『能狂言』中62 小名狂言 かうじ
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。夜前、去る方へ振舞ひに参つてござるが、大酒の上で、何やら貰うて、太郎冠者に渡いたと存じてござるが、はつたと忘れてござる。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。扨、夜前の座敷は、しうた座敷ではなかつたか。
▲シテ「誠に、夜前のお座敷は、染うたお座敷でござつた。
▲主「それにつき、何やら戻り様に貰うて、汝に預けたと思うたが、何であつたぞ。
▲シテ「私もお次で御酒をたべましたによつて、何でござつたも覚えませぬ。
▲主「はあ。何やらであつた。
▲シテ「これはいかな事。三つなりの柑子でござつた。
▲主「それそれ。三つなりのかうじであつた。
やいやい。太郎冠者。三つなりの柑子であつた。
▲シテ「誠に、三つなりの柑子でござつた。
▲主「その柑子をこちへおこせ。
▲シテ「さればその事でござる。世間に二つなりさへ稀にござるに、まして三つなりの柑子は珍しい物ぢやと存じて、手に提げてお供致いてござれば、一つほぞが抜けまして、門外さしてころりころりとこけまするによつて、私の言葉を掛けてござる。
▲主「何と言葉を掛けたぞ。
▲シテ「やいやい。かうじ門を出でずと云ふ事がある。やるまいぞやるまいぞ、と申してござれば、さすが柑子も心がござつて、木の葉をいち葉楯に突き、きつと止まつてござるによつて、その儘取り上げまして、扨々、おのれは憎いやつの。ほぞなどが抜くるといふ事があるものかと申して、皮をまんまと剥き済まし、筋まで取つて、只一口に致しましてござる。
▲主「それを喰ふといふ事があるものか。さりながら、喰うた物ならば、是非に及ばぬ。残つた二つをおこせ。
▲シテ「今度はほぞなどが抜けてはなるまいと存じて、懐へ入れてお供致いてござれば、何やら懐の内がひいやりと致しましたによつて、手を入れて見ましてござれば、申し。大事の事がござる。
▲主「何としたぞ。
▲シテ「例の長柄の大鍔に押されて、一つ潰れましてござる。
▲主「ふう。
▲シテ「処で取り出しまして、扨々、おのれはふがいないやつの。鍔などに押されて潰るゝといふ事があるものかと申して、今度は腹も立ちまする。皮をも剥かいで只一口に致しましてござる。
▲主「又、喰うたか。
▲シテ「中々。
▲主「その様に喰ふといふ事があるものか。それならば、残つた一つをおこせ。
▲シテ「それについて、哀れな物語がござる。語つて聞かせませう。よう聞かせられい。
▲主「心得た。
▲シテ「《語》扨も平相国の御時、国々へ流され給ふ流人、あまたある。中にも丹波の少将成経、平判官康頼入道、俊寛僧都、この三人は硫黄が島へ流さるゝ。されども二人は御赦免あり、俊寛一人かの島に留め置かるゝ。その如く、三つなりし柑子も。《謡》
一つはほぞ抜け、一つは潰れ、一つは残る。人と柑子は変れども、思ひは同じ涙かな。《泣きて》
何と、哀れな物語ではござらぬか。
▲主「誠に、哀れな物語ぢや。それはともあれ、残つた一つの柑子をおこせ。
▲シテ「今の物語の通りぢやと思し召しませ。
▲主「こゝなやつは。今のは俊寛僧都の昔物語で合点ぢや。残つた柑子をおこせと云ふに。
▲シテ「それは、物と致しました。
▲主「何としたぞ。
▲シテ「物と。
▲主「何と。
▲シテ「太郎冠者が六はらへ、とうど納めました。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シテ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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