『能狂言』中56 小名狂言 なはなひ

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。辺りの若い衆と寄り合うて、手慰みを致いてござれば、散々仕合せが悪しうござつて、金銀は申すに及ばず、太郎冠者までを打ち込うでござる。ありやうに申したならば、参るまい程に、誑いて遣はさうと存ずる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。この文を誰殿へ持つて行てくれい。
▲シテ「畏つてはござりまするが、又、例のお寄り合ひの事でござりませう程に、これは御無用になされたならば、良うござらう。
▲主「いやいや。その事ではない。叶はぬ用の事がある程に、平に持つて行け。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「早う戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。このお文を誰殿へ持つて行けと仰せらるゝが、余の事ではござるまい。又、例のお寄り合ひの事でござらう。さりながら、叶はぬ用の事ぢやと仰せらるゝによつて、持つて参らずばなるまい。まづ急いで参らう。誠に、百行の門には立つとも、博奕の門には立つなと申すが、よう申したものでござる。又、世には勝つ人もあるものでござるが、こちの頼うだ人の様に、づる度ごとに、今日も負けた、今日も負けたと云はるゝが、あの様に負けても、面白いか知らぬ。いや。来る程にこれぢや。《常の如く案内乞うて》
▲アド「ゑい。太郎冠者。そちの来るを待つて居た。
▲シテ「それは何かは存じませぬが、頼うだ者よりお文をおこしましてござる。
▲アド「やれやれ。念のいつた人ぢや。文には及ばぬ。今日よりしては、汝は某が内の者ぢや程に、さう心得い。
▲シテ「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲アド「すれば、そちは仔細を知らぬと見えた。この間、そちの頼うだ者と、ひと勝負したれば、某が仕合せが良うて、金銀は云ふに及ばず、汝までを打ち勝つた程に、それ故そちをおこされた。今日からは、身共が太郎冠者ぢやによつて、さう心得い。
▲シテ「左様ならば、頼うだ者が何とぞ申しませうが、何とも申しませぬによつて、行て問うて参りませう。
▲アド「いやいや。行くには及ばぬ。汝は頼うだ者の手跡を覚えて居るであらう。
▲シテ「いかにも覚えて居りまする。
▲アド「これ見よ。太郎冠者を遣はすと云うてある。
▲シテ「誠に、見ますれば、頼うだ者の手跡に紛ひもござらぬ。さうござれば、いづ方に奉公致すも同じ事でござるによつて、こなた様に御奉公致しませうず。万事不調法者でござるによつて、お目永に使はせられて下されい。
▲アド「それは念のいつた事ぢや。扨、初めて来て只居るは、あしいものぢや。山一つあなたへ使ひに行て来い。
▲シテ「畏つてはござりまするが、私は持病に脚気がござつて、こなたへさへやうやうと這ひまうて参りましたによつて、山一つあなたでござらば、馬上でなくば、え参られますまい。
▲アド「馬上で遣る程ならば、某が行く。それならば、縄をなうてくれい。
▲シテ「あれもなるまい、これもなるまいと申すは、近頃気の毒にござるが、私はつひに縄をなうた事はござらぬ。その上、たまたまなひまする縄も左り縄で、何の御用にも立ちませぬ。これも御免なされて下されい。
▲アド「いやいや。そちは、縄は得物ぢやと聞いた。
▲シテ「型の如く不調法でござる。
▲アド「それならば、水を汲め。
▲シテ「いや。申し。私もさもしい奉公をこそ致せ、つひに水などを汲んだ事はござらぬ。
▲アド「何の役に立たぬやつの。すつ込んで居をろ。
▲シテ「あゝ。
▲アド「扨も扨も、憎いやつでござる。あの様な役に立たぬ者をおこすといふ事があるものでござるか。これから誰が方へ参つて、金銀を以てきつと算用致させうと存ずる。かねがね調法な者ぢやと申されてござるが、何の役に立たぬやつでござる。いや。参る程にこれでござる。《案内乞うて》
▲主「只今、こなたへ太郎冠者を遣はしてござる。
▲アド「さればその事について参りましてござる。こなたはかねて、調法な者ぢやと仰せられてござるが、何の役に立たぬ者でござる。金銀を以てきつと算用なされて下されい。
▲主「いや。あれはよう使はるゝ者でござるがの。
▲アド「使ひに参れと申せば、馬上でなくば参るまいと申し、縄をなへと申せば、つひになうた事がないと申す。水を汲めと申せば、それも致さず、型の如く役に立たぬ者でござる。
▲主「それは、合点の行かぬ事でござる。縄は、中にもきやつが得物でござるが。いや。私の存じまするは、何とも申さずに遣はしましたによつて、ふてたものでござらう。戻らせられたならば、今の内、又ひと勝負なされた処が、今度はこなたのお仕合せが悪しうて、太郎冠者まで打ち戻されたと仰せられて、この方へ返させられい。私が使うてお目に掛けませう。
▲アド「これは一段と良うござらう。
▲主「こなたは後から良い時分に御出なされて、私が使ひまするを見させられい。
▲アド「心得ました。それならば、かう参りませう。
▲主「もはやござるか。
▲アド「さらばさらば。
▲主「よう御出なされた。
▲アド「はあ。
扨も扨も、聞けば聞く程、憎いやつでござる。急いで罷り帰つて、太郎冠者を戻いて、後から参り、様子を見ようと存ずる。いや。戻り着いた。
やいやい。太郎冠者、太郎冠者。太郎冠者は居らぬか。太郎冠者、太郎冠者。
▲シテ「いや。戻られたさうな。
はあ。呼ばせられまするか。
▲アド「中々。呼ぶ。扨、汝に会うて、何とも面目もない事がある。
▲シテ「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲アド「今の間に又、そちの頼うだ者とひと勝負したれば、今度は某が仕合せがあしうて、汝まで打ち返された。そちは戻つてくれずばなるまい。
▲シテ「やあやあ。何と仰せらるゝ。今の間に又、頼うだ者とひと勝負なされた処に、今度はこなたのお仕合せが悪しうて、私までを打ち返されたと仰せらるゝか。
▲アド「中々。その通りぢや。
▲シテ「扨も扨も、それは気の毒な事でござる。私はいつまでもこなたに御奉公致さうと存じてござるに、この様なお残り多い事はござらぬ。さりながら、又折々お使ひに参りませう程に、相変らずお目を掛けさせられて下されい。
▲アド「それは、如才する事ではないぞ。
▲シテ「扨、私はもはや、かう参りませうか。
▲アド「それならば、戻つてくれい。
▲シテ「さらばさらば。
▲アド「早う行け。
▲シテ「はあ。
▲アド「ゑい。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。いつまであの人の方に奉公する事ぢやと存じてござれば、又、頼うだ人の方へ打ち返させられたと申す。この様な満足な事はござらぬ。まづ急いで罷り帰り、この存分を申さずには置くまい。ありやうに仰せられたならば、参るまいではござらぬに、誑いてやられたと思へば腹が立つ。いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。
申し。頼うだ人。ござるか。ござりまするか。
▲主「いゑ。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲シテ「ござりまするか、ござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲シテ「何ぢや。戻つたか。
▲主「中々。
▲シテ「いや。なう。頼うだ人。よう誑いてやらせられたの。
▲主「近頃面目もない。堪忍をしてくれい。
▲シテ「ありやうに仰せられたならば、参るまいではござらぬに、たらいてやらせらるゝと申す事があるものでござるか。まだ私はようござるが、後にはおかみ様をも打ち込ませらるゝでござらう。
▲主「これに懲りぬ事はあるまい。扨、汝も悦うでくれい。今の間に又ひと勝負したれば、今度は某が仕合せが良うて、金銀は云ふに及ばず、汝までを打ち戻いた程に、悦うでくれい。
▲シテ「それは近頃お仕合せでござるが、もはや思ひ止まらせられたらば、良うござらう。
▲主「もはや、ふつゝりと思ひ切つた。扨、鳥目が夥しうある程に、縄をなうてくれい。
▲シテ「縄をなへ。
▲主「中々。
▲シテ「いゑ。私の得物でござる。只今なうて上げませう。幸ひこれに、なひ掛けがござる。これをなうて上げませう。
▲主「早うなうてくれい。
▲シテ「慮外ながら、こなたは後を控へて居て下されい。
▲主「心得た。
▲シテ「総じて、縄と申す物は、後を控ふると、殊の外はかの行くものでござる。
▲主「さうであらう。
▲シテ「扨、私がこの縄をなひまする内に、誰殿の内の様子を話して聞かせませうか。
▲主「これは面白からう。
▲シテ「扨、まづ私があれへ参りますると、そちが来るのを待つて居たと云はれまする処で、何かは存じませぬが、頼うだ者よりお文をさし越しましてござると申してござれば、扨々、念のいつた。文には及ばぬものを。今日よりしては、こちの太郎冠者ぢや程に、さう心得い、と申されてござる処で、私もびつくりと致いて、それならば、頼うだ者が何とぞ申しませうが、何とも申しませぬによつて、行て問うて参りませうと申してござれば、いやいや。戻るには及ばぬ。汝は頼うだ者の手跡を見覚えて居るであらう、と申されまするによつて、いかにも存じて居りますると申してござれば、これ見よ。太郎冠者を遣はすと書いてある、と申して、こなたのお文を見せられてござる。いかさま、見ますれば、ご手跡に紛ひもござらぬによつて、私の申しまするは、いづ方に御奉公致すも同じ事でござるによつて、こなたに御奉公致しませうず。さりながら、万事つゝと不調法者でござる程に、お目永に使はせられて下されいと申してござれば、近頃念のいつた事ぢや。扨、初めて来て只居るは悪いものぢやによつて、山一つあなたへ使ひに行け、と云はれまする。よう参りませうぞ。畏つてはござれども、私は持病に脚気がござつて、こなたへさへやうやうと這ひまうて参りましてござる。山一つあなたならば、馬上でなくば、え参られますまいと申してござれば、馬上で遣る程ならば、某が行く。それならば縄をなへ、でござる。この得物の縄を。《笑うて》これも、ようなひませうぞ。あれもなるまい、これもなるまいと申すは、近頃いかゞでござるが、私はつひに縄をなうた事はござらず、たまたまなひましても、左り縄で何の御用にも立ちませぬと申してござれば、そちは縄は得物ぢやと聞いた、と云はれまするによつて、型の如く不調法にござると申してござれば、今度は水を汲め、と云はれまする処で、私もむかと腹が立ちましたによつて、いや。申し。さもしい奉公をこそ致せ、つひに水などを汲んだ事はござらぬと申してござれば、何が腹をお立ちやりまして、何の役に立たぬやつの。すつ込んで居よ、と云うて出て行かれましたが、定めてその内の事でござらう。
▲主「その様な事であらう。
▲シテ「扨、私も台所につゝくりと致いて、方々見廻してござれば、あの人も以前は手前良う暮らされたと見えまして、家居もつきづきしうござり、竈数も多うござるが、釜の下では、いつ火を焚いた儘やら、蜘蛛の巣ばかりでござつた。扨又、貧しい癖に夥しい子供でござつて、いかさま、十二、三を頭に致いて、七、八人もござらうか。あそこの隅からはによろり、こゝの隅からはによろりと出まして、何が使ひつけぬ人を使ふ事でござるによつて、こゝへは湯をくれい、かしこへは茶をくれい、身共は水をくれいと申しまする。それぞれに汲んで出しますると、某は茶と云うたに湯をくれた、こゝへは湯と云うたに水をくれた、いや、熱うて舌を焼いたわ、ぬるうてむせたわのと申して、私をせびらかしまする。あの子供にせびられう事ならば、百年の寿命も一時に縮まる事でござる。
▲主「定めてさうであらう。
▲シテ「扨、皆、蜘蛛の子を散らす如く、どちへやら遊びに出て行かれましてござる処で、又私もつゝくりと致いて居りますると、奥の方から山鳩のうめく様に、太郎冠者、太郎冠者、と申して呼びまするによつて、何事ぞと存じて見ましてござれば。《笑うて》誰殿のお内儀の出られましてござる。
▲主「何ぢや。お内儀の出られた。
▲シテ「中々。
▲主「あれは美人で、人に会はせぬと云ふ。
《この辺りにて、アド立つて、「良い時分でござる。参つて見よう」と云うて、一の松より扇子にて叩きて呼ぶ。主見て、うなづきて替る》
▲シテ「何ぢや。美人で人に会はせぬ。《笑うて》いや。又、会はされた面ではござらぬ。まづ、目は猿まなこ、鼻は虹梁鼻、口は耳せゝまでくわつと切れて居りまする。その上、気の上る病を召されたと見えまして、いかさま、物に譬へて申さば、鼠の尾程もござらうか、蛙の尾程もある髪を、くるくると巻いて頭上へとうど打ち上げ、扨又、暗い所で化粧を致されたと見えまして、白い所もあり、黒い所もあり、これも物に譬へて申さば、禿げ山へ霜の降り掛かつた様な、あゝ。何とも見苦しいつらでござる。扨又、血の余りと見えまして、幼いを抱いて出られまして、やい。太郎冠者。この子の守りをせい、と云はれまする。私の申しまするは、只今までの頼うだ者に、幼いがござらぬによつて、つひに御子様のお守りを致いた事はござらぬと申してござれば、子供の守りをしつけたの、しつけぬのと云ふ事があるものか。泣かぬ様に守りをせい、と云うて、私へその子を突き付けて、奥へ行かるゝ後ろ姿を見ましてござれば、その儘、たち臼へ菰を巻いた様なゝりでござつて、その上、足が片方長いか短いか、片やへちがりちがりちがり。《笑うて》扨々、見苦しい体でござる。扨、その子を抱き上げてござれば、総じて幼い子は愛らしいものでござるが、ようお内儀に似られまして、それは憎体な面でござつて、その上、頭へ何やら物が一杯出来ましたが、それへ黒い薬を塗り散らいて、扨々、むさくろしい子でござるによつて、私も進上物を見る様に、つゝと差し出いて抱いて居りましたれば、さすがは幼い子でござる。私を見ますると、にこりにこりと笑ひまする。笑ふつらを見ましたれば、頻りに腹が立ちましたによつて、片やへ連れて参り、太もゝをふつゝりとつめつてござれば、わあと申してほえまする。これをお内儀に聞き付けられてはと存じ、誰が誰が誰がと申してすかせば、その儘機嫌が直りまする。と又、にこりにこりと笑ひまするによつて、今度は握り拳を以て頭をぐわつしりと打ちましてござれば、又、わあと申してほえまする。聞かれてはと存じ、誰が泣かせました。誰が誰が誰がと申してすかせば笑ひ、笑へば打ち、打てば泣く。泣けばすかし、すかせば笑ふ。笑へば頭をぐわつしぐわつしぐわつし。《笑うて》扨も扨も、良い慰みでござつた処で、お内儀の聞き付けられたと見えまして、何が夜叉の荒れた如くに御出やりまして、やい。太郎冠者。なぜにその子を泣かすぞ、と云はれまするによつて、随分とおむつからぬ様にお守りを致いてござるが、見付けさせられぬ故に、おむつかるものでござらうと申してござれば、いやいや。その子に限つて人見知りをする子ではない。おのれが守りの仕様の悪さの儘ぢや。こちへおこせ、と云うて、その子を取つて私をきつとねめられた面は、その儘の鬼瓦でござる。
《と云うて、後ろを見る》
▲アド「何ぢや。鬼瓦。
▲シテ「はあ。御出なされましてござるか。
▲アド「おのれは憎いやつの。よう女共を散々に悪口し居つたな。
▲シテ「あゝ。いや。あれは、お隣のお内儀様の事でござる。
▲アド「その上、秘蔵の伜をよう打擲したな。
▲シテ「いや。あれも、お隣のお子でござる。
▲アド「何の隣子。あの横着者。どれへ行く。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。
▲シテ「許させられい、許させられい。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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