『能狂言』中63 小名狂言 さつくわ
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、辺りの若い衆と寄り合うて、連歌の初心講を取り結んでござれば、近日、頭に当たつてござる。田舎の事なれば、誰も宗匠に頼まう者もござらぬによつて、太郎冠者を呼び出し、都の伯父御を呼びに遣はさうと存ずる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。近日、連歌の頭に当たつたが、誰も宗匠に頼まう人もない処で、大儀ながら、汝は都へ上つて、伯父御を呼びまして来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「行て云はうは、久しう御便りもござらぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。さうござれば、辺りの若い衆と寄り合うて、連歌の初心講を取り結んでござれば、近日、頭に当たつてござる。田舎の事なれば、誰も宗匠に頼まうお方もござらぬによつて、何とぞ御下りなされて、宗匠をなされて下されうならば、忝うござると云うて、呼びまして来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「さりながら、あの伯父御はお暇のないお方ぢやによつて、暇がいるなどゝ仰せられたならば、五日や十日は逗留してなりとも、お暇のあいた節、お供して来い。
▲シテ「心得ました。
▲主「早う行け。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、こちの頼うだ人の様に、物を急に仰せ付けらるゝお方はござらぬ。今から都へ上つて、伯父御様を呼びまして来いと仰せ付けられた。まづ急いで参らう。誠に、某も都を見物致したい致したいと存ずる処に、この度は良いついでゞござる。こゝかしこを走り廻つて、ゆるりと見物致さうと存ずる。いや。都近うなつたやら、殊の外賑やかになつた。さればこそ、これは早都へ上り着いたさうな。又、田舎とは違うて、家建ちまでも格別な。あれからつゝとあれまで、仲良さゝうに軒と軒をひつしりと建て並べた程にの。これはいかな事。身共は不念な事を致いた。伯父御様はどの様なお方で、又どこ元にござるをも存ぜぬ。今から問ひには戻られまいが。何としたものであらうぞ。はゝあ。さすが都ぢや。かう見るに、知れぬ事をば呼ばゝつてありけば知るゝと見えた。某もこの辺りから呼ばゝつて参らう。
いや。なうなう。そこ元に、こちの頼うだ人の伯父御様のお宿はござらぬか。ぢやあ。
▲察化「これは、洛中を走り廻る、みごひの察化と申して、心もすぐにない者でござる。あれへ田舎者と見えて、何やらわつぱと申す。ちと当たつて見ようと存ずる。
▲シテ「いや。なうなう。そこ元に、こちの頼うだ人の伯父御様のお宿はござらぬか。ぢやあ。
こゝ元でもなさゝうな。もそつと上へ参らう。
いや。申し申し。その辺りに、こちの頼うだ人の伯父御様のお宿はござらぬか。
▲察化「いや。なうなう。しゝ申し。
▲シテ「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲察化「いかにも和御料の事ぢや。聊爾な申し事なれども、この広い洛中を、何をわつぱと云うておありきやるぞ。
▲シテ「私は田舎者で、別に聊爾は申しませぬ。真つ平御免やれ。
▲察化「いや。これこれ。聊爾仰しやると云うて、咎むるではおりない。今仰しやつたは何事ぞと云ふ不審でおりやる。
▲シテ「只今申した事の。
▲察化「中々。
▲シテ「私の頼うだ者の伯父御様のお宿を尋ねてありきまする。
▲察化「扨、その伯父御を知つてお尋ねやるか。知らいでお尋ねやるか。
▲シテ「これは、都人の仰せとも覚えませぬ。存ずれば、つゝかけて参れども、存ぜぬによつて呼ばゝつてありきまする。
▲察化「これは身共が誤つた。すれば、汝は太郎冠者ではないか。
▲シテ「私は太郎冠者でござるが、こなたはどなたでござる。
▲察化「汝が尋ぬる頼うだ者の伯父は、身共ぢや。
▲シテ「やあやあ。伯父御様はこなたでござるか。
▲察化「中々。
▲シテ「扨々、これは良い所でお目に掛かりました。これでお目に掛からずば、どこ方領もなう尋ぬるでござらう。
▲察化「誠に、尋ぬるであらう。扨、今は何と思うて上つたぞ。
▲シテ「只今参るも別なる事でもござらぬ。頼うだ者の使ひに参りました。
▲察化「それは、何と云うておこされた。
▲シテ「頼うだ者申しまする。久しう御便りもござらぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。さうござれば、辺りの若い衆と寄り合うて、連歌の初心講を取り結んでござるが、則ち近日、頭に当たつてござる。田舎の事なれば、誰も宗匠に頼まうお方もござらぬによつて、こなた御下りなされて、宗匠をなされて下されうならば、忝うござると申し越しましてござる。
▲察化「それは近頃易い事なれども、この間暇がないによつて、え行かれまい。
▲シテ「扨は、疑ひもないこなたの事でござる。頼うだ者も、あの伯父御はお暇のないお方ぢやによつて、もし暇がいると仰せられたならば、ごにちやじふにちは逗留してなりとも、お暇のあいた節、お供して来いと申し付けましてござる。
▲察化「それ程にまで云うておこされたならば、行てもやらうか。
▲シテ「それは近頃、忝うござる。その儀ならば、まづこなたからござれ。
▲察化「いやいや。不案内ぢや程に、まづ汝から行け。
▲シテ「それならば、御先へ参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲察化「参る参る。
▲シテ「扨、今日は良い所でお目に掛かつてござる。もし、あれでお目に掛からずば、どこ方領もなう尋ぬるでござらう。
▲察化「誠に、某に会はずば、方領もなう尋ぬるであらう。扨、程は遠いか。
▲シテ「まそつとでござる。急がせられい。
▲察化「心得た。
▲シテ「いや。何かと申す内に、これでござる。
▲察化「これか。
▲シテ「こなたをお供致いた通り申しませう。まづ、それに待たせられい。
▲察化「心得た。
▲シテ「申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲主「いゑ。太郎冠者が戻つたと見えた。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲シテ「ござりまするか、ござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲シテ「只今戻りましてござる。
▲主「やれやれ。大儀や。扨、伯父御様を呼びまして来たか。
▲シテ「まんまと呼びまして参りました。
▲主「それは出かいた。身共は汝を遣つた後で、殊の外気遣ひをした。
▲シテ「それは又、いかやうの事でござる。
▲主「伯父御のお宿を教へてやらなんだによつて、定めて尋ぬるであらうと思うて、殊の外気遣ひにあつたいやい。
▲シテ「それは、ぬかる事ではござらぬ。上を下をと呼ばゝつてありきましてござれば、伯父御様の出させられてござる。
▲主「何ぢや。伯父者人の出られた。
▲シテ「中々。
▲主「それは、合点の行かぬ事ぢや。その様に軽々しうひとりなどづる人ではないが。何とも合点の行かぬ事ぢや。扨、どこ元に置いた。
▲シテ「まだ御門外にでござる。
▲主「それならば、物陰から見たい程に、見せてくれい。
▲シテ「中々。お目に掛けませう。こちへござれ。
▲主「心得た。
▲シテ「あれでござる。
▲主「あれか。
▲シテ「中々。
▲主「こちへ来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「汝はあれを知つて呼うで来たか。
▲シテ「伯父御様でござるによつて、呼うで参つた。
▲主「これはいかな事。あれは、都に隠れもない、みごひのさつくはと云うて、大のすつぱぢや。
▲シテ「何ぢや。すつぱぢや。
▲主「中々。
▲シテ「すつぱならば、縄を掛けませう。
▲主「いやいや。あの様な者を荒立つれば、仇をなすものぢや。一つ振舞うて帰さう程に、かう通せ。
▲シテ「いらぬものでござる。
▲主「おのれが何を知つて。平にかう通せ。
▲シテ「畏つてござる。
なう。そこな人。
▲察化「何事ぢや。
▲シテ「そなたはよう誑いたの。
▲察化「誑いたとは。
▲シテ「今、頼うだ人の物陰から見させられて、あれは都に隠れもないみごひの察化と云うて、大のすつぱぢやと仰せらるゝによつて、すつぱならば縄を掛けうと云うたれば、あの様な者を荒立つれば、かへつて仇をなす。一つ振舞うて帰さうと仰せらるゝ。かう通らしめ。
▲察化「某も田舎に甥を一人持つて居るによつて、それが方から呼びに参つたと思うて来た。門違ひならば戻らう。
▲シテ「まづお待ちやれ。そなたを戻いては、身共が迷惑する。平にかう通らしめ。
▲察化「それならば、通らうか。
▲シテ「それが良からう。つゝと通らしめ。
▲察化「心得た。
不案内にござる。
▲主「初対面でござる。
▲察化「私も田舎に甥を一人持つてござるによつて、それが方から呼びに参つたと存じて、門違ひを致いて、近頃面目もござらぬ。
▲主「左様の事は、時々ある事でござる。扨、私もこれに居てお話申したうはござれども、勝手に取り込うだ事がござるによつて、勝手へ参る。太郎冠者を出し置きまする。ゆるりと話させられい。
▲察化「構はせらるゝな。
▲主「太郎冠者。これへ出て、お伽を申せ。
▲シテ「畏つてござる。
いや。なうなう。まづ、こちへおりやれ。
▲察化「心得た。
▲シテ「下に居さしめ。
▲察化「心得た。扨、これは頼うだ人のお屋形か。
▲シテ「中々。頼うだ人のお屋形でおりやる。
▲察化「この様にお物好きをなさるゝによつて、定めて色々の物に好かせらるゝであらう。
▲シテ「中々。色々の事に好かせらるゝ。
▲察化「中にも何に好かせらるゝぞ。
▲シテ「中にも小鳥に好かせらるゝ。
▲察化「何ぢや。小鳥に好かせらるゝ。
▲シテ「中々。
▲察化「小鳥といふものは、面白いものぢやが、小鳥の内でも何に好かせらるゝぞ。
▲シテ「小鳥の内でも、大指の腹程あつて青い鳥ぢやが、藪の中をあちらへはちよい、こちらへはちよいと飛んで、面白う啼く鳥であつたが、はつたと忘れた。
▲察化「それは何であらうぞ。
▲シテ「何やらであつたが。和御料は知らぬか。
▲察化「そなたが知らぬものを、何として身共が知るものぢや。
▲シテ「をゝ。それそれ。ぐひすぐひす。
▲察化「こゝな者は。ぐひすといふ鳥があるものか。それは定めて鴬であらう。
▲シテ「中々。その鴬の事でおりやる。
▲主「太郎冠者を出いて置きましたが、何事を申すか承らう。これはいかな事。むさとした事を申す。《手を叩きて呼ぶ》
▲シテ「いや。呼ばるゝ。行て参らう。
▲察化「早う行ておりやれ。
▲シテ「心得た。
何事でござる。
▲主「こゝな者は、むさとした。鴬の事を、ぐひすと云ふ事があるものか。
▲シテ「忘れましてござる。
▲主「いかに忘れたと云うて。今度問はうならば、外聞良う、鷹に好くと云へ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「獲るかと云はゞ、逸物でよう獲ると云へ。
▲シテ「心得ました。
▲主「むさとした事を云ふまいぞ。
▲シテ「畏つてござる。
なうなう。
▲察化「何事ぢや。
▲シテ「叱らずとも良い事を叱られた。
▲察化「何を叱られた。
▲シテ「鴬の事を、ぐひすと云うて叱られた。
▲察化「これは、誠に叱らずとも良い事ぢや。扨、何に好かるゝ。
▲シテ「今度は外聞良う、鷹に好かるゝ。
▲察化「鷹といふものは、つゝと面白いものぢやが。何と、獲るかの。
▲シテ「獲るとも獲るとも。今朝も肴町へ行て、干鯛、するめ、鰹節などをとつて参つた。
▲察化「あの、鷹がその様なものを獲るか。
▲シテ「中々。
▲主「又、むさとした事を申す。《又、呼ぶ》
▲シテ「又、呼ばるゝ。行て参らう。
▲察化「早う行てわたしめ。
▲シテ「心得た。
又、呼ばせらるゝか。
▲主「いつ鷹がその様なものを獲つたぞ。
▲シテ「お台所の鷹は、今朝も色々の物をとつて参りました。
▲主「あれは、背が高いによつて、異名にたかたかと云ふ。総じておのれが様な者を出いて置けば、某が外聞が悪しい。これからは何事も、身共が云ふ様する様に、口真似をせい。
▲シテ「口真似を致しまするか。
▲主「中々。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「お退屈にござらう。
▲察化「左様にもござらぬ。
▲主「仕付けもない者を出し置きまして、面目もござらぬ。
▲察化「苦しうない事でござる。
▲主「太郎冠者。お盃を出せ。
▲シテ「太郎冠者。お盃を出せ。
▲主「やい。お盃を出せとは、おのれが事ぢや。
▲シテ「やい。お盃を出せとは、おのれが事ぢや。
▲主「やい。こちへ来い。
▲シテ「何事でござる。
▲主「おのれは、何と心得て居るぞ。あなたはお客ぢや。お盃を出せとは、おのれに云ひ付くる事ぢや。《叩く》
▲シテ「やい。こちへ来い。
▲察化「何事ぢや。
《同じ如く云うて、叩く》
▲主「あゝ。お肩が痛みませう。
▲シテ「あゝ。お肩が痛みませう。
▲察化「左様にもござらぬ。
▲主「とかく、こなたをそれに置くによつての事でござる。かう通らせられい。
▲察化「苦しうござらぬ。
▲シテ「とかく、こなたをそれに置くによつての事でござる。かう通らせられい。
▲察化「これは、何とするぞ。
▲主「扨々、憎いやつの。お盃を出せとは、おのれに云ひ付くる事ぢや。
《耳を引く。又、同断に云うて耳を引く》
▲主「あゝ。お耳が痛みませう。
▲察化「左様にもござらぬ。
▲シテ「あゝ。お耳が痛みませう。
▲主「やあら。おのれは憎いやつの。口真似をせいと云へば、主に恥をかゝせ居る。おのれが様なやつは、まづかうして置いたが良い。《引き廻して、突き倒す》
それにゆるりとござれ。追つ付け、お盃を出しませう。
▲察化「構はせらるゝな。
《主、引つ込む。太郎冠者、起きて、同様に云うて這入る。察化も後にて立つて入る》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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