『能狂言』中50 小名狂言 はなあらそひ

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。承れば、四方山の花が盛りぢやと申す程に、今日は花見に出ようと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出し、談合致さう。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。四方山の花が盛りぢやと云ふによつて、今日は花見に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「よその花を見させられうより、私の鼻を見させられい。
▲主「こゝな者は。そちの鼻が、何の面白い事があるものか。某が云ふは、桜花の事ぢや。
▲シテ「桜ならば桜と仰せられいで。古歌にも、桜とこそ詠うでござれ、花とはござりますまい。
▲主「推参な。おのれが分として、古歌だてを云ひ居る。さりながら、古歌にあらば云へ。
▲シテ「畏つてござる。
桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける。
何と、桜ではござらぬか。
▲主「それは、定めて花であらう。
▲シテ「こなたの分と致いて、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「某が方には、花と詠うだ古歌がある。
▲シテ「あらば、仰せられい。
▲主「心得た。
花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに。
何と、花ではないか。
▲シテ「それは、定めて桜でかなござらう。
▲主「おのれが分として、古歌を直す事はなるまい。
▲シテ「私の方にはまだござる。
▲主「あらば、早う云へ。
▲シテ「心得ました。
山桜霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋しかりけれ。
何と、桜ではござらぬか。
▲主「それも、定めて花でかなあらう。
▲シテ「こなたの分と致いて、古歌を直させらるゝ事はなりますまい。
▲主「某が方にも、まだある。
▲シテ「あらば、仰せられい。
▲主「心得た。
行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし。
何と、花ではないか。
▲シテ「ちと待たせられい。
▲主「心得た。
▲シテ「これはいかな事。頼うだ人と、いらざる古歌詮索を致いて、ほうど詰まつた。何と致さう。いや。謡で詰めうと存ずる。
申し申し、私の方には、桜と謡ふ謡がござるが、こなたの方にもござるか。
▲主「汝が方にあれば、身共が方にもある。あらば、謡へ。
▲シテ「心得ました。《謡》
桜かざしの袖ふれて、は。
▲主「やい。太郎冠者。
▲シテ「何と。
▲主「《謡》花見車まくるゝより、月の花よ待たうよ。
▲シテ「こなたもようご存じでござる。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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