『能狂言』中59 小名狂言 ぼうしばり

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、所用あつて山一つあなたへ参るが、いつも留守になれば、両人の者が酒を盗んでたべまするによつて、今日は両人ともに縛めて出ようと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出し、談合致す事がござる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。所用あつて二、三日の逗留に山一つあなたへ行く程に、よう留守をせい。
▲太冠「畏つてござる。
▲主「それについて、次郎冠者を縛めうと思ふが、何としていましめうぞ。
▲太冠「お咎めの程は存じませぬが、これは、ご許されて下されい。
▲主「いやいや。深しい事ではない。誠に懲らしめのために縛むるが、あの次郎冠者は、日頃心得たやつぢやによつて、只は縛しめられまいが、何とせうぞ。
▲太冠「それならば、良い事がござる。
▲主「何とするぞ。
▲太冠「この間、きやつが棒を稽古致しまする。中にも、夜の棒と申して、きやつが秘蔵の棒がござるによつて、これをご所望なされて、使ひまする処を、こなたと私と致いて棒縛りに致しませうが、何とでござらう。
▲主「これは一段と良からう。それならば、次郎冠者を呼び出せ。
▲太冠「畏つてござる。
なうなう。次郎冠者、召すわ。
▲シテ「何ぢや、召す。
▲太冠「中々。
▲シテ「召すなら召すと、疾う仰しやらいで。
次郎冠者、お前に。
▲主「念なう早かつた。そちを呼び出す事、別なる事でもない。聞けば、汝は棒を稽古するとな。
▲シテ「いや。左様の事は致しませぬ。
▲主「な隠しそ。太郎冠者が告げた。
▲シテ「和御料が申し上げたか。
▲太冠「いかにも身共が申し上げた。
▲シテ「それならば、使うてお目に掛けませうが、まづ棒を取つて参りませう。
▲主「早う取つて来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲太冠「急いで取つて渡しめ。
▲シテ「心得た。
申し。この棒でござる。
▲主「その棒か。
▲シテ「中々。
▲主「急いで使うて見せい。
▲シテ「畏つてござる。まづ向かうから打つて参る。かう受けまする。打つた太刀なれば、引かねばなりませぬ。引く処を付けて参り、胸板をほうど突き、たじたじたじとする処を、押つ取り直いて諸ずねを、打つて打つて打ちなやいてやりまする。
▲主「扨々、潔い事ぢやなあ。
▲太冠「左様でござる。
▲シテ「又、合ひには、かやうに致いて参れば、中々辺りへ寄せ付くる事ではござらぬ。
▲主「いかさま、さうであらう。扨又、何とやらいふ棒があつたが。それそれ。夜の棒であつた。それをも使うて見せい。
▲シテ「そなたは夜の棒まで申し上げたか。
▲太冠「中々。申し上げた。
▲シテ「これは私の秘蔵の棒でござれども、申し上げた事でござるによつて、使うてお目に掛けませう。総じて私如きの者は、夜中にお使ひに参るとても、丸腰でござる。その時分にこの棒が一本あれば、怖い事も怖ろしい事もござらぬ。まづ夜の棒と申すは、かやうに致いたものでござる。右から打つて参れば、かう受けまする。又、左から打つて参れば、かう受けまする。とかく、後先に用心を致いてさへ参れば、怖い事も怖ろしい事もござらぬ。
《この言葉の内、主と太郎冠者と、目配せして》
▲主「がつきめ。やるまいぞ。
▲シテ「これは何となさるゝ。
▲主「何とするとは。覚えがあらう。
▲シテ「覚えはござらぬ。太郎冠者。何とするぞ。
▲太冠「御意ぢや御意ぢや。おゝ、良いなりの。
▲主「がつきめ。
▲太冠「私は何もお咎めはござりますまい。
▲主「汝も覚えがあらう。
▲太冠「覚えはござらぬ。
▲シテ「申し。頼うだ人。きつと縛めさせられい。
▲主「心得た。扨、思ふ仔細があつて、両人ともに縛むる。身共は山一つあなたへ二、三日逗留に行く程に、よう留守をせい。
▲シテ「いや。申し。何と、この体でお留守がなるものでござるぞ。
▲主「もはや某は行くぞ。
▲太冠「申し。盗人が這入つても、存じませぬぞ。
▲シテ「申し。頼うだ人。
▲太冠「頼うだお方。
▲シテ「これはいかな事。はや行かれたさうな。
▲太冠「誠に行かれた。
▲シテ「まづ下におりやれ。
▲太冠「心得た。《太郎冠者、大臣柱の方。次郎冠者、目付柱の方》
▲シテ「扨、何としてこの様に縛められたものであらうぞ。
▲太冠「されば、何として縛められたものであらうぞ。
▲シテ「いや。某が思ふは、いつもお留守にさへなれば、両人して酒を盗んで呑むによつて、それを呑ますまいために縛められたものであらうと思ふ。
▲太冠「仰しやる通り、それ故縛められたものであらう。
▲シテ「何と思ふぞ。かやうに縛められたと思へば、ひとしほ酒が呑みたいではないか。
▲太冠「誠に、呑まれぬと思へば、ひとしほ呑みたい事ぢや。
▲シテ「何とやら手の先が動く様な。酒蔵の戸をあけて見よう。
▲太冠「何と、その体であくものぢや。
▲シテ「まづお待ちやれ。
ぐわらりぐわらりぐわらり。ぐわらぐわらぐわら。
まんまとあいた。
▲太冠「誠にあいた。
▲シテ「扨、これはどれにせうぞ。
▲太冠「それは、そなたの物好きが良からう。
▲シテ「それならば、この蓋の取り掛けがある。これに致さう。
▲太冠「いかさま、それが良からう。
▲シテ「やつとな。むゝ。旨い匂ひがする。
▲太冠「誠に旨い匂ひがする。
▲シテ「まづ汲む物を取つて参らう。
▲太冠「早う取つて渡しめ。
▲シテ「心得た。さあさあ。一つ汲んだ。和御料、呑ましめ。
▲太冠「身共に呑まするか。
▲シテ「中々。呑ましめ。そりやそりやそりや。
▲太冠「むゝ。扨々、旨い事ぢや。
▲シテ「さうであらう。今度は身共がたべう。
▲太冠「それが良からう。
▲シテ「これはいかな事。皆こぼるゝ。
▲太冠「誠にこぼるゝ。
▲シテ「又、これもそなたに呑まさう。
▲太冠「又。身共に呑まするか。
▲シテ「是非に及ばぬ。又、呑ましめ。
▲太冠「むゝ。扨々、旨い事ぢや。
▲シテ「そなたばかり呑うで、身共も呑みたいものぢや。
▲太冠「いかさま、身共ばかり呑うでも、面白うない。和御料にも呑ませたいものぢやが。いや。良い事を思ひ付いた。今一つ汲んで渡しめ。
▲シテ「何とするぞ。
▲太冠「まづ汲んでおりやれ。
▲シテ「心得た。扨、これを何とするぞ。
▲太冠「この身共が手へ持たせて呑ましめ。
▲シテ「これは、一段と良い調儀ぢや。
▲太冠「そりやそりや。何と、呑まるゝか。
▲シテ「殊の外旨い事ぢや。
▲太冠「又、汲んでおりやれ。
▲シテ「心得た。
▲太冠「ちと謡はしめ。
▲シテ「《小謡》。これは、上々の酒盛になつた。
▲太冠「その通りぢや。
▲シテ「扨、一つ受け持つた程に、何ぞ舞はしめ。
▲太冠「何と、この体で舞はるゝものぢや。
▲シテ「いやいや。その体が面白い。平に舞はしめ。
▲太冠「それならば、舞はうか。
▲シテ「それが良からう。
▲太冠「《「所々」を舞ふ》
▲シテ「やんやゝんや。骨折りに、そなたに呑まさう。
▲太冠「又、某に呑まするか。
▲シテ「そりやそりやそりや。
▲太冠「むゝ。呑めば呑む程、旨い事ぢや。
▲シテ「又、汲んで参らう。
▲太冠「早う汲んで渡さしめ。
▲シテ「《又、小謡》
▲太冠「扨、今度は某が受け持つた程に、そなた舞はしめ。
▲シテ「身共こそ、この体ぢや。許いてくれさしめ。
▲太冠「いやいや。身共も舞うた。是非とも舞はしめ。
▲シテ「それならば、舞はうか。
▲太冠「それが良からう。
▲シテ「謡うてくれさしめ。
▲太冠「心得た。
▲シテ「《「十七、八」を舞ふ》
▲太冠「やんやゝんや。さらば、骨折りにこれをそなたへ呑まさう。
▲シテ「呑まいてくれさしめ。
▲太冠「そりやそりやそりや。
▲シテ「むゝ。扨々、旨い事かな。又、汲んで参らう。
▲太冠「それが良からう。
▲シテ「《「ざゞんざ」を謡ふ》。これは、いついつよりも、ひとしほ面白い事ではないか。
▲太冠「仰しやる通り、いつもよりひとしほ面白い事でおりやる。
▲シテ「扨、頼うだ人は、この様な事は知らず、両人の者を縛めて置いたと思うて、ゆるりと慰うで居らるゝであらう。
▲太冠「誠に、心安う思うて、ゆるりと慰うで居らるゝであらうとも。扨又、これをそなたへ呑まいてやらう。
▲シテ「又、身共に呑まするか。
▲太冠「中々。これはいかな事。なう。その盃の内をお見やれ。
▲シテ「盃の内が何とした。はて、合点の行かぬ。あれは、頼うだ人の影ではないか。
▲太冠「誠に、頼うだ人の影ぢや。
▲シテ「頼うだ人の影が、何としてこの盃の内へ映つたものであらうぞ。
▲太冠「仰しやる通り、何として映つたものであらうぞ。
▲シテ「某が思ふは、日頃頼うだ人は吝い人ぢやによつて、両人の者を縛めては置いたれども、酒を盗んで呑みはせぬかと思し召す執心が、この盃の内へ映つたものであらう。
▲太冠「誠に、しわい人ぢやによつて、その執心が盃の内へ映つたものであらう。
▲シテ「これについて、謡がある。謡うたならば、合点であらう。つけさしめ。
▲太冠「心得た。
▲シテ「《謡》月は一つ。
▲太冠「《謡》影は。
▲シテ「《謡》二つ。
▲両人「《謡》みつ潮の夜の盃に、主を乗せて主とも思はぬ内の者かな。
▲主「何の、内の者。
▲両人「そりや。帰らせられた。
▲主「おのれは憎い奴の。留守によう酒を盗んで呑み居つたな。
▲太冠「いや。たべは致しませぬ。
▲主「あれ程呑うで、呑まぬと云ふ事があるものか。
▲太冠「あゝ。許させられい、許させられい。
▲主「次郎冠者は何としたか知らぬ。
▲シテ「扨々、苦々しい事ぢや。何としたものであらうぞ。
▲主「やい。次郎冠者。よう酒を盗んで呑み居つたな。
▲シテ「いや。私はたべは致しませぬ。
▲主「何の、呑まぬと云ふ事があるものか。おのれ、打擲してやらう。
▲シテ「何ぢや。打擲。
▲主「中々。
▲シテ「打擲ならば、夜の棒で参らう。
▲主「夜の棒とは。
▲シテ「やつとな。
▲主「何とする。
▲シテ「やつとな。
▲主「何とするぞ。
▲シテ「やつとな、やつとな、やつとな。
▲主「あゝ、許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁