『能狂言』中65 小名狂言 すゞきばうちやう

▲アド「これは、淀辺に住居致す者でござる。某、都に伯父をいち人持つてござるが、この度、官途なりを致さるゝについて、鯉を求めてくれいと申されてござれども、私の事でござるによつて、今に求めませぬ。今日はあれへ参り、良い様に申しないて置かうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、あの伯父御{*1}は、つゝと正直な誑し良い人でござるによつて、面白可笑しう申したならば、誠にせられぬと申す事はござるまい。いや。参る程にこれでござる。まづ案内を乞はう。《常の如く》
▲シテ「ゑい。そなたならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りは召されいで。
▲アド「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲シテ「それは念の入つた事ぢや。扨、今は何と思うておりやつたぞ。
▲アド「只今参るも別なる事でもござらぬ。この度、官途なりをなさるゝによつて、鯉を求めてくれいとな、仰せられてござる。
▲シテ「いかにも、左様に申しておりやる。
▲アド「私の事でござれば、方々と詮索致いて、淀一番の大鯉を求めました。
▲シテ「それは近頃、満足致す。
▲アド「とてもの事に、生け鯉に致いて上げうと存じて、淀の三本目の橋杭へ、藤蔓を以て繋ぎまして、今日これへ参りさまに、そろりそろりと引き上げてござれば、何やら手の内が軽うござつた。総じて、鯉は水離れが大事ぢやと申すによつて、ちやつと引き上げて見ましたれば、申し。大事の事がござつた。
▲シテ「何としたぞ。
▲アド「片身さかうて獺が食べましてござる。
▲シテ「何ぢや。片身さかうてをそが喰うた。
▲アド「疵のついた物は御用に立ちますまいと存じて、そのお断りに参りましてござる。
▲シテ「やれやれ。そなたは念の入つた人ぢや。その分の事ならば、誰ぞ人を以てなりと仰しやらいで。自身の御出、満足致す。
▲アド「はあ。
▲シテ「扨、一つ申さう程に、かう通らしめ。
▲アド「お取り込みにもござりませう。私はもはや、かう参りませう。
▲シテ「いやいや。仕舞ひ果てゝ、何も用はない処で、平にかうお通りやれ。
▲アド「その儀ならば、通りませうか。
▲シテ「つゝと通らしめ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「それにゆるりとおりやれ。
▲アド「心得ました。
▲シテ「あれへ参つたは、私の甥でござるが、きやつが申す事に、百に一つも誠はござらぬ。定めてこの度の鯉も、求めは致すまいが。又、たらしに参つたものでござらう。某も口調法を以て、ほつてと持てないて帰さうと存ずる。
やいやい。最前貰うた三こんの鱸の内、一こん洗へと云へ。ゑい。
なう。お聞きやるか。
▲アド「何事でござる。
▲シテ「最前さる方より、この度の頭を営なめとあつて、鱸を三こん貰うた。内、一こん洗へと云ひ付けた程に、何ぞ料理を好ましめ。
▲アド「御使ひ方もあまたござらう程に、これは御無用でござる。
▲シテ「いやいや。方々より貰うて、魚は満ち満ちてある程に、平に料理を好ましめ。
▲アド「その儀ならば、好みませうか。
▲シテ「それが良からう。
▲アド「はあ。鱸でござるの。
▲シテ「中々。鱸でおりやる。
▲アド「それならば、打身でたべませう。
▲シテ「いや。鱸でおりやるぞや。
▲アド「鱸でござるによつて、打身でたべませう。
▲シテ「むゝ。すれば和御料は、打身の仔細は知らねども、打身が良いものぢやによつて、打身で喰はうと仰しやるか。
▲アド「いかにも左様でござる。
▲シテ「それならば、今の鱸を洗ふ内、打身の仔細を語つて聞かせう程に、ようお聞きやれ。
▲アド「承りませう。
▲シテ「《語》そもそも打身と云ふ事は、寛和元年、その頃は花山の院の御代なりしに、四季折々の御遊び、殊に越え、み狩に好かせ給ふにより、政頼に鷹を据ゑさせ、国々へ御下向ある折節、遠江国橋本の長が宿所に着き給ふ。をさは出合ひ申し、三献の土器据ゑたりし時、板に鯉を出す。その時の庖丁人は、四官の太夫忠政なり。忠政は三廊近き釣殿に出でゝ畏る。それ忠政とありしかば、忠政何とか思ひけん、板なる鯉をば切らずして、簀の子の竹を一間外し、下なる魚を挟んでさし上げ、みさごの鰭をばらりとおろし、魚を放せば魚は悦び、石菖の影に遊び隠れぬる。扨、その後、板引き寄せ、すつぱと切つてはしつとゝ打ち付け、すつぱと切つてはしつとゝ打ち付け、並み居給へる上北面に下北面、納言、宰相、検非違使、黒袴の徒党に至るまで、三刀づゝ打ち付け打ち付け参らせしかば、忠政が庖丁、いつに優れて神妙なり。勲功は乞ふによるべしと、御感ありしよりこの方、打身といふ事始まりたり。
総じて、打身といふものは、海のものにては鯛、河のものにては鯉ならで、あるべからず。み内の親は庖丁人。庖丁人のその子として、家をも継がうずる程の人が、鱸に打身たべうなど云ひて、立居の人に笑はれ給ふな。構へて無い事でおりやるぞや。
▲アド「すれば、無い事でござるか。
▲シテ「をゝ。無い事でおりやるとも。いや。最前の鱸を手ねばな者が洗ふと見えて、いかう遅い。
やいやい。最前の鱸を早う洗うて持つて出いと云へ。ゑい。
いや。なうなう。
▲アド「何事でござる。
▲シテ「たとへば、今の鱸をまんまと洗ひ済まいて、切目尋常なる俎板に、青木のまな箸、備前庖丁、紙ひと重ねおつ取り添へ、しつけ知つたる若い者が二人して、かうそなたの前へかついで出う処で、そなたへお切りそいと申さうが、和御料の仰しやらうは、これの庖丁、近う見参らせぬ。ひと手遊ばいてお見せ候へと、仰しやらいで叶ふまい。
▲アド「いかにも左様申しませう。
▲シテ「処で某、よしに余り、板元におし直り、箸、刀おつ取つて、紙をば三つに切り、二つを下におしおろし、一つをば俎板頭にとうど置き、礼式の水こそげ、さつさつさつとみ刀する儘に、一の刀にて魚頭を突き、二の刀にて上身をおろし、おろしもあへず魚頭を俎板頭にとうど置き、おつ取り返して下身をおろし、中打ち丁々と三つに切つて、いざこれを熬り物にして申さう。
▲アド「これは、一段と良うござりませう。
▲シテ「その内、只は何とてもてなさうずるぞ。幸ひある上身下身を、かき和へにして申さう。
▲アド「これは、尚々でござる。
▲シテ「総じてそなたもようお心やれ。魚の身の厚い所は薄う見えい、薄い所は厚う見えいと作るが、庖丁人の腕でおりやるげな。
▲アド「ほう。
▲シテ「さりながら、この様なもので引つゝくばうて、刀ばやにすつぱりすつぱり、すぱすぱすつぱりと作り済まいて、生姜酢を以てきつきつと和へ、南天竺の掻敷、深草がはらけにちよぼちよぼとよそうて、和御料へもおまさうず。身共もたべうが、何と良い肴ではないか。
▲アド「これは、良い御肴でござる。
▲シテ「それ程良いと思はしますならば、右を以て、五盃呑うでくれさしめ。
▲アド「いや。その様にはたべられますまい。
▲シテ「いやいや。そなたは難しい上戸ぢやによつて、初めから強ひて置かねばならぬ。平に呑うでくれさしめ。
▲アド「その儀ならば、畏つてござる。
▲シテ「それは近頃、満足致す。扨、最前のいり物こそ出来たれと、柚の葉の香頭に貝杓子まで取り添へ、これへ持つて出う処で、これもよそひ処をよそうて、そなたへもおまさうず。身共もたべうが、五盃の上では良い肴ではないか。
▲アド「誠に良い御肴でござる。
▲シテ「それ程良いと思はしますならば、今度は左を以て、七盃呑うでくれさしめ。
▲アド「最前の五盃さへござるに、これはえたべられますまい。
▲シテ「いやいや。そなたは酔ふ上戸ぢやによつて、今から強ひて置く。是非とも呑うでくれさしめ。
▲アド「その儀ならば、狙うても見ませうか。
▲シテ「狙うても見ようと云ふは、呑まうと云ふ事か。
▲アド「左様でござる。
▲シテ「それは近頃、畏り存ずる。扨、小盃を以てちよろちよろと廻さうか。但し、当世様にさつと取らうか。
▲アド「当世様にさつと取らせられい。
▲シテ「その儀ならば、取らう。扨、大酒の上では濃い茶が良いものではないか。
▲アド「酔ひを醒まいて良いものでござる。
▲シテ「そなたは、どれからどれまでも仕合せな人ぢや。お知りやる通り、宇治辺に知音を持つたものなれば、この度の頭を営なめとあつて、極を三袋貰うた内、いつたい挽かせて置いた。又、和御料も知る通り、常々茶の湯に好く事なれば、奥の間に湯はりんりんりんとたぎつて居る。あれへそなたを同道して、おたてそいと申さうが、茶は亭主の役なれば、茶の湯元におし直り、湯七分に泡八分、ほうほうむくむくやはやはと、昔様に中高に、猫の腹立てた様に、きつと点てないて申さう処で、そなたは褒めてくれねばならぬ。
▲アド「何と申して褒めまするぞ。
▲シテ「これは、いかにも慇懃に構へて、最前の鱸の庖丁のお手元、只今のお茶の湯の御手前、とかう優れて見事さうにござると、これ程の事は仰しやらう。
▲アド「それ程の事は申しませう。
▲シテ「処で某の申さうは、なぜに左様に慇懃にな仰せられそ。親子仲の心安いは、ろくに居て五服も七服もお参りやれと申さうが、いかに心安と云うても、極を二服とは、え仰しやるまい。
▲アド「左様には申しますまい。
▲シテ「それならば、茶の湯もざつと仕舞うて、とてもの事に、暇乞ひの仕様までを教へておまさう。お立ちやれ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「扨、最前の五盃と七盃は、十二盃ではないか。
▲アド「中々。十二盃でござる。
▲シテ「いかに和御料が強いと云うて、十二盃呑うだ事ならば、手元も足元もむさからう。
▲アド「正体はござりますまい。
▲シテ「総じて酒酔ひの癖として、咎もない扇をひねくり廻いて、その事にて候ふ。この度の鯉を持つて参らぬさへござるに、鱸の庖丁、お茶までを下されて、忝うござる。今度このお礼に参るならば、泥鰌にてもなれ、鮠にても候へ、持つて参つて、このお礼はきつと申しませう。まづそれまでは、さらばさらば、さらばさらばさらばと仰しやる程に、もてないて帰したいが、そなたの鯉を獺が喰うた如く、某の鱸は放情が喰うてないと云ふによつて、今の物語を、喰うた呑うだと思うて、足元の明かい内、とつとゝ帰らしめ。
▲アド「面目もござらぬ。

校訂者注
 1:底本は、「伯父様」。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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