『能狂言』中61 小名狂言 しびり

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。今晩、俄かに客がござるによつて、太郎冠者を呼び出し、和泉の堺へ肴を求めに遣はさうと存ずる。まづ呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今晩、俄かに客がある程に、汝は大儀ながら、今から和泉の堺へ行て、肴を求めて来い。
▲シテ「畏つてはござれども、私は内に居て働きませう程に、次郎冠者を遣らせられい。
▲主「いやいや。次郎冠者は他に用の事がある程に、是非とも汝行け。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲主「内も忙しい。早う戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。参りともない事を云ひ付けられたが、何と致さう。いや。作病を起こいて、参るまいと存ずる。
あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
▲主「いや。太郎冠者が声で、何やらわつぱと申す。何事ぢや知らぬ。
やいやい。汝は何事を云ふぞ。
▲シテ「さればその事でござる。和泉の堺へ参らうと存じてござれば、持病のしびりが起こつて、ひと足も引かれませぬ。あゝ。痛や痛や痛や。
▲主「扨々、それは苦々しい事ぢや。それならば、身共がまじなうて取らせう。しびり、直れ直れ。
▲シテ「申し申し。何事をなさるゝぞ。
▲主「しびりのまじなひに、額へ塵を付くれば治ると云ふによつて、それ故付けた。
▲シテ「私のしびりは、いか程塵を付けさせられても、治る事ではござらぬ。
▲主「それには、仔細でもあるか。
▲シテ「中々。仔細がござる。
▲主「云うて聞かせい。
▲シテ「畏つてござる。私の親は、子をあまた持たれてござるが、兄々へは、色々の物を譲られてござれども、私はいちの弟ぢやとあつて、持病のしびりを譲られてござる。
▲主「扨々、それは迷惑な物を譲られた。まづそれに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「これはいかな事。太郎冠者が和泉の堺へ参るまいと存じて、作病を起こいてござる。何と致さう。いや。致し様がある。
やあやあ。何と云ふぞ。今晩伯父御様より、お振舞ひを下さるゝ。則ち、供には太郎冠者を連れて来いと仰せ下されたと云ふか。さりながら、太郎冠者は持病のしびりが起こつて、ひと足も引かれぬと云ふによつて、次郎冠者を連れて参らうと云うてやれ。ゑい。
▲シテ「申し申し。今は、何事を仰せらるゝぞ。
▲主「さればその事ぢや。今晩伯父者人の方よりお振舞ひを下されうとあつて、則ち、供には汝を連れて来いと仰せ下されたれども、その体では行かれまいと思うて、次郎冠者を連れて行かうと云うてやつた。
▲シテ「私が参りませうものを。
▲主「何と、その体で行かるゝものぢや。
▲シテ「私のしびりは優しいしびりで、宣命を含めますれば、その儘治りまする。
▲主「それは優しいしびりぢや。早う宣命を含めて治せ。
▲シテ「畏つてござる。
やい、しびり。よう聞け。今晩伯父御様へ行けば、お茶のお酒のとあつて、某までもご馳走になる。治つてくれい。しびり。ゑい。ほい。
▲主「今のは何ぢや。
▲シテ「しびりの返事でござる。
▲主「扨々、優しいしびりぢや。扨、何と良いか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲主「それならば、立つて見よ。
▲シテ「慮外ながら、手を取つて下されい。
▲主「これは尤ぢや。さあ立て。何と良いか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲主「それならば、前へ跳べ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「後ろへも跳べ。
▲シテ「心得ました。
▲主「きりゝと廻れ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「何と良いか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲主「どちへなりと行かれうか。
▲シテ「どちへなりと参りませう。
▲主「それならば、和泉の堺へ行て、肴を求めて来い。
▲シテ「和泉の堺へと仰せらるれば、又、しびりが起こりまする。あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁