『能狂言』中64 小名狂言 くちまね

▲一のアド「これは、この辺りに住居致す者でござる。さる方より良い酒を貰うてござるが、誰ぞ心安いお方とたべたうござる。まづ太郎冠者を呼び出し、相談致さうと存ずる。《常の如く呼び出して》
そちを呼び出す事、別なる事でもない。さる方より良い酒を貰うたが、誰ぞ心安いお方と呑みたいものぢやが、誰殿が良からうぞ。
▲シテ「誰彼と仰せられうより、私と呑ませられい。
▲一のアド「それはなぜに。
▲シテ「私程、心安い者はござりますまい。
▲一のアド「いかに心安いと云うて、汝と呑うで、何の面白い事があるものぢや。身共が云ふは、参る様で参らいで、参らぬかと思へばふと参る様なお方と呑みたい程に、汝、分別をして呼びまして来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲一のアド「早う戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲一のアド「ゑい。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。難しい事を仰せ付けられた。誰殿へ参らう。いや。下の町の誰殿を呼びまして参らう。まづ急いで参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。もしお宿にござらぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く案内乞うて》
▲二のアド「ゑい。太郎冠者。そなたならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通らぬぞ。
▲シテ「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲二のアド「それは、近頃念の入つた事ぢや。扨、今は何と思うておりやつたぞ。
▲シテ「只今参るも別なる事でもござらぬ。頼うだ者申しまする。さる方より良い酒を貰うてござるによつて、御出なされて一つ召し上がられて下されうならば、忝うござると申し越しましてござる。
▲二のアド「それは行きたいものなれども、そちの頼うだ人と知る人でないによつて、え行かれまい。
▲シテ「この御酒を幸ひに、お知る人にならうとのお事でかなござりませう。
▲二のアド「その儀ならば、行てもやらうか。
▲シテ「それが良うござらう。
▲二のアド「まづ和御料から行かしめ。
▲シテ「まづこなたござれ。
▲二のアド「いやいや。身共は不案内ぢや程に、平に和御料からおりやれ。
▲シテ「その儀ならば、私から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲二のアド「参る参る。
▲シテ「今日はお暇で御出なされて、頼うだ者も悦びませう。
▲二のアド「某も暇で、召し寄せられて、この様な満足な事はおりない。扨、程は遠うおりやるか。
▲シテ「今少しでござる。急がせられい。
▲二のアド「心得た。
▲シテ「いや。何かと云ふ内に、これでござる。
▲二のアド「早これでおりやるか。
▲シテ「こなたのお供致いた通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲二のアド「心得た。
▲シテ「申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲一のアド「いや。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲シテ「ござりまするか、ござりまするか。
▲一のアド「ゑい。戻つたか。
▲シテ「只今戻りました。
▲一のアド「やれやれ。大儀や。扨、誰殿を呼びまして来たぞ。
▲シテ「下の町の誰殿を呼うで参りました。
▲一のアド「汝はあの人を知つて呼うで来たか。但し知らいで呼うで来たか。
▲シテ「つゝと面白いお方でござるによつて、呼うで参りました。
▲一のアド「これはいかな事。あの人は大の酔狂人で、一盃呑うでは一寸抜き、二盃呑うでは二寸抜く様な大の酔狂人ぢや。あの様な人を呼うで来るといふ事があるものか。早う追ひ帰してやれ。
▲シテ「追ひ帰す分は苦しうござらぬが、こなたのお使ひになつて参りましたによつて、一つ振舞うて帰させられずば、後日にお会ひなされた時、お言葉がござりますまい。
▲一のアド「それならば、是非に及ばぬ。一つ振舞うて帰さうが、あの人はつゝと目恥づかしい人で、あの人の前で使ふ者がない。
▲シテ「それこそ私が良うござらう。
▲一のアド「おのれが様な腰の高い者が、何の役に立つものか。
▲シテ「腰が高くば、いか程も低く致しませう。
▲一のアド「いやいや。その腰の事ではない。万事仕付けもない者を、腰が高いと云ふ。さりながら、誰彼と云うて、他に人もない処で、何事も某が云ふ様する様に、口真似をせい。
▲シテ「畏つてござる。
▲一のアド「かうお通りなされいと云へ。
▲シテ「心得ました。
かうお通りなされいと申しまする。
▲二のアド「通らうか。
▲シテ「つゝと通らせられい。
▲二のアド「心得た。
不案内でござる。
▲一のアド「初対面でござる。
▲二のアド「今日は、召し寄せられて、忝うござる。
▲一のアド「太郎冠者を進じましたに、早速御出なされて忝うござる。
▲二のアド「はあ。
▲一のアド「太郎冠者。お盃を出せ。
▲シテ「太郎冠者。お盃を出せ。
《これより諸事、「察化」と同断なり。よつて略す》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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