もなし。老人と老女と夫婦来り給ひて、我はこれ、竈の神。三十四人の父母なり。汝、栗をくれいよ。汝、栗をくれずば、欲しい物を取らすまじ。栗をくれたらば、富貴に守らんと、事委しうものたまへば、あら尊やと思ひて。夫婦に栗を奉る。
申し。かまの神の出させられてござる。
▲主「それは、近頃めでたい事ぢや。
▲シテ「その後から、三十四人の公達の出させられて、やい。太郎冠者。汝はとゝ様かゝ様へは栗を進上申して、なぜに我々へはくれぬぞ、と仰せられてござるによつて、中々。進じませう。さりながら、これは私の進ずるのではござらぬ。頼うだ人の進ぜさせらるゝのでござるによつて、随分富貴に守つて下されいと申して、三十四人の公達へ、づらりつと進上申してござる。
▲主「それは、ようこそ進上申したれ。それならば、残つた栗をおこせ。
▲シテ「もはや残りはござらぬ。
▲主「こゝな者は。まだ四つ残つて居る筈ぢや。
▲シテ「それは、こなたの算用が悪しうござる。まづよう聞かせられい。三十四人の公達へ三十七八。夫婦へ二つ。四十の栗は皆でござる。
▲主「こゝな者は。三十七八といふ算用があるものか。これ。よう見よ。三十四人の公達へ三十四。夫婦へ二つ。三十六。四十の栗ぢやによつて、まだ四つ残つてある筈ぢや。
▲シテ「いや。その内に、一つ虫喰ひがござつた。
▲主「多い内ぢやによつて、一つばかりは虫喰ひもあらう。それならば、残つた三つをおこせ。
▲シテ「扨は、こなたには栗焼く言葉を御存じないと見えました。
▲主「何と、ご存じないとは。
▲シテ「物と。
▲主「何と。
▲シテ「物と。
▲主「何と。
▲シテ「《謡》栗焼く言葉には、栗焼く言葉には。《イロ》
逃げ栗、追ひ栗、灰まぎれとて、三つは失せて候はず。お主殿のご心中、御恥づかしうこそ候へ。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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