『能狂言』中54 小名狂言 なりあがり

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は清水の縁日でござるによつて、参詣致さうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は清水のご縁日ぢやによつて、参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「一段と良うござりませう。
▲主「それならば太刀を持て。
▲シテ「畏つてござる。
はあ。お太刀を持ちましてござる。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「扨、今日は天気も良いによつて、定めて大参りであらう。
▲シテ「誠に、今日は天気も良うござるによつて、定めて賑やかでござらう。
▲主「もはや、殊の外賑やかになつた。
▲シテ「段々賑やかになりまする。
▲主「いや。何かと云ふ内に、これは早、清水へ来た。
▲シテ「誠に清水でござる。
▲主「汝もこれへ寄つて拝め。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「いつ参つても、殊勝なお前ではないか。
▲シテ「仰せらるゝ通り、殊勝なお前でござる。
▲主「扨、今夜は通夜をする程に、汝もそれへ寄つて休め。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「夜が明けたならば、起こせ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、いつもとは云ひながら、今夜も大参りぢや。さらば、某もこの辺りに休まう。《太刀を持ちながら寝る》
▲スッパ「これは、この辺りに住居致す、心も直にない者でござる。今日は清水のご縁日でござるによつて、あれへ参り、何か良さゝうな物もござらば、調儀致さうと存ずる。いや。誠に今日は大参りでござるによつて、何ぞ仕合せのないと申す事はござるまい。いや。これに、何者やら良い太刀を持つて、余念もなう寝て居る。これを調義致さう。《杖竹を持ち出で、太刀と取り替へて》
なうなう。一段の仕合せを致いた。急いで罷り帰らうと存ずる。
▲シテ「あゝ。よう寝た事ぢや。いや。はや夜が明けた。頼うだ人を起こさう。これはいかな事。身共はお太刀を持つて寝たが、いつの間にやらこの様な杖になつた。扨々、苦々しい事ぢやが。何としたものであらうぞ。さりながら、頼うだ人はたらし良いお方ぢやによつて、面白可笑しう申しないて置かうと存ずる。
申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「夜が明けましてござる。
▲主「誠に夜が明けた。《拝をして》
さらば、下向せう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする。
《杖を見て、「未だお太刀にならぬ」》
▲主「扨、いつもとは云ひながら、夜前も大参りであつたなあ。
▲シテ「誠に、大参りでござりました。
▲主「扨、何も珍しい話はなかつたか。
▲シテ「さればその事でござる。私の居た辺りで、色々の雑談を申してござるが、中にも物の成り上がると申す話を致いてござるが、聞かせられてござるか。
▲主「いやいや。身共は聞かぬが。それは、何といふ話ぢや。云うて聞かせい。
▲シテ「世間に、娘が姑に成り上がるは早いものぢやと申しましてござる。
▲主「これは、珍しうもない事ぢや。
▲シテ「又、犬ころが親犬に成るも早いものぢやと申してござる。
▲主「これも、知れた事ぢや。
▲シテ「又、渋柿が熟柿に成り上がると申してござる。
▲主「これも、熟柿に成らいで叶はぬ事ぢや。
▲シテ「又、珍しい事を申しましてござる。
▲主「それは何と云うた。
▲シテ「山の芋が鰻に成るは定ぢやと申しました。
▲主「某もさう聞いたが、これは合点の行かぬ事ぢや。
▲シテ「いやいや。これは真実でござる。まづ、その成り様は、長雨が降つて山などが崩れまして、山の芋が川へ流れ込うで、鰻に成ると申しまする。
▲主「いかさま。これは成るまいものでもないが。もはや他には、何も珍しい話はないか。
▲シテ「いや。又、田辺の別当の朽ち縄太刀と申す事を話いてござるが、聞かせられてござるか。
▲主「いゝや、聞かぬが。それは何といふ話ぢや。
▲シテ「まづ、田辺の別当は大有徳な人でござるが、その別当の太刀は名作物で、余人の目には朽ち縄に見えまする。又、自然、盗人などが這入りますると、おのれと抜け出でゝ、その盗人を追ひ散らすと申してござるが、何と奇特な事ではござらぬか。
▲主「誠に、これは近頃奇特な事ぢや。
▲シテ「総じて人の有徳になり出世する時分には、必ず色々、物が変じて成り上がると申しまする。それにつき、こなたにも近頃めでたい事がござる。
▲主「むゝ。それはいかやうな事ぢや。
▲シテ「追つ付けご加増を取らせられ、くわつとご立身をなされう瑞相に、ちと物が変じて成り上がりました。
▲主「それは何が成り上がつたぞ。
▲シテ「物が。
▲主「何が。
▲シテ「物が。
▲主「何が。
▲シテ「こなたのお太刀がこの様な杖に成り上がりました。
▲主「あのやくたいなし。しさり居ろ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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