『能狂言』中58 小名狂言 ちどり
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。今晩、俄かに客がござるによつて、太郎冠者を呼び出し、いつもの酒屋へ酒を取りに遣はさうと存ずる。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今晩、俄かに客がある程に、いつもの酒屋へ行て、酒を一樽取つて来い。
▲シテ「畏つてはござりまするが、内々の通ひの表が済みませぬによつて、参つたりと、おこしは致しますまい。
▲主「その通ひのおもても、近々には算用しようず。又、汝は酒屋の亭主と相口ぢやと云ふによつて、面白可笑しう云うて、一樽取つて来い。
▲シテ「仰せらるゝ通り、亭主とあひくちではござれども、いつ取つて参つても、太郎冠者、一つ呑めとも仰せられぬ。これは、御免なされて下されい。
▲主「皆まで云ふな。今度取つて来たらば、汝に口切りをさせうぞ。
▲シテ「やあやあ。何と仰せらるゝ。今度取つて参つたならば、私に口切りをさせうと仰せらるゝか。
▲主「中々。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲主「内も忙しい。やがて戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。《主、引つ込む》
扨も扨も、こちの頼うだ人の様な、むさとしたお方はない。内々の通ひの表も済まさいで、又しても酒を取つて来いと仰せらるゝ。さりながら、参らずばなるまい。まづ急いで参らう。かう参つても、酒をおこせば良うござるが。もしおこさぬ時は、参つた詮もない事ぢや。さりながら、面白可笑しう申したならば、おこさぬ事はござるまい。いや。参る程にこれぢや。《常の如く、案内乞うて》
▲酒屋「いゑ。和御料の来るを待つて居た。
▲シテ「それは、いかやうの事でござる。
▲酒屋「内々の通ひのおもては、何とするぞ。
▲シテ「はあ。これも近々には算用致しまする。今二、三日待たせられて下されい。
▲酒屋「そなたの二、三日、二、三日も、ほうど聞き飽いた。きつと算用さしめ。
▲シテ「何が扨、きつと算用致しませう。それに付き、只今参るも別なる事でもござらぬ。今晩俄かに客がござるによつて、いつもの良い酒を一樽おこいて下されい、と申し越しましてござる。
▲酒屋「これはいかな事。内々の通ひの表も済まさいで、ようもようもその様な事が云うておこさるゝ事ぢや。
▲シテ「こなたの左様に仰せられうと存じ、当座の代はりは持つて参つた。
▲酒屋「何ぢや。当座の代はりは持つて来た。
▲シテ「中々。
▲酒屋「いゑ。それならば、どこへやるも同じ事ぢや。今、出いておまさう程に、まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「心得ました。
▲酒屋「なうなう。これは、よそへやると云うて、念を入れて詰めて置いたれども、当座の代はりを持つて来たと仰しやるによつて、出いてやる。これを持つて行かしめ。
▲シテ「これは忝うござる。すれば、きいて見るには及びませぬか。
▲酒屋「いやいや。きいて見るには及ばぬ事ぢや。
▲シテ「それならば、かう持つて参らう。
▲酒屋「これこれ。代はりをおこさしめ。
▲シテ「代はりとは。
▲酒屋「この樽の代はりをおこさしめ。
▲シテ「はあ。代はりの。
▲酒屋「中々。
▲シテ「只今、進じませう。はて、合点の行かぬ。何とした知らぬ。申し。それに何ぞ落ちてはござらぬか。
▲酒屋「いやいや。この辺りに何も落ちてはない。
▲シテ「をゝ。それそれ。頼うだ人より受け取る事は受け取つてござるが、余りの忙しさに、棚の端へちよつと上げて参つた。持つて行て、只今代はりを持つて参らう。
▲酒屋「いやいや。その代はりを持つて来て、その上でこの樽を持つて行たが良い。
▲シテ「やあら。こなたは聞こえぬ事を仰せらるゝ。只今初めて取る酒ではなし、一度ばかり代はりなしにやらせられても、苦しうござるまいがの。
▲酒屋「いや。そちにこそ聞こえぬ事がある。
▲シテ「何が聞こえませぬぞ。
▲酒屋「代はりのある時はよそで取つて、代はりのない時ばかり某が方へ取りに来る。その様な沙汰の限りな事があるものか。
▲シテ「それには証拠ばしござるか。
▲酒屋「証拠のない事を云はうか。そなたの内に、酒のいらぬ日はあるまい。
▲シテ「中々。いらぬ日はござらぬ。
▲酒屋「それに、この間取りに来ぬが証拠ぢや。
▲シテ「この間取りに来ぬこそ道理なれ。頼うだ人の、尾張の津島祭を見物に行かれて、私もその供に参つたによつて。はて、留守に酒のいらう様がござらぬ。
▲酒屋「やあやあ。津島祭を見物に行た。
▲シテ「中々。
▲酒屋「これは面白い祭ぢやと聞いたが、何とでおりやる。
▲シテ「こなたの話好きでござるによつて、話いて聞かせませうと存じて、よう覚えて参つた。
▲酒屋「これは面白からう。一つ話さしめ。
▲シテ「それならば、一つ話しませうか。
▲酒屋「それが良からう。
▲シテ「まづ、これから伊勢路へかゝつて参れば、浜辺で千鳥を伏する所がござるが、これが面白い事でござる。
▲酒屋「誠にこれは珍しい。面白い事であらう。
▲シテ「とてもの事に、仕形を致し、学うでお目に掛けませう。
▲酒屋「それは、尚々でおりやる。
▲シテ「さりながら、相手がいりまする。
▲酒屋「はあ。相手には誰が良からうぞ。
▲シテ「こなた、ならせられい。
▲酒屋「身共でも済む事か。
▲シテ「中々。こなたは、浜千鳥の友呼ぶ声は、と仰せられい。私の、ちりちりや、ちりちり、と申して、千鳥を伏する処を致しませう。
▲酒屋「これは一段と良からう。
▲シテ「これには、千鳥がいりまする。
▲酒屋「千鳥には、何が良からうぞ。
▲シテ「この樽が良うござらう。
▲酒屋「千鳥には、ちと大きからう。
▲シテ「大きうはござれども、こなたさへ千鳥ぢやと思し召せば、済む事でござる。
▲酒屋「誠に、某さへ千鳥ぢやと思へば、済む事ぢや。
▲シテ「それならば、急いで囃させられい。
▲酒屋「心得た。《謡》
浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シテ「いや。申し。その様にして居させられては、千鳥が立ちまする。扇子をかざいて、いかにも千鳥に忍ぶ体で囃させられい。
▲酒屋「それでは面白い処が知れまい。
▲シテ「面白い時分には、こちから左右を致しませう程に、必ず見させらるゝな。
▲酒屋「それならば、必ずさうを待つぞや。
▲シテ「又、囃させられい。
▲酒屋「《謡》浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シテ「《謡》ちりちりや、ちりちり。ちりちりや、ちりちりと、ちり飛んだり。
▲酒屋「《謡》浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シテ「《謡》ちりちりや、ちりちり。ちりちりや、ちりちり。
なぜに、こちを見させられた。
▲酒屋「余り面白さうにあつたによつて、それ故見た。
▲シテ「これはいかな事。面白い時分は左右を致しまする。それまでは、必ずこちを見させらるゝな。千鳥が立ちまする。
▲酒屋「それならば、さうを待つぞや。
▲シテ「急いで囃させられい。
▲酒屋「《謡》浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シテ「《謡》ちりちりや、ちりちり。ちりちりや、ちりちりと、ちり飛んだり。
▲酒屋「あゝ。これこれ。その樽を、どれへ持つておりやる。
▲シテ「これは、千鳥を伏する処でござる。
▲酒屋「いやいや。この話は面白うない。他の話を承らう。
▲シテ「それならば、この度は、祭に山鉾を曳く体がござつたが、これが面白い事でござる。これを話しませう。
▲酒屋「これは面白からう。
▲シテ「又、これにも相手がいりまする。
▲酒屋「身共でも済む事か。
▲シテ「中々。済む事でござる。こなたは、ちやうさや、ようさ、と云うて囃させられい。私の、ゑいともゑいともゑいともな、と申して、山鉾を曳く体を話しませう。
▲酒屋「これは面白からう。
▲シテ「又、これには山がいりまする。
▲酒屋「何ぢや。山がいる。
▲シテ「中々。
▲酒屋「山には何が良からうぞ。
▲シテ「何ぞ山になるものがあるか、問うて見させられい。
▲酒屋「心得た。
やいやい。何ぞ、山になる物はないか。ぢやあ。
あゝ。これこれ。その樽をどれへ持つて行くぞ。
▲シテ「これが山にならうかと存じての事でござる。
▲酒屋「それは、山にはちと小さからう。
▲シテ「小さうはござれども、こなたさへ山ぢやと思し召せば、済む事でござる。幸ひこれに、良い縄が付いてござる。これをかう致いて、山鉾を曳く体を話しませう。急いで囃させられい。
▲酒屋「心得た。《囃子物》
ちやうさや、ようさ。ちやうさや、ようさ。
▲シテ「《囃子物》ゑいともゑいともゑいともな。ゑいともゑいともゑいともな。
▲酒屋「《囃子物》ちやうさや、ようさ。ちやうさや、ようさ。
▲シテ「《囃子物》ゑいともゑいともゑいともな。ゑいともゑいともゑいともな。
▲酒屋「《囃子物》ちやうさや、ようさ。ちやうさや、ようさ。
▲シテ「《囃子物》ゑいやあ、ゑいやあ、ゑいやあ、ゑいやあ。
▲酒屋「これこれ。その樽をどちへ曳いて行くぞ。
▲シテ「これは、山を速むる処でござる。
▲酒屋「いやいや。この話も面白うない。
▲シテ「扨々、こなたは話にやうがましい人でござる。
▲酒屋「やうがましいではなけれども、やゝともすれば、この樽を取りたがるによつて、話が身に沁まいで面白うおりない。
▲シテ「話したうはござれども、内も忙しうござる。行て代はりを取つて参らう。
▲酒屋「あゝ。これこれ。和御料は人に物を思はする様な。今一つばかり話いたと云うて、手間の取るゝ事ではない。今一つ話いて行かしめ。
▲シテ「話したうはござれども、話いたりとも樽はやらせられず。行て代はりを取つて参りませう。
▲酒屋「あゝ。これこれ。今度話が出来たならば、代はりなしにあの樽をやるまいものでもおりない。
▲シテ「何と仰せらるゝ。話が出来たならば。代はりなしにあの樽をやるまいものでもないと仰せらるゝか。
▲酒屋「中々。その通りぢや。
▲シテ「いゑ。それならば、今一つ話しませう。
▲酒屋「それが良からう。
▲シテ「とかくこなたは、樽のいる事は嫌ひでござるの。
▲酒屋「中々。樽のいらぬ話が良うおりやる。
▲シテ「それならば、流鏑馬の体を話しませう。
▲酒屋「これは面白からう。
▲シテ「又、相手がいりまする。こなた、ならせられい。
▲酒屋「某でも済む事か。
▲シテ「中々。こなたは扇子を広げて、馬場のけ馬場のけと云うて、馬場先の人を払はせられい。私の、お馬が参るお馬が参ると申して、色々の曲乗りを致しませう。
▲酒屋「これは一段と面白からう。
▲シテ「幸ひこれに、良い杖竹がござる。これをかう、竹馬に致しまする程に、急いで馬場先の人を払はせられい。
▲酒屋「心得た。馬場のけ、馬場のけ。
▲シテ「お馬が参る、お馬が参る。
▲酒屋「馬場のけ、馬場のけ。
▲シテ「お馬が参る、お馬が参る。
▲酒屋「やいやいやい。
▲シテ「やあやあ。
▲酒屋「それをどちへ持つて行く。
▲シテ「これか、これか
▲酒屋「中々。
▲シテ「頼うだ人へ。お馬が参る、お馬が参る。
▲酒屋「あの横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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