『能狂言』中52 小名狂言 そらうで
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたのご参会は、夥しい事でござる。それにつき、某も明日、いづれもを申し入るゝ筈でござる。まづ太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。天下治まりめでたい御代なれば、この間のあなたこなたのご参会は、何と夥しい事ではないか。
▲シテ「御意の通り、この間のあなたこなたのご参会は、夥しい事でござる。
▲主「それにつき、某も明日、いづれをも申し入るゝ筈ぢやが、何とあらうぞ。
▲シテ「一段と良うござりませうが、いかに御心安と申しても、明日と申しては余り急な事でござるによつて、今少し延べさせられたらば、良うござらう。
▲主「いやいや。別に馳走はいらぬ。淀鯉ひと色で申し入るゝ筈ぢや。扨、それについて、汝は大儀ながら今から淀へ行て、鯉を求めて来い。
▲シテ「畏つてはござりまするが、承れば、淀鳥羽の間が殊の外物騒なと申すによつて、これは御免なされい。
▲主「これはいかな事。日頃腕だてを云ふは、何のためぢや。この様な時のためではないか。明日の客ぢやによつて、是非とも行て求めて来い。
▲シテ「その上私は御覧ぜらるゝ通り、丸腰でござる。何とぞ腰の物を貸して下されい。
▲主「これは尤ぢや。貸してやらう程に、それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。これは重代なれども貸してやる程に、随分大切にせい。
▲シテ「これは結構なお太刀でござる。これさへござれば鉄の楯でござる。待ち伏せの五人や十人切つて掛かつたと申しても、物の数にも致す事ではござらぬ。お心安う思し召しませ。
▲主「それは近頃ぢや。はや日も暮れに及うだ程に、早う行け。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、迷惑な事かな。今から淀へ行て、鯉を求めて来いと仰せ付けられた。もはや日も暮れに及うで、いち人参るは何とも迷惑な事でござれども、参らずばなるまい。まづ、少しも急いで参らう。いや。誠に、こちの頼うだ人は、云ひ掛かつた事は聞かぬ人でござるによつて、断りを申しても聞き入れられず、迷惑致す事でござる。いや。何かと申す内に、これは早、日がぼつてと暮れた。扨、これはどこ元ぢや知らぬ。はゝあ。これは東寺さうな。いや。又この東寺の出離れが、好かぬ所でござるが。何とぞ待ち伏せが居らねば良うござるが。気味悪い事でござる。そりやそりや。さればこそ、あれに大きな男めが、道の真ん中に立ち塞がつて居る。何とせうぞ。いや。この様な所でひけを取つてはいかゞぢや。先を取つて言葉を掛けう。
やいやい。それに居るは、この間洛中で沙汰のある待ち伏せではないか。身共は用心をして淀へ通る者ぢやが、そこをのいて通すまいか。但し、そちがのかずば、こちがのかうか。やい。なぜに物を云はぬぞ。やいやいやい。
牛に喰らはれ誑された。人ぢや人ぢやと思うたれば、あれは杭ぢや。扨々、腹の立つ事かな。
やい。おのれ、よう某に肝を潰させたな。おのれ、人ならばひと討ちにしてやらうものを。
人で良いものか。人ならば、身共がひと討ちになるであらう。はあ。扨、これからが鳥羽畷ぢや。又、この鳥羽畷が好かぬ所でござる。まづ急いで参らう。いや。誠に、これにつけても聊爾な事をば申すまいものでござる。日頃、某がそら腕だてを申すによつて、かやうの時分に断りをも申されぬ。近頃迷惑な事でござる。やゝ。今度はあれに大勢立ち並うで居る。これは、今の様に申しては、中々通すまい。ちと慇懃に云うて見よう。
いや。なうなう。それにござるは道通りの衆か。道通りの衆ならば、そこをのいて通して下されい。これは、頼うだ者の用事で、夜をこめて淀へ通る者でござる。何とぞ通して下されい。いや。なうなう。なぜに物を仰しやらぬぞ。なうなうなう。
これはいかな事。又、人ぢや人ぢやと存じたれば、並木の松ぢや。扨も扨も、苦々しい事かな。身共が怖い怖いと思うて通れば、色々の物が人に見ゆる。これでは中々淀までは行かれまい。何と致さうぞ。あゝ。それそれ。男の心と大仏の柱は太うても太かれと申す。何の、思ひ切つてのつかのつかと行くに行かれぬ事があるものか。恐らくは、往んで見せう。をゝ。これこれ。最前からかやうに致いて参つたならば、もはや今時分は淀へ参り着くであらうものを。近頃残念な事を致いた。やゝゝ。これはいかな事。今度こそ、あれに大勢立ち並うで、何やらさゝやいて居る。何と致さう。後へ戻らうか。何ぢや。後へも戻さぬ。あゝ。悲しや悲しや。
真つ平命を助けて下されい。中々私は武辺立てゞはござらぬ。いづれも様のこの所へ出させらるゝ事をも存じて居りまするによつて、色々断りをも申してござれども、是非淀へ使ひに参れと申し付けられて、主命なれば是非に及ばず参りましてござる。構へて武辺立てゞはござらぬ。何とぞ命をばお助けなされて下されい。はあ。何も持ち合はせと申してはござりませぬが、これに太刀がござる。これも頼うだ者の太刀ではござれども、背に腹は替へられませぬ。これなりと進じませう程に、これを取らせられて、何とぞ命をばお助けなされて下されい。申し申し。なぜに物を仰せられぬぞ。物を仰せられいでは迷惑にござる。何とぞ、許すとひと言仰せられて下されい。申し申し。私の様な卑怯者に、とやかう仰せられても、お手柄にもなりますまい程に、太刀を取らせられて、命をばお助けなされて下されい。申し申し。これ程にまで降参致すに、なぜに物を仰せられぬぞ。物を仰せられいでは、こゝを立ちにくうござる。
真つ平命を助けて下されい。中々私は武辺立てゞはござらぬ。いづれも様のこの所へ出させらるゝ事をも存じて居りまするによつて、色々断りをも申してござれども、是非淀へ使ひに参れと申し付けられて、主命なれば是非に及ばず参りましてござる。構へて武辺立てゞはござらぬ。何とぞ命をばお助けなされて下されい。はあ。何も持ち合はせと申してはござりませぬが、これに太刀がござる。これも頼うだ者の太刀ではござれども、背に腹は替へられませぬ。これなりと進じませう程に、これを取らせられて、何とぞ命をばお助けなされて下されい。申し申し。なぜに物を仰せられぬぞ。物を仰せられいでは迷惑にござる。何とぞ、許すとひと言仰せられて下されい。申し申し。私の様な卑怯者に、とやかう仰せられても、お手柄にもなりますまい程に、太刀を取らせられて、命をばお助けなされて下されい。申し申し。これ程にまで降参致すに、なぜに物を仰せられぬぞ。物を仰せられいでは、こゝを立ちにくうござる。
《この言葉の内、主、立つて》
▲主「太郎冠者を淀へ使ひへ遣はしてござるが、かねがね臆病なやつでござるによつて、心元なうござる。後から参つて様子を見ようと存ずる。何事もなう参り着けば良うござるが。
これはいかな事。人もない所に、何やらひとり言を申して居る。扨々、苦々しいやつでござる。某が太刀を進じませうなどゝ申す。人に取られてはなるまい。致し様がござる。
がつきめ。《と云うて、背中を叩き、太刀を取つて》
まんまと太刀を取つた。知らぬ体で宿へ戻つて様子を見ようと存ずる。
《太郎冠者、主に叩かれて、「あゝ。悲しや」と云うて、気を失ふ》
▲シテ「あゝ。切つたり切つたり。身共はまんまと切られてむなしうなつた。まづかうござらうと存じて、断りを申したれども、日頃某がよしないそら腕立てを申すによつて、承引致されいで、まんまと切られた。誠に、かやうに今などむなしうならうと存じたならば、かねて後生をも願はうものを。残念な事を致いた。その上、某は弓箭に掛かつて死んだによつて、定めて修羅道へ落つるであらう。はあ。扨、何にしても、これは殊の外暗い事ぢや。冥途の闇と申すが、この事であらう。何を申すも、余り暗うて物のあいろが見えぬ。はゝあ。向かうがちと明かうなつたが、あれは何ぢや知らぬ。や。段々明かう見ゆる。あれは月代ではないか。さればこそ、何かと云ふ内に、はや月が上らせられた。冥途に月のある事は聞きも及ばぬが。何にもせよ、これで明かうなつて、物のあいろが見ゆる。はあ。向かうに何やら白う見ゆるが、あれは何ぢや。やうやう見れば、あれは城ぢや。冥途にも城がある事か知らぬ。やうやう見れば、娑婆で見たやうな城ぢやが。をゝ。それそれ。あれは娑婆の淀の城にその儘ぢや。まづ、あれを淀の城にして、こなたが鳥羽、伏見、竹田。すれば、これは鳥羽畷ぢや。身共は淀へお使ひに行くとて、鳥羽畷で切られてむなしうなつたによつて、冥途までも淀鳥羽がついて廻る事か知らぬ。但しは又、身共は切られた切られたとは存じたが、まだ死なぬか。はあ。まづ、のりも見えぬが。ちと立つて見ようか知らぬ。さりながら、切れ物で切られては痛うないと云ふによつて、立つて、もし二つにならねば良いが。と云うて、いつまでもかやうに致いては居られまい。まづ、そろそろ立つて見よう。はあ。まんまと立つたわ。《色々として見て》
なうなう。嬉しや嬉しや。某はうろたへた。まだ死なぬものを。あまの命を拾うた。まづ急いで参らう。が、身共はお太刀を何とした知らぬ。あゝ。それそれ。待ち伏せめが某を打ち倒いて、お太刀を取つてうせたものであらう。これは苦々しい事をしたが。何として良からうぞ。さりながら、頼うだ人は、どこやら正直なお方でござる程に、面白可笑しう申しないて置かうと存ずる。まづ急いで罷り帰らう。某が命さへ別條なければ、口調法を以て、いかやうとも申し訳はなる事でござる。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。
申し。頼うだお方。ござりまするか。ござるか。
▲主「いや。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲シテ「ござりまするか、ござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲シテ「申し。後から誰も追うては参りませぬか。
▲主「いや。誰も追うては来ぬが。まづ何としたぞ。
▲シテ「扨々、危ない目に遇ひました。
▲主「それは何としたぞ。
▲シテ「今、胸のだくめきを直いて話しませう。
▲主「それが良からうが、まづ何としたぞ。
▲シテ「さればその事でござる。淀へお使ひに参るとて、東寺まで参りましたれば、早ぼつてと日が暮れてござる処で、私も後先へ心を配つて参りましてござれば、東寺の出離れへ参ると、かの待ち伏せが居りましての。
▲主「扨々、それは危ない事であつたが、何とした。
▲シテ「いかさま、四、五人ばかりも道の真ん中につゝくりと致いて居りましたによつて、この様な所で後れを取つてはなるまいと存じて、言葉を掛けました。
▲主「それに何と言葉を掛けたぞ。
▲シテ「やい。それに居るは、この間洛中で沙汰のある待ち伏せではないか。某は用事で淀へ通る者ぢや。そこをのいて通すまいか。但し、のかずばのかせう、と申してござれば、可笑しい事を云ふ者ぢや。いざ来い、と申して、何が四、五尺程の刀を一様にするりと抜いて、切つて掛かりまするによつて、私もかのお太刀をするりと抜いて、散々に戦ひましてござれば、私の太刀風に恐れて、蜘蛛の子を散らす如くに逃げ散りましてござる。
▲主「扨々、それは手柄な事であつたが。扨、何とした。
▲シテ「それより上鳥羽と下鳥羽との間へ参つてござれば、いかさま、今度は二、三十人ばかりも、長道具で待つて居りました。
▲主「何ぢや。長道具で。
▲シテ「中々。
▲主「扨々、それは危ない事ぢや。扨、何とした。
▲シテ「私も、こゝでこそこなたのお名を揚げうと存じて、かのお太刀をかう構へまして、やいやい。それに居るは待ち伏せか。かねて音には聞き及うだであらうが、目に見る事は今が初めであらう。これこそ、頼うだ人のみ内に一騎当千と呼ばれた太郎冠者ぢや。我と思はん者は、何百人なりともいざ来い、と申してござれば、多勢にひとりは敵ふまい、と申して、いかさま、八、九間もござらう鑓を。
▲主「やいやい。八、九間といふ鑓があるものか。それは定めて九尺鑓の事であらう。
▲シテ「はあ。夜目でござつたによつて、ちと長う見えた事もござらう。まづ聞かせられい。その鑓を、茅花の穂を揃へた如く、私の鼻の先へ、によろりによろりと突つ掛けて参りまするによつて、かのお太刀をするりと抜いて、鑓の柄を片端より、ぱらりぱらり、ぱらぱらぱらと切り折つてござれば、又四角八方へ散り散りになつて逃げ失せましてござる。
▲主「扨々、これは健気な事であつた。扨、何とした。
▲シテ「そこをもまんまと切り抜けまして、淀鳥羽の間へ参りましてござれば、最前の討ち洩らされどもが一緒になりましたと見えまして、七、八十人になつて、彼らが申す事には、あの太郎冠者は、かねて聞き及うだよりは手柄者ぢや。さりながら、今度こそ、多勢になつた程に討ち留めう、と申して、きつと待つて居りまする処で、私もこゝが最期ぢやと存じて、そばなる大木を小楯に取り、かのお太刀を真つ甲にさしかざし、待つて居りましたれば、今度は飛び金をおこしましてござる。
▲主「とびがねとは。
▲シテ「こなたは飛び金をご存じござらぬか。
▲主「いゝや。知らぬ。
▲シテ「これはいかな事。お侍の飛び金をご存じないと申す事があるものでござるか。飛び金と申す物は、まづこれ程の竹に糸を張りまして、又これ程もござる竹へ、かたへゝは羽を付け、かたへゝは金を付けて、かう致いて、ひよいひよいとおこす物でござる。
▲主「それは定めて弓矢の事であらう。
▲シテ「をゝ。その弓矢を雨の降る如くにおこしまするによつて、上へ参るは身を縮め、下へ参るは跳び上がり、右へ参るは左へ跳び、左へ参るは右へ跳び、当たる矢は切り払ひ、向かふ者は拝み討ち、車斬り、蜘蛛手、かくなは、十文字に、散々に戦ひましてござれば、申し。大事の事がござる。
▲主「何とした。
▲シテ「いかさま、こなたのお太刀に焼き切れでもござつたか、鎺元二、三寸置きまして、ほつきと折れましてござる処で、私も致し様がござらぬによつて、彼らに申しまするは、やいやい。汝らが見る如く、太刀打ち折つて力がない。今、替への太刀を取つて来て勝負を決する程に、構へて引くではない。これ見よ、と申して、かの折れたお太刀を大勢の中へほうど投げ込うで、後をも見ずして逃げて参りましたが、こなたは太郎冠者いち人拾はせられたと申すものでござる。
▲主「扨々、それは悉く手柄な事であつた。扨、汝が行た後で、良い太刀を求めた。見せう程に、それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。この太刀ぢや。
▲シテ「はあ。これは、結構なお太刀でござりまする。
▲主「何と良い太刀ではないか。
▲シテ「殊の外、結構なお太刀でござる。
▲主「扨、その太刀に覚えはないか。
▲シテ「いや。申し。私の留守の内に求めさせられたお太刀に、何と見覚えがあるものでござる。
▲主「扨、汝に貸した太刀によう似た太刀ではないか。
▲シテ「いかさま、よう似たお太刀でござる。定めて対のお太刀でござらう。
▲主「すれば、汝はしかと見覚えはないか。
▲シテ「いやいや。少しも見覚えはござらぬ。
▲主「こちへおこせ。おのれは憎いやつの。日頃腕立てを云ひ居るによつて、誠かと思うて後から行て見たれば、人もない所で、命を助けて下されいの、あまつさへ、この太刀を進じませうなどゝ云ふ。人に取られてはなるまいと思うて、後ろから、がつきめ、と。
▲シテ「あゝ。悲しや悲しや。
▲主「それそれ。それ見よ。某が前でさへ、その体ではないか。
▲シテ「扨々、こなたは情けない事を仰せらるゝ。落ち武者は薄の穂にもおづると申すに、まだ胸のだくめきも直らぬに、がつきめ、と仰せられたによつて、びつくりと致いてござる。
▲主「身共が前でさへその体で、今の手柄話、聞き事でおりやる。
▲シテ「いや。申し。私のお太刀を打ち折つたは定でござるが、それは物でござる。
▲主「物とは。
▲シテ「そのお太刀が名作物でござるによつて、私より先へ癒え合うて、戻つたものでござらう。めでたう御蔵へ納めて置きませう。
▲主「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。
▲シテ「許させられい、許させられい。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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