『能狂言』中53 小名狂言 くらまゝゐり
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は初寅でござるによつて、鞍馬へ参らうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は初寅ぢやによつて、鞍馬へ参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「一段と良うござりませう。
▲主「それならば、何ぞ道具を持てと云へ。
▲シテ「畏つてござる。
やいやい。頼うだ人の鞍馬へ参らせらるゝによつて、何ぞ道具を持てと仰せらるゝ。ぢやあ。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「お道具とは何の事ぢやと申しまする。
▲主「これはいかな事。某が内に居て、道具をえ知らぬか。弓なりと鎗なりと、或いは鉄砲なりと持てと云へ。
▲シテ「心得ました。
やいやい。頼うだ人のみ内に居て、お道具をえ知らぬか。弓なりと鎗なりと、或いは鉄炮なりと持てと仰せらるゝ。ぢやあ。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「弓は、絃が切れてござる。鎗は、いつぞやどれへやら遣らせらるゝ。鉄炮は、人のかたげて歩くならでは見ぬ、と申しまする。
▲主「某が前では苦しうないが、各の前でその様な事を云ふなと云へ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「所詮、物参りに長道具はいらぬもの。汝いち人、供に連れう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲主「追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「かやうの神参りに長道具はいらぬものぢやが、太刀などを持たせたは、なりの良いものではないか。
▲シテ「誠に、お太刀などを持ちましたは、なりの良いものでござる。
▲主「某も、追つ付け作つて持たせうぞ。
▲シテ「それが良うござらう。
▲主「いや、来る程に、早お前ぢや。
▲シテ「誠に、お前でござる。
▲主「汝もこれへ寄つて拝め。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。拝まぬか。
▲シテ「拝まずと良うござる。
▲主「拝まずと良いと云うて、主より先へ出て拝むといふ事があるものか。
▲シテ「神仏の前では、主と下人の隔てはないと申す。
▲主「いかに神仏の前ぢやと云うて、主と下人の隔てがなうて叶はうか。今夜は通夜をする。汝はそれへ寄つて寝ずの番をせい。
▲シテ「寝ずの番を致しまするか。
▲主「夜が明けたならば早う起こせ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。内で使ふが足らいで、外でまで寝ずの番をせいと云はるゝ。見れば、余念なう寝て居らるゝ。ちと起こさうと存ずる。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「宿坊へは寄らせられぬか。
▲主「いやいや。思ふ仔細があるによつて、宿坊へは寄るまい。云はれぬ事を云はずとも、寝ずの番をせい。
▲シテ「心得ました。
これはいかな事。宿坊へも寄るまいと仰せらるゝ。いつも宿坊へ寄らせらるれば、お茶の御酒のとあつて、某までも御馳走になる。某ばかりなりと参らうと存ずる。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「宿坊へは、私ばかりなりと参りませうか。
▲主「こゝな奴は。おのれを遣れば、某も行く。いつも宿坊へ寄れば、お茶の御酒のとあつて御馳走になるが迷惑さに、寄るまいと云ふ事ぢや。云はれぬ事を云はずとも、寝ずの番をせい。
▲シテ「はあ。{*1}
憎さも憎し。今一度起こさう。
申し申し申し。
▲主「あゝ喧しい。何事ぢや。
▲シテ「もうかしましう申しますまい。
▲主「むゝ。汝がさう云ふも推量した。伏せりたさの儘であらう。許す。行て休め。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「夜が明けたならば、早う起こせ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。これを聞かうまでぢや。さらば休まう。
はあはあ。あらありがたや。多門天よりお福を下された。
見れば、夜も明けた。さらば、頼うだ人を起こさう。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「夜が明けました。
▲主「誠に夜が明けた。この様な時こそ起こすものなれ。扨、夜前宿坊へ寄らなんだによつて、すぐに下向せう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「扨、いつもとは云ひながら、夜前も大籠りであつたなあ。
▲シテ「誠に大籠りでござりました。
▲主「あの大籠りの内に、夜半ばかりの頃、汝が声でわつぱと云うたが、あれは何事であつたぞ。
▲シテ「あの大籠りの内には、私に似た声もござらうが、私ではござらぬ。
▲主「こゝな奴は。汝を使ふ某が、余の者の声と汝が声とを聞き紛ふものか。確かに聞いた。包まずと云へ。
▲シテ「扨は、真実聞かせられたか。
▲主「中々。聞いた。ありやうに云へ。
▲シテ「それならば、何を隠しませうぞ。夜前、多門天よりお福を下されてござる。
▲主「それはめでたい事ぢや。その様子は。
▲シテ「夜前、夜半ばかりの頃、御殿の内が震動致いてござれば、八十ばかりの老僧の、香の衣にかうの袈裟、皆水晶の数珠をつまぐり、鳩の杖にすがり、汝、年月鞍馬へ参れども、つひに福を与へぬ。今こそ福を与ふる、とあつて、福ありの実を下されてござる。
▲主「それはめでたい事ぢや。まづそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「これはいかな事。某へ下されうお福を、太郎冠者に下されてござる。面白可笑しう申して、福をこちへ取らうと存ずる。
やいやい。太郎冠者。某もお福をたばつたわ。
▲シテ「それは、諸共にめでたうござる。
▲主「仔細は、汝が云ふに少しもたがはぬ。某へ下されうずれども、折節太郎冠者を連れたによつて、太郎冠者に渡す。路次で受け取れ、と仰せられた。そのお福をこちへおこせ。
▲シテ「これは迷惑でござる。
▲主「何の迷惑。
▲シテ「こなたのお福はこなたのお福、私の福は私の福と、別々に致しませう。
▲主「でも、多門天の仰せられた事を翻す事はならぬ。足元の明かい内、渡さいでな。
▲シテ「扨は、真実受け取らせらるゝか。
▲主「おんでもない事。
▲シテ「ちと待たせられい。
▲主「心得た。
▲シテ「これはいかな事。あの体に云はるゝによつて、渡さずばなるまいが。とても渡すからは、散々になぶつて渡さうと存ずる。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「又、多門天の仰せられた事を聞かせられたか。
▲主「いゝや。何とも聞かぬ。
▲シテ「福を渡さば、福渡しといふ事をして渡せ。さなくば、な渡しそ、と仰せられてござる。
▲主「扨、その福渡しといふは、難しい事か。
▲シテ「別に難しい事でもござらぬ。私の、鞍馬の大悲多門天のお福を主殿に、参らせたりや、参らせた、と申さば、こなたは、たばつたりや、たばつた、と仰せらるゝ分の事でござる。
▲主「その分の事か。
▲シテ「中々。
▲主「大方覚えた。受け取らう程に、早う渡せ。
▲シテ「畏つてござる。《囃子物》
鞍馬の大悲多門天のお福を主殿に、参らせたりや、参らせた。
▲主「扨、これはいつ頃云ふ事ぢや。
▲シテ「置いて、あさつて頃仰せられい。
▲主「すれば、遅いといふ事か。
▲シテ「左様でござる。
▲主「今度は、言葉の下から受け取らう。早う渡せ。
▲シテ「畏つてござる。《囃子物》
鞍馬の大悲多門天のお福を主殿に、参らせたりや、参らせた。
▲主「たばつた、たばつた、たばつた、たばつた。
▲シテ「はあ。喧しうござる。その様に仰せられては、お福が渡りませぬ。今度は左右をして、静かに受け取らせられい。
▲主「心得た。早う渡せ。
▲シテ「《囃子物》鞍馬の大悲多門天のお福を主殿に、参らせたりや、参らせた。
▲主「たばつたりや、たばつた。
▲シテ「それは、余りねばうござる。今度は拍子にかゝつて受け取らせられい。
▲主「早う渡せ。
▲シテ「《囃子物》大悲多門天のお福を主殿に、参らせたりや、参らせた。
▲主「《囃子物》たばつたりや、たばつた。
▲シテ「参らせた。
▲主「たばつた。
▲シテ「参らせた。
▲主「たばつた。
▲シテ「はあゝ、と仰せられい。
▲主「はあゝ。
▲シテ「申し。めでたい事がござる。
▲主「それはいかやうな事ぢや。
▲シテ「お福はこなたにとうど納まりました。
▲主「それこそめでたけれ。行て休め。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
校訂者注
1:底本は、「ア。」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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