『能狂言』中49 小名狂言 けいりう
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。明日は、未明に太郎冠者を山一つあなたへ使ひに遣はさうと存ずる。呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。明朝未明に山一つあなたへ使ひに遣る程に、一番鳥が歌うたならば、起こせ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「必ず寝忘れぬ様にせい。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。明朝未明にお使ひに遣はさるゝによつて、一番鳥が歌うたならば起こせと仰せ付けられた。何とぞ寝忘れぬ様に致さうと存ずる。
はあ。よう寝た。これはいかな事。抜群に日がたけた。何と致さう。いや。致し様がござる。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「夜が明けましてござる。
▲主「これはいかな事。一番鳥が歌うたならば起こせと云ひ付けたに、これは早、抜群に日がたけた。なぜに早う起こさぬぞ。
▲シテ「さればその事でござる。私も、鳥が歌ふか歌ふかと存じて、耳を澄まいて居りましたが、世に鳴く鳥はござるが、歌ふ鳥はござりませぬ。
▲主「こゝな者は、むさとした。鳴くと云ふも歌ふと云ふも、同じ事ぢやいやい。
▲シテ「古歌にも鳴くとこそござれ。歌ふとはござるまい。
▲主「推参な。おのれが分で、古歌だてを云ひ居る。古歌にあらば読め。
▲シテ「心得ました。
鳥が鳴く吾妻の奥のみちのくの小田もる山に黄金花咲く。
何と、鳴くではござらぬか。
▲主「それは定めて歌ふであらう。
▲シテ「こなたの分と致いて、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「某が方には、歌ふといふ古歌がある。
▲シテ「あらば読ませられい。
▲主「心得た。
鶏立の江のほとりにはそれには鳥も歌ふなりけり。
何と、歌ふではないか。
▲シテ「いや。申し。何と、その様な短い歌があるものでござるぞ。
▲主「いやいや。長歌短歌と云うて、短い歌もあるいやい。
▲シテ「いかに長歌短歌ぢやと申しても、その様な短い歌はござるまい。その上私の方にはまだ、鳴くと申す古歌がござる。
▲主「あらば読め。
▲シテ「心得ました。
鳴けばこそ別れも憂けれ鳥の音の聞こえぬ里の暁もがな。
何と、鳴くではござらぬか。
▲主「それも歌ふでかなあらう。
▲シテ「こなたの分として、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「まだこちにもある。
▲シテ「あらば読ませられい。
▲主「心得た。《又、初めのを早く云ふ》
▲シテ「扨は、こなたの事でござる。
▲主「こなたの事とは。
▲シテ「褻にも晴れにも歌一首と申すが、それは最前の歌でござる。
▲主「こゝな奴は。歌は一つなれども、早歌と云うて、違うてある。
▲シテ「いかに早歌でも、歌は同じ歌でござる。その上、私の方にはまだござる。
▲主「あらば読め。
▲シテ「心得ました。
夜も明けばきつにはめなんくだかけのまだきに鳴きてせなをやりつる。
その上、詩にも。
寂々たる函関鎖して未だ開かず。田文が車馬秦を出で来たる。朱門三千の客を養はずんば。誰か雞鳴して放廻することを得ん。
この心は、昔、唐土に函谷が関と申す関の候ふが、この関の習ひにて、鶏の鳴く声を聞いて関の戸を開く。孟嘗君と云つし人、討ち洩らされて隣国へ落ちて行く時、夜半ばかりにかの関に到り、鶏の鳴く真似をさせければ、関の人々、誠の鶏と心得、関の戸を開く。かるが故に、難なく隣国へ落ちて行く。それにも鳥の空鳴きしつるとこそ候へ。やはか、そら歌ふとは候ふまい。
▲主「まづそれに待て。
▲シテ「心得ました。
▲主「これはいかな事。太郎冠者といらざる古歌詮索を致いて、ほうど詰まつた。何と致さう。いや。致し様がござる。
やいやい。太郎冠者。
▲シテ「何事でござる。
▲主「こちには歌ふと謡ふ謡があるが、汝が方にもあるか。
▲シテ「こなたの方にござれば、私の方にもござる。あらば謡はせられい。
▲主「心得た。《謡》
うち歌ふ、うち歌ふ。
▲シテ「いや。作り謡を謡はるゝ。致し様がある。
▲主「《謡》ちましの鳥がうち歌ふ。
▲シテ「《謡》ちまばかりに鳥が歌うて、よその鳥は鳴かぬか。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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