『能狂言』中57 小名狂言 きつねづか
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。当年は豊年とは申しながら、某が田は、畦を限つて良う出来て、この様な満足な事はござらぬ。さりながら、この間狐塚の田へ群鳥があまたつくと申すによつて、両人の者どもを呼び出し、むら鳥を逐ひに遣はさうと存ずる。
やいやい。両人の者。あるかやい。
▲シテ、次郎冠者「はあ。
▲主「居たか。
▲両人「お前に。
▲主「念なう早かつた。汝らを呼び出す事、別なる事でもおりない。当年は豊年とは云ひながら、某が田は、あぜを限つて良う出来て、この様な満足な事はないゝやい。
▲シテ「誠に、こなたの田は畦を限つて良う出来て、我々までも、な。
▲両人「悦ばしい事でござる。
▲主「これと云ふも、汝らが精を出いてくれた故ぢやと思へば、ひとしほ悦ぶ事ぢや。
▲シテ「左様に思し召して下さるれば、両人ともに骨を折つたしるしがあつて、近頃、な。
▲両人「忝う存じまする。
▲主「扨、それについて、ちと苦々しい事があるわ。
▲シテ「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲主「別の事でもないが、この間、狐塚の田へむら鳥がつくと云ふ程に、汝らは太儀ながら、今から逐ひに行てくれい。
▲シテ「畏つてはござれども、左様の事は幼い者の役でござるによつて、誰ぞ子供を遣らせられい。
▲主「近頃尤ぢやが、聞けば、狐塚へは悪い狐がづると云ふによつて、それ故幼い者は遣られぬ。その上、夜分の事ぢや程に、太儀ながら、汝ら行てくれい。
▲シテ「その儀でござらば。
▲両人「畏つてござる。
▲主「まづそれに待て。
▲両人「心得ました。
▲主「この鳴子を遣るによつて、これで逐うてくれい。
▲両人「畏つてござる。
▲主「扨、庵をも二つ作つて置いた程に、両人ともにそれへ這入つて居よ。
▲両人「心得ました。
▲主「ゑい。
▲両人「はあ。
▲シテ「いや。なうなう。
▲次冠「何事ぢや。
▲シテ「扨、当年は豊年とは云ひながら、頼うだ人の田は、畦を限つて良う出来て、この様な満足な事はおりないぞ。
▲次冠「仰しやる通り、めでたい事でおりやる。
▲シテ「今も仰せらるゝは、これと云ふも両人が精を出いた故ぢやと仰せられたが、何と忝い事ではないか。
▲次冠「誠に、骨を折つたしるしがあつて、近頃満足な事でおりやる。
▲シテ「いざ。さらば、日の暮れぬ内に行かうではないか。
▲次冠「いかさま。少しも早う行かしめ。
▲シテ「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲次冠「参る参る。
▲シテ「扨、あの狐塚へは悪い狐が出ると云ふが、何と気味の悪い事ではないか。
▲次冠「仰しやる通り、気味の悪い事でおりやる。
▲シテ「さあさあ。この鳴子をそなた持たしめ。
▲次冠「いやいや。和御料へ仰せ付けられた事ぢやによつて、そなた持つて行かしめ。
▲シテ「扨々、そなたは義理の堅い事を仰しやる。両人へ仰せ付けられた事ぢやによつて、和御料も持たしめ。
▲次冠「それならば、ちと持たう。これへおこさしめ。
▲シテ「心得た。さあさあ。おりやれおりやれ。
▲次冠「参る参る。
▲シテ「両人して精を出いて作つた田を、群鳥に荒らさるゝといふは、何と腹の立つ事ではないか。
▲次冠「仰しやる通り、群鳥などに荒らさるゝといふは、残念な事でおりやる。扨、この鳴子を又、和御料へ渡さう。
▲シテ「扨々、そなたは義理の堅い事を云ふ。今少しぢや程に、持つて行かしめ。
▲次冠「いやいや。和御料の持つた程は持つたによつて、又、そなた持たしめ。
▲シテ「それならば、仲良う両人して持つて行かう。
▲次冠「これは一段と良からう。
▲シテ「とてもの事に、この辺りから逐ひもつて行かう。
▲次冠「それが良からう。《両人して、鳴子を引つ張りて》
▲両人「ほ-い、ほ-い、ほ-い、ほ-い。
▲シテ「何と夥しい群鳥ではないか。
▲次冠「誠に夥しい群鳥ぢや。
▲シテ「又、あれへも来るわ。
▲次冠「心得た。
▲両人「ほをい、ほをい、ほをい、ほをい、ほをい。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、これは早、狐塚へ来たさうな。
▲次冠「誠に狐塚ぢや。
▲シテ「頼うだ人の、庵を二つ作つて置いたと仰せられたが、どこ元にある事ぢや知らぬ。
▲次冠「仰しやる通り、どれにあるか。
▲シテ「日が暮れたによつて知れぬ。いや。一つはこれにあるわ。
▲次冠「それならば、今一つもこの辺りであらうが。どれにあるか。いや。これにある。
▲シテ「それならば、それへ這入つて逐はしめ。身共もこれへ這入つて逐はう。
▲次冠「それならば、身共も這入らう。
▲シテ「いや。なう。これ程に作り済まいた田を、鳥などに荒らさるゝといふは、近頃腹の立つ事ではないか。
▲次冠「仰しやる通り、腹の立つ事でおりやる。
▲シテ「又、あれへ群鳥が来た。
▲次冠「誠に夥しう来た。
▲両人「ほをゝい、ほをゝい、ほをゝい、ほをゝい、ほをゝい。
▲シテ「逃ぐるわ逃ぐるわ。扨も扨も、夥しい事ぢや。
▲次冠「誠に夥しい事ぢや。
▲シテ「いかに鳥ぢやと云うても、あの夥しい鳥に喰はれては、そなたや某が骨を折つたも、無になる事ぢや。
▲次冠「誠にその通りでおりやる。
▲シテ「又、あれへ来たわ。
▲次冠「心得た。
▲両人「ほをゝい、ほをゝい、ほをゝい、ほをゝい、ほをゝい。
《この言葉の内に、主出る。いほへ入つたらば、出て良し》
▲主「両人の者を、狐塚へ群鳥を逐ひに遣はしてござるが、夜も長し、寒うもござるによつて、御酒を持つて参つて遣はさうと存ずる。定めて両人ともに退屈致すでござらう。いや。何かと云ふ内に狐塚ぢや。
ほをゝい。太郎冠者、次郎冠者。どれに居るぞ。ほをゝい、ほをゝい。
▲シテ「いや。なう。次郎冠者。
▲次冠「何事ぢや。
▲シテ「誰やら呼ぶ様な。
▲次冠「身共もさう思ふ。
▲シテ「定めて狐であらう。
▲次冠「必ず油断をお召さりやるな。
▲シテ「心得た。いや。これこれこれ。よう聞けば、あれは頼うだ人の声ではないか。
▲次冠「いかさま、頼うだ人の声によう似た。
▲シテ「今時分、頼うだ人のこれへ出させらるゝ筈ではないが。合点の行かぬ事ぢや。
▲次冠「何とも合点の行かぬ事でおりやる。
▲シテ「さりながら、返事をせずばなるまい。
▲次冠「いかさま、返事をせいでも居られまい。
▲両人「ほをゝい。
▲主「ほをゝい。
▲両人「ほをゝい。
▲シテ「いゑ。頼うだ人でござるか。
▲主「いゑ。両人ともにそれに居るか。
▲シテ「中々。これに居まするが、これは何と思し召して、只今時分出させられてござるぞ。
▲主「夜も長し、夜寒なによつて、汝らに酒を一つ呑ませうと思うて、持つて来た。
▲シテ「それは近頃忝うござる。まづこれへ寄つて、田の様子を見させられい。
▲主「心得た。
▲シテ「次郎冠者。こちへおりやれ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「何とよう化けたではないか。
▲次冠「いかさま、その儘の頼うだ人ぢや。
▲シテ「必ず酒を呑ましますな。
▲次冠「抜かる事ではない。
《この内、主、「扨も扨も、これまでにまで、汝らが骨を折つて作り済まいた田を、群鳥に荒らさるゝといふは、腹の立つ事ぢや」など云うて》
▲主「太郎冠者、次郎冠者。両人ともに、どれへ行たぞ。
▲両人「これに居りまする。
▲主「汝らはどれへ行たぞ。
▲シテ「只今、あれへ群鳥が参りましたによつて、それを。
▲両人「逐ひに参りました。
▲主「やれやれ。それは大儀ぢや{*1}。まづ一つ呑め。
▲シテ「お酌はこれへ下されい。
▲主「身共が注いでやらう。
▲シテ「これは慮外にござる。
▲主「をゝ。恰度あるさうな。
▲シテ「恰度ござる。いや。申し。頼うだ人。あの山合ひからこの田へ、夥しう群鳥が参りまする。
▲主「定めてさうであらう。
《と云うて、主見る内、酒を捨つるなり》
さあさあ。次郎冠者。汝も一つ呑め。
▲次冠「畏つてござる。をゝ。恰度ござる。
▲主「恰度あるさうな。
▲次冠「いや。申し。又、向かうの森を見させられい。あれからも夥しう群鳥が出まする。
▲主「さぞ、さうであらう。
太郎冠者。今一つ呑め。
▲シテ「これは忝うござる。いや。申し申し。群鳥ばかりでもござらず、こゝ元は山田でござるによつて、折々は、猿や猪なども出まする。
▲主「定めてさうであらう。
▲シテ「あれ、見させられい。何やら出ましてござる。
▲主「はあ。どこ元へ出たぞ。
▲シテ「又、どれへやら這入りました。
▲主「さあさあ。汝も又一つ呑め。
▲次冠「畏つてござる。あれ、あの田を見させられい。夥しい群鳥でござる。
▲主「誠に夥しい群鳥ぢや。
さあさあ。太郎冠者。今一つ呑め。
▲シテ「今一つたべませうか。
▲主「それが良からう。
▲シテ「いや。申し。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「こなたの田は見させらるゝ通り、青々と生ひ立ちまして、穂などもよう出ましたが、あれ、向かうの田を見させられい。あの如く瘠せて見えまする。
▲主「誠に、畦一つ向かうは、格別に痩せて見ゆる。
さあさあ。汝も又一つ呑め。
▲次冠「心得ました。申し申し。あの山を見させられい。
▲主「何とした。
▲次冠「あれから夥しう群鳥が、あれ、あの如く出まする。
▲主「誠に夥しい群鳥ぢや。
扨、もはや呑まぬか。
▲シテ「もうたべますまい。
▲主「汝も呑まぬか。
▲次冠「私も、もはやたべますまい。
▲主「それならば、取らう。これは夜も長いに、汝ら両人でこれに居ては、さぞ淋しからうが、これ程にまで作り済まいて、程なう今少しで取り入るゝ処を、群鳥に喰らはするは残念な事ぢや程に、取り入れたならば、両人ともにゆるりと休息させうによつて、精を出いて逐うてくれい。
《この言葉の内に、太郎冠者立つて》
▲シテ「なう。こちへおりやれ。
▲次冠「何事ぢや。
▲シテ「ようもようも化けたではないか。
▲次冠「仰しやる通り、頼うだ人にその儘ぢや。
▲シテ「扨、身共が思ふは、狐は煙を嫌がるものぢやと云ふによつて、両人して、いぶいて正体を顕はし、生け捕りにして、頼うだ人へのお土産にせうではないか。
▲次冠「これは一段と良からう。
▲シテ「必ず抜かるまいぞ。
▲次冠「抜かる事ではない。
▲主「やいやい。両人ともに、又、どれへ行たぞ。
▲シテ「これに居りまする。又、あれへ群鳥が参りましたによつて、逐ひに参りました。
▲主「それは近頃、骨折りぢや。
▲シテ「やい。くんと云へ。
▲主「何とするぞ。
▲次冠「くんと云へ。
▲シテ「尾を出せ。
▲次冠「尾を出せ。
▲主「これは何とするぞ。
《主、迷惑するを、両人とも悦びて、松葉にてふすべて》
▲シテ「くんと云へ。
▲次冠「尾を出さぬか。
▲主「おのれらは、何とするぞ。
▲シテ「何とすると云うて、ようもようも、頼うだ人に化け居つたな。おのれ、それが良いか。これが良いか。頼うだ人へのお土産にするぞ。
《と云うて、鳴子の縄にて、主を両人して縛る》
▲主「やいやい。これは身共ぢやわ。
▲シテ「頼うだ人でござるか。
▲両人「あゝ。許させられい、許させられい。
▲主「おのれら憎い奴の。主をこの様にして、将来がようあるまい。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「太儀や」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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