『能狂言』中51 小名狂言 かねのね
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、伜をいち人持つてござるが、段々成人致いてござるによつて、近々差し初めを致させうと存ずる。とてもの事に、黄金の熨斗付けにして遣はさうと存ずるによつて、まづ太郎冠者を呼び出し、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。伜も段々成人したによつて、近々差し初めをさせうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「御意なくば、申し上げうと存ずる処に、これは一段と良うござりませう。
▲主「それならば、とてもの事に、こがねの熨斗付けにして差させうと思ふ程に、汝は大儀ながら、今から鎌倉へ行て、付け金のねを聞いて来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やがて戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、めでたい事でござる。若子様のお差し初めを、いつかいつかと存じてござれば、近々にはお差し初めをなされうとのお事でござる。それにつき、鎌倉へ行て、撞き鐘のねを聞いて来いと仰せ付けられたが、めでたいお差し初めに、撞き鐘の音が何の御用に立つ事ぢや知らぬ。さりながら、仰せ付けられた事ぢやによつて、参らずばなるまい。まづ急いで参らう。誠に、某も久々鎌倉へ参らぬによつて、この度は良いついでぢや。こゝかしこをゆるりと見物致さうと存ずる。いや。何かと申す内に、これは早、鎌倉へ参つた。扨も扨も、久しうて鎌倉へ参つたが、いつ参つても賑やかな事でござる。扨、これは、どの寺から参らうぞ。それそれ。五台堂が入り口ぢや。五台堂から参らう。かう参つても、何とぞ五台堂の鐘の音が良ければ良うござるが。心元ない事ぢや。いや。参る程に、これが五台堂ぢや。はあ。撞楼はどの辺りにあつたか知らぬ。さればこそ、これにある。さらば、撞いて見よう。
ゑいゑい。やつとな。ぐわん。ゑいゑい。やつとな。ぐわん。
これはいかな事。これは、われ鐘ぢや。めでたいお差し初めに、破れ鐘は御用に立つまい。これは、余の寺へ参らう。扨、これからはどの寺へ行たものであらうぞ。それそれ。寿福寺が近い。寿福寺へ参らう。誠に、この度はわこ様のお差し初めの事ぢやによつて、身共も随分と精を出いて、良い鐘の音を承らうと存ずる。いや。参る程に、これが寿福寺ぢや。久しう参らぬ内に、これはよう修復が出来た。はあ。扨、この撞楼はどこ元ぢや知らぬ。いや。これにある。これは、人に撞かせぬ鐘かして、撞木が結ひ付けてある。何として音を承らうぞ。いや。礫を打つて承らう。幸ひ、良いころの石がある。さらば、これを礫に打たう。
ゑい。やつとな。ちん。ゑい。やつとな。ちん。
これはいかな事。これは又、小さい音でござる。この様な小さい音も、御用には立つまい。扨、これからはどの寺へ参らうぞ。やあやあ。何と云ふ。これからは極楽寺が順道ぢや。それそれ。さうであつた。さらば極楽寺へ参らう。誠に、鎌倉は寺々もあまたござるによつて、方々を走り廻つたならば、良い鐘の音のないと申す事はござるまい。いや。参る程に、これが極楽寺ぢや。これは今までの寺々と違うて、殊の外の大寺でござる。扨、この寺の撞楼は、どこ元ぢや知らぬ。はゝあ。あの山の頂上にある。あれへはどれから上る事ぢや知らぬ。誰ぞ問ひたいものぢやが。はあ。あれへ人が出た。もし、あれは鐘を撞くのではないか知らぬ。や。段々撞楼の方へ行くが。や。はあ。まんまと撞楼へ上つた。さればこそ、撞木へ手を掛くる。扨も扨も、これは良い処へ参つた。さらば、これで承らう。
こんこん。
これはいかな事。扨々、響きのない堅い音ぢや。この様な響きのない堅い音も、御用には立つまい。扨、某が存じた寺々は大方参つたが、これはまづ何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。まだ鎌倉一の建長寺へ参らぬ。さらば、建長寺へ参らう。誠にこの建長寺は、鎌倉一のおほでらでござるによつて、定めて鐘の音も良いでござらう。いや。参る程に建長寺ぢや。扨も扨も、総じて、尊い寺は門から見ゆると申すが、この大門の掛かりなどは、誠に今までの寺々とは格別なものでござる。誠に世話にも、建長寺の庭を鳥箒で掃いた様なと申すが、隅から隅に塵が一つござらぬ。いや。何かと申す内に、これに撞楼がある。扨も扨も、結構なしゆろうかな。鐘も、殊の外見事な。これでは音も良いであらう。さらば、撞いて見よう。
じやあん、もんもんもん。じやあん、もんもんもん。
扨も扨も、音と申し、響きと云ひ、この様な良い鐘の音はござるまい。これこれ。今度のお差し初めは、この建長寺に極めさせらるゝが良うござる。急いで罷り帰らう。頼うだお方も、定めて今か今かとお待ち兼ねなさるゝであらう。この建長寺の鐘の音の良い事を聞かせられたならば、殊ない御機嫌であらうと存ずる。いや。何かと申す内に戻り着いた。急いで戻つた通りを申し上げう。
《常の如く。主同断》
《常の如く。主同断》
▲主「扨、云ひ付けた付け金の値を聞いて来たか。
▲シテ「さればその事でござる。私も、今度は若子様のお差し初めの事でござるによつて、少しも良い鐘の音を承つて参らうと存じて、まづ五台堂へ参つてござれば、これは破れ鐘で、御用に立ちませぬ。それより。
▲主「これはいかな事。太郎冠者は鎌倉へ参つて、撞き鐘の音を聞いて参つたと見えた。何事を申すか承らう。
▲シテ「寿福寺、極楽寺へも参つてござるが、これは小さい音や響きのない堅い音で、御用に立ちませぬ。扨、それより建長寺へ参つてござるが、音と申し響きと云ひ、建長寺に上越す良い鐘の音はござらぬによつて、この度のお差し初めは、建長寺にきはめさせられたらば、良うござらう。
▲主「やいやいやい。おのれは、すれば鎌倉へ行て、撞き鐘の音を聞いて来たか。
▲シテ「中々。撞き鐘の音を聞いて参つた。
▲主「おのれは憎い奴の。差し初めに、撞き鐘の音が何の役に立つものぢや。黄金の熨斗付けにして差さするによつて、付け金の値を聞いて来いと云うたに、撞き鐘の音を聞いて来るといふ事があるものか。
▲シテ「付け金ならば付け金と、初めから仰せられいで。只かねのねとばかり仰せられたによつての事でござる。
▲主「まだそのつれな事を云ふ。あちへ失せう。
▲シテ「あゝ。
▲主「あゝとは。おのれ憎い奴の。あちへ失せう失せう失せう。
▲シテ「あゝ。出合へ出合へ出合へ。
▲支人「あゝ。申し申し。これはまづ、何とした事でござるぞ。
▲主「まづこなたも聞いて下されい。伜も段々成人致いてござるによつて、近日差し初めを致させまする。とてもの事に、熨斗付けに致いて遣はさうと存じ、鎌倉へ行て付け金の値を聞いて参れと申し付けてござれば、寺々を走り廻つて撞き鐘の音を承つて参つた。あの様な者は、散々打擲致いてやりませう。
▲シテ「あゝ。取りさへて下されい。
▲支人「まづ待たせられい。私がきつと叱りませう。
▲主「それならば、きつと叱つて下されい。
▲支人「心得ました。
やい。太郎冠者。
▲シテ「面目もござらぬ。
▲支人「面目もないと云うて、付け金の値を聞いて来いと云はれたを、撞き鐘の音を聞いて来るといふ事があるものか。
▲シテ「さればその事でござる。付け金と申さるゝものを、何しに鎌倉中を走り廻つて、寺々の鐘の音を承るものでござるぞ。只かねのねとばかり申されましたによつての事でござる。さりながら、こゝは主と下人の事でござるによつて、幾重にも私の不調法でござる。又、撞き鐘と申すものも、遠音のさいてめでたいものでござるによつて、若子の差し初めの、四方へくわつと響き渡る様に、私が鎌倉へ参つて、方々を走り廻つて鐘の音を承つた様子を、仕形で学うでお目に掛けませう程に、頼うだ人の機嫌を直さるゝ様に、仰せられて下されい。
▲支人「その通り云はう。それに待て。
申し申し。きつと叱つてござれば、私の不調法でござるによつて、堪忍をなされて下されい。こなたの機嫌を直させられたならば、きやつが鎌倉へ行て、寺々を走り廻つて鐘の音を承つた様子を、仕形で学うでお目に掛けうと申しまする。
▲主「それならば、これへ出て学うで見せいと仰せられい。
▲支人「心得ました。
なうなう。太郎冠者。機嫌を直さうと仰しやる程に、あれへ出て、学うでお目に掛けい。
▲シテ「畏つてござる。《謡》
まづ鎌倉に、つゝと入相の鐘これなり。東門に当たりては、五台堂の鐘これなり。諸行無常と響くなり。南門にあたりては、寿福寺の鐘これなり。是生滅法と響くなり。扨西門は極楽寺、これ又生滅々已の心。北門は建長寺、寂滅為楽と響き渡れば、いづれも鐘の音聞き済まし、急いで上る心もなく、さもあらけなき主殿に、素首を取つて撞き鐘の、そくびを取つて撞き鐘の、響きにはなをぞ直りける。
これも鐘の威徳でござる。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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