『能狂言』中48 小名狂言 ふねふな

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。この間はいづ方へも出ねば、心が屈して悪しうござるによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出し、申し付けう。《常の如く》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。この間はいづ方へも出ねば、心が屈して悪しいによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「御意なくば、申し上げうと存ずる処に、一段と良うござりませう。
▲主「さりながら、この辺りは大方見尽くいたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へ行きたいものぢや。
▲シテ「誠にこの辺りは大方御見物なされましたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へお供致したうござるが、どこ元が良うござらうぞ。
▲主「汝、分別をして見い。
▲シテ「されば、どの辺りが良うござらうぞ。
▲主「どこ元が良からうぞ。
▲シテ「いゑ。西の宮は何とでござる。
▲主「扨、その西の宮は面白い所か。
▲シテ「つゝと面白い所でござる。
▲主「それならば、追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「その西の宮といふ所は、景の良い所か。
▲シテ「浦山をかけてござれば、浦で網を引かさせられうとも、又、山で狩りをなされうとも、思し召す儘の所でござる。
▲主「それは一段の所ぢや。いや。何かと云ふ内に、これは大きな川へ出たが、これは何といふ川ぢや。
▲シテ「こなたはこの川を御存じござらぬか。
▲主「いゝや。何とも知らぬ。
▲シテ「これは神崎の渡しと申して、隠れもない大河でござる。
▲主「扨、これは乗る物でもあるか。但し、かち渡りか。
▲シテ「いつも乗る物がござる。見て参りませう。
▲主「早う見て来い。
▲シテ「畏つてござる。いつもこの辺りに乗る物があるが。今日は何として見えぬ知らぬ。いや。つゝとあれに見ゆる。急いで呼ばう。
ほゝい。ふなやい。ふなやい。
▲主「やいやい。ふなと云うては来ぬ程に、ふねと云うて呼べ。
▲シテ「こなたのご存じない事でござる。私に任せて置かせられい。
ほゝい。ふなやい。ふなやい。
▲主「やいやい。扨々、汝はむさとした。ふなと云うては来ぬ程に、ふねと云うて呼べと云ふに。
▲シテ「私の前では苦しうござらぬが、各の前でその様な事を仰せられたならば、定めて恥をかゝせられう。
▲主「恥をかゝうとは。
▲シテ「古歌にもふなとこそ詠うでござれ。ふねとはござりますまい。
▲主「いや。推参な。おのれが分で、古歌だてを云ひ居る。古歌にあらば読め。
▲シテ「心得ました。
ふな出して跡はいつしか遠ざかる須磨の上野に秋風ぞ吹く。
何と、ふなではござらぬか。
▲主「それは、定めてふねでかなあらう。
▲シテ「こなたの分と致いて、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「それならば、この方にはふねといふ古歌がある。読うで聞かせう。よう聞け。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行くふねをしぞ思ふ。
何と、ふねではないか。
▲シテ「それは、定めてふなでかなござらう。
▲主「おのれが分として、古歌を直す事はなるまい。
▲シテ「私のかたにはまだ、ふなと詠うだ古歌がござる。
▲主「あらば読め。
▲シテ「ふな競ふ堀江の川のみな際に来居つゝ鳴くは都鳥かも。
何と、ふなではござらぬか。
▲主「それも、定めてふねでかなあらう。
▲シテ「こなたの分として、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「某が方にもまだ、ふねと詠うだ古歌がある。
▲シテ「あらば読ませられい。
▲主「さりながら、これはちと早う読まねばならぬ。
▲シテ「早うなりとも遅うなりとも、読ませられい。
▲主「心得た。
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行くふねをしぞ思ふ。
何と、ふねではないか。
▲シテ「扨は、こなたの事でござる。
▲主「こなたの事とは。
▲シテ「褻にも晴にも歌一首と申すが、それは最前の歌でござる。
▲主「これはいかな事。最前のは人丸の歌。今のは猿丸太夫の早歌と云うて、作者が違うてある。
▲シテ「いかに作者が違うても、歌は一つでござる。それまでもない事。あなたの着き場とこなたの着き場とは、何と申す。
▲主「それは、ふふ。ふね着きよ。
▲シテ「ふな着きとこそ申せ。ふね着きとは申しますまい。その上、私の方にはまだござる。
▲主「あらば読め。
▲シテ「心得ました。
ふな人は誰を恋ふとか大島のうら悲しげに声の聞こゆる。
何と、ふなではござらぬか。
▲主「ちとそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「これはいかな事。太郎冠者と、いらざる古歌詮索を致いて、ふねと申す古歌にほうど詰まつた。何と致さう。いや。謡で詰めうと存ずる。
やいやい。
▲シテ「何事でござる。
▲主「某が方には、ふねと謡ふ謡があるが、汝が方にもあるか。
▲シテ「こなたのかたにござれば、私がはうにもござる。あらば謡はせられい。
▲主「心得た。
山田矢走の渡し舟の、夜は通ふ人なくとも。
▲シテ「いや。一段の事を謡ひ出された。後で詰めうと存ずる。
▲主「月の誘はゞおのづから、ふねもこがれて出づらん。ふ。
▲シテ「なう。主殿。
▲主「何と。
▲シテ「ふな人もこがれ出づらん。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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