『能狂言』中60 小名狂言 ぶす
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。二、三日の逗留に山一つあなたへ参る。それにつき、両人の者を呼び出し、留守を申し付けうと存ずる。《常の如く呼び出して》
汝らを呼び出す事、別なる事でもない。二、三日の逗留に山一つあなたへ行く程に、両人ともに、よう留守をせい。
▲シテ「畏つてはござりまするが、いつも両人の内、いち人はお供に参りまするによつて、今日も一人は。
▲シテ、次郎冠者「お供に参りませう。
▲主「いやいや。今日は思ふ仔細があつて、両人ともに留守に置く。まづそれに待て。
▲両人「畏つてござる。
▲主「やいやい。これは、附子といふ物ぢや程に、大切に番をせい。
▲シテ「それならば、両人ともにお供に参りませう。
▲主「それはなぜに。
▲シテ「はて。あれがお留守を致さば、別にお留守は。
▲両人「いりますまい。
▲主「いやいや。留守ではない。ぶすというて、大毒で、あの方から吹いて来る風に当たつても滅却する程に、よう番をせい。
▲シテ「畏つてござる。
▲次冠「いや。申し。ちと申し上げたい事がござる。
▲主「何事ぢや。
▲次冠「その、風に当たつても滅却する物を、何としてこなたはもて扱はせらるゝぞ。
▲主「あれは、主を思ふ物で、その主が取り扱ふ分は、少しも苦しうない。汝らが傍へ寄つたならば滅却する程に、風にも当たらぬ様に、番をせい。
▲次冠「畏つてござる。
▲主「某はもはや行くぞ。
▲シテ「はやござるか。
▲主「中々。
▲シテ「ゆるりと。
▲両人「慰うで帰らせられい。
▲主「心得た。
▲シテ「申し。頼うだ人。
▲次冠「頼うだお方。
▲シテ「もはや行かれたさうな。
▲次冠「誠に行かれたさうな。
▲シテ「まづ、下におりやれ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「扨、最前も云ふ通り、いつも両人の内、一人はお供に行くが、今日は何として両人ともにお留守に置かせらるゝ事ぢや知らぬ。
▲次冠「仰しやる通り、何としてお供に連れさせられぬ事ぢや知らぬ。
▲シテ「さりながら、いつもは一人で淋しいが、今日は両人ともにお留守をする事ぢやによつて、ゆるりと話さうぞ。
▲次冠「誠にゆるりと慰まう。
▲シテ「そりや。
▲次冠「何とした。
▲シテ「附子の方から風が吹いて来た。
▲次冠「それは、危ない事であつた。
▲シテ「ちと間を隔てゝ居よう。
▲次冠「それが良からう。
▲シテ「扨、最前そなたも仰しやる通り、あの方から吹く風に当たつてさへ滅却する物を、頼うだ人は何としてもて扱はせらるゝ事ぢや知らぬ。
▲次冠「いかに主を思ふ物ぢやと云うて、何とも合点の行かぬ事でおりやる。
▲シテ「扨、某はあの附子を見ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲次冠「こゝな者は。あの方の風に当たつてさへ滅却する物が、何と見らるゝものぢや。
▲シテ「あの方の風を受けぬ様に、こちらからあふいで行かう。
▲次冠「これは一段と良うおりやらう。
▲シテ「それならば、あふいでくれさしめ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「あふげ、あふげ。
▲次冠「あふぐぞ、あふぐぞ。
▲シテ「あふげ、あふげ。
▲次冠「あふぐぞ、あふぐぞ。
▲シテ「今、紐を解く程に、良うあふいでくれさしめ。
▲次冠「心得た、心得た。
▲シテ「そりや。解いたわ、解いたわ。
▲次冠「何と、解いたか。
▲シテ「まんまと解いた。今度は蓋を取つて参らう。
▲次冠「早う取つて渡しめ。
▲シテ「又、あふいでおくりやれ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「あふげ、あふげ。
▲次冠「あふぐぞ、あふぐぞ。《幾つも云うて》
▲シテ「追つ付け蓋を取る程に、随分と精を出いて、あふいでくれさしめ。
▲次冠「心得た、心得た。
▲シテ「そりや。取つたわ、取つたわ。
▲次冠「何と、取つたか。
▲シテ「まづ落ち着いた。
▲次冠「落ち着いたとは。
▲シテ「さればその事ぢや。生き物ならば、取つて出ようが、生き物ではないと見えた。
▲次冠「さりながら、騙すかも知れぬ。
▲シテ「見届けて参らう。
▲次冠「それが良からう。
▲シテ「又、あふいでくれさしめ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「あふげ、あふげ。
▲次冠「あふぐ、あふぐ。《幾つも云うて》
▲シテ「追つ付け見るによつて、ようあふいでくれさしめ。
▲次冠「心得た。
▲シテ「そりや。見たわ、見たわ。
▲次冠「何と、見たか。
▲シテ「黒う、どんみりとして、旨さうな物ぢや。
▲次冠「何ぢや。黒うどんみりとして、旨さうな物ぢや。
▲シテ「中々。
▲次冠「それならば、身共も見て参らう。
▲シテ「早う見て渡しめ。
▲次冠「和御料は、あふいでくれさしめ。
▲シテ「心得た。
▲次冠「あふげ、あふげ。
▲シテ「あふぐぞ、あふぐぞ。《幾つも云うて》
▲次冠「今見る程に、念を入れてあふいでくれさしめ。
▲シテ「心得た、心得た。
▲次冠「そりや。見たわ、見たわ。
▲シテ「何と、見たか。
▲次冠「誠に、黒うどんみりとして、旨さうな物ぢや。
▲シテ「扨、身共はあの附子を喰うて見ようと思ふ。
▲次冠「こゝな者は。風に当たつてさへ滅却する物を、何として喰はるゝものぢや。
▲シテ「いや。身共はあの附子に領ぜられたかして、頻りに喰ひたうなつた。行て、喰うて参らう。
▲次冠「やる事はならぬ。
▲シテ「そこを放せ。
▲次冠「放す事はならぬ。
▲シテ「放せと云ふに。
▲次冠「ならぬと云ふに。
▲シテ「《謡》名残の袖をふり切りて、附子の傍へぞ寄りにける。
▲次冠「あゝ。扨々、気の毒な。今に滅却するであらう。
▲シテ「あゝ。死ぬるわ、死ぬるわ。
▲次冠「さればこそ。
これこれ。太郎冠者。何としたぞ、何としたぞ。
▲シテ「旨うて死ぬる。
▲次冠「何ぢや。旨うて死ぬる。
▲シテ「中々。
▲次冠「扨、それは何ぢや。
▲シテ「これは、砂糖ぢや。
▲次冠「何ぢや。砂糖ぢや。
▲シテ「中々。
▲次冠「それならば、身共にもちと喰はさしめ。
▲シテ「さらば、喰うてお見やれ。
▲次冠「心得た。
誠に、これは砂糖ぢや。
▲シテ「いや。これこれ。そなたばかりに喰はせてはならぬ。こちへおこさしめ。
▲次冠「いやいや。和御料は最前から喰うた程に、まづ身共が喰はねばならぬ。
▲シテ「いやいや。身共が喰はねばならぬ。
▲次冠「これこれ。その様にそなたばかり喰ふものか。又、こちへもおこさしめ。
▲シテ「いやいや。やる事はならぬ。
▲次冠「いや。身共も喰はねばならぬ。こちへおこさしめ。
▲シテ「それならば、ともどもにたべう。
▲次冠「それが良からう。
▲シテ「扨も扨も、旨い事ではないか。
▲次冠「誠に、旨い事ぢや。
▲シテ「頼うだ人の、我々に喰はすまいと思し召して、附子ぢやの何のと仰しやつた。憎さも憎し、只喰へ、只喰へ。
▲次冠「仰しやる通り、風に当たつても滅却するなどゝ云はれた。憎さも憎し、只喰へ、只喰へ。
▲シテ「手が離さるゝものではない。
▲次冠「頤が落つる様な。
▲シテ「只喰へ、只喰へ。
や。皆になつた。
▲次冠「誠に、皆になつた。
▲シテ「をゝ。良い事をお召さりやつたの。
▲次冠「良い事をしたと云うて、附子を見初めたも、喰ひ初めたもそなたぢや。お帰りなされたならば、この由をまつすぐに申し上ぐるぞ。
▲シテ「これは戯れ言。あのお掛け物を引き裂かしめ。
▲次冠「引き裂けば、申し訳になるか。
▲シテ「中々。
▲次冠「心得た。それならば、引き裂かう。さらりさらり。ばつたり。
▲シテ「をゝ。良い事をお召さりやつたの。
▲次冠「良い事をしたとは。
▲シテ「まづ、附子は身共が見初めたにも喰ひ初めたにもさしめ。そもやそも、頼うだ人のお大切のお掛け物を、引き裂くといふ事があるものか。お帰りなさるゝと、まつすぐに申し上ぐるぞ。
▲次冠「これも、和御料が引き裂けと云うたによつて、引き裂いた。某こそ、お帰りなさるゝと、まつすぐに申し上ぐるぞ。
▲シテ「これもざれごと。今度はあの台天目を打ち割れ。
▲次冠「いやいや。身共はもはや嫌ぢや。
▲シテ「それならば、ともどもに割らう。
▲次冠「それならば、割らう。
▲両人「ぐわらりゝ。ちん。
▲シテ「はあゝ。微塵になつた。
▲次冠「誠に、微塵になつた。扨、申し訳は何とするぞ。
▲シテ「お帰りなされたならば、何かを差し置いて、泣かしめ。
▲次冠「泣けば、言ひ訳があるか。
▲シテ「中々。あるとも。やうやうお帰りなさるゝ時分ぢや。これへ寄つておりやれ。
▲次冠「心得た。
▲主「ゆるりと用事をたしてござる。定めて両人の者どもが待つて居るでござらう。急いで罷り帰らうと存ずる。いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。
やいやい。両人の者。今戻つたぞ。
▲シテ「そりや。帰らせられた。急いで泣かしめ。
▲次冠「心得た。
《両人とも、泣く》
▲主「やいやい。太郎冠者、次郎冠者。どれに居るぞ。これはいかな事。某が戻つたを悦びはせいで、両人ながら、なぜに泣くぞ。仔細があらば、早う云うて聞かせい。
▲シテ「次郎冠者、申し上げさしめ。
▲次冠「太郎冠者、そなた申し上げさしめ。
▲主「やいやい。どれからなりとも、早う云へ。
▲シテ「さればその事でござる。大切のお留守に寝てはなるまいと存じてござれば、頻りに眠うなりましたによつて、次郎冠者と相撲を取つてござれば、次郎冠者は力が強うござつて、私を取つて打ちつけうと致しまする。投げられてはなるまいと存じて、あのお掛け物へ手をさへてござれば、あの如くに引き裂けましてござる。
▲主「これはいかな事。大切の掛け物をあの如くに引き裂くといふ事があるものか。
▲シテ「その取つて返しざまに、台天目の上へこけ掛かつてござれば、あの如く微塵に割れましてござる。
▲主「これはいかな事。大切の台天目までを打ち割つて。おのれら、何としてくれうぞ。
▲シテ「お帰りなされたならば、とても生けては置かせられまい程に、附子を喰うて死なうと存じて。
なあ。次郎冠者。
▲次冠「中々。
▲シテ「《謡》ひと口喰へども、死なれもせず。
▲次冠「《謡》ふた口喰へども、まだ死なず。
▲シテ「《謡》三口、四口。
▲次冠「《謡》五口。
▲シテ「《謡》十口余り。
▲両人「《謡》皆になるまで喰うたれども、死なれぬ事のめでたさよ。あら。かしらかたやんや。
▲主「何のかしらかた。あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲両人「あゝ。許させられい、許させられい。
《附子まで喰うたと聞いて、主、腹を立てゝ、「おのれら、附子まで喰うたか。何としてくれうぞ」と云ふ》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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