『能狂言』中55 小名狂言 あかゞり
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は山一つあなたへ茶の湯に参る。それにつき、太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は山一つあなたへ茶の湯に行くが、やうやう時分も良いによつて、行かう程に供をせい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「扨、茶の湯といふものは、殊の外難しいものぢやによつて、掃除などをこゝかしこに気を付けて、見習うて置け。
▲シテ「何が扨、私も随分気を付くる事でござる。
▲主「いや。来る程に、いつもの溝河へ出た。
▲シテ「誠に、河へ出ました。
▲主「上が降つたと見えて、水が増した。
▲シテ「仰せらるゝ通り、かみが降つたと見えて、殊の外水が増しましてござる。
▲主「さあさあ。身共を負うて渡れ。
▲シテ「畏つてはござりまするが、私は持病に皸がござつて、水を見ましてさへ六根へしみ渡りまするによつて、これは御免なされて下されい。
▲主「これはいかな事。汝を連るゝは何のためぢや。この様な時のためではないか。いかに皸があればとて、こればかりの河を負ひ越す事のならぬといふ事があるものか。どうあつても負うて渡れ。
▲シテ「いかやうに仰せられても、こればかりは幾重にも御免なされて下されい。
▲主「扨々、これは苦々しい事ぢや。ぢやと云うて、行かずには居られぬ。是非に及ばぬ。そちを身共が負うて渡らうが、只はならぬ。聞けば汝は、いづれもの初心講へ交じつて推参を云ふが、口が良いと聞いた。あかゞりといふ題で歌を一首詠うだならば、身共が負ひ越してやらう。
▲シテ「歌は詠みませうが、こなたに負はるゝ事は、許させられて下されい。
▲主「その様な事を云はずとも、まづ一首詠め。
▲シテ「心得ました。
あかゞりも春は越路へ帰れかし冬こそあしのもとに住むとも。
▲主「聞いたよりは、一段と口が良い。さりながら、一首ばかりで負ふ事はならぬ程に、今一首詠うだならば、負ひ越してとらせう。
▲シテ「歌はいか程なりとも詠みませうが、負はるゝ事は許させられい。
▲主「まづ、今一首詠め。
▲シテ「畏つてござる。
あかゞりは弥生の末のほとゝぎすうづき廻りて音をのみぞなく。
▲主「天神ぞあるまい。さあさあ。負ひ越してとらせう。これへ負はれい。
▲シテ「最前も申す通り、負はるゝ事は御免なされて下されい。
▲主「いやいや。汝を負ふとは思はぬ。天神を負ひ奉ると思ふ程に、早う来て負はれい。
▲シテ「それならば、許させられい。負はれまするぞ。
▲主「早う負はれい。
▲シテ「必ず私を負ふと思し召すな。天神を負ふと思し召しませ。
▲主「中々。汝を負ふとは思はぬ。さらば渡るぞ。
▲シテ「早う渡らせられい。
▲主「やつとな。さればこそ、浅いわ。
▲シテ「誠に浅うござる。
▲主「やつとな。をゝ。ちと深うなつた。
▲シテ「その辺り{*1}は何とやら深さうにござる。こちらを渡らせられい。
▲主「心得た。やつとな。をゝ。余程深うなつた。
▲シテ「殊の外深うござる。はまらせらるゝな。
▲主「はまる事ではない。やい。太郎冠者。この深い所で今一首詠め。
▲シテ「向かうへ着いてから詠みませう。何とこの様な所で詠まるゝものでござるぞ。
▲主「いやいや。こゝ元で詠まずば、この川へはめてのくぞ。
▲シテ「あゝ。詠みませう詠みませう。
▲主「早う詠め。
▲シテ「あかゞりは恋の心にあらねどもひゞにまさりて悲しかりけり。
▲主「一段と良う詠うだ。やい。聞くか。
▲シテ「何事でござる。
▲主「昔より、下人が主を負うたゝめしはあれども、主が下人を負うた例はない。おのれが様な奴は、まづかうしてのけう。
《と云うて、川へはめて、引つ込む》
▲シテ「あゝ。悲しや悲しや。足を濡らすまいと思うて、頭まで濡らいた。あゝ。くつさめくつさめ。
校訂者注
1:底本は、「其通り」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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