『能狂言』中66 小名狂言 しんばひ

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたの立花の会は、夥しい事でござる。それにつき、某も明日は、いづれもを花で申し入るゝ筈でござるが、この間は良い真がござらぬによつて、今日は東山へ参り、見つくろうて良い真を切つて参らうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
そちを呼び出す事、別なる事でもない。天下治まりめでたい御代なれば、あなたこなたの立花の会は、何と夥しい事ではないか。
▲シテ「御意の通り、この間の方々のりつくわの御会は、夥しい事でござる。
▲主「それにつき、某も明日、いづれもを立花で申し入れうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「これは一段と良うござりませう。
▲主「さりながら、この間は良い真がないによつて、今から東山へ行て、見つくろうて良いしんを切らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「一段と良うござりませう。
▲主「それならば、太刀を持て。
▲シテ「畏つてござる。
はあ。お太刀を持ちましてござる。
▲主「それならば、追つ付けて行かう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲主「さあさあ。来い来い
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「扨、東山へ行たならば、良い真のない事はあるまいぞ。
▲シテ「誠に、東山へ御出なされたならば、良い真のない事はござりますまい。
▲主「かやうに真を取りにづるも、良い慰みではないか。
▲シテ「仰せらるゝ通り、今日は天気も良し、ひとしほ良いお慰みでござる。
▲主「ゆるりと慰うで帰らう。
▲シテ「それが良うござらう。
《主、廻り掛かると、通り、出て、一の松にて名乗る》
▲通り「これは、この辺りに住居致す者でござる。某にお目を掛けさせらるゝお方がござるが、花に好かせられて、良い真を見たならばくれいと仰せられてござる程に、持つて参り、進上致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、この間は殊の外立花が流行りまするによつて、良い真はござらぬが、今日はふと良い真を見当たりましてござるによつて、下草などを加へて持つて参るが、この真を見させられたならば、さぞ悦ばせらるゝでござらう。
《通り、廻り掛かると、主、見付けて》
▲主「やいやい。太郎冠者。あの真を見よ。何と良い真ではないか。
▲シテ「誠に良い真でござる。
▲主「はあ。某も何とぞあの様な真を欲しいものぢやが。
▲シテ「はあ。こなたはあの真が欲しうござるか。
▲主「中々。あの様な真は、東山へ行てもあるまい。
▲シテ「それならば、私が取つて上げませうか。
▲主「こゝな者は。人の持つて居る物が、何と取らるゝものぢや。
▲シテ「見た処が、眉合ひの延びたやつでござるによつて、取られぬ事はござるまい。
▲主「いやいや。無用にしたならば良からう。
▲シテ「私に任せて置かせられい。
いや。申し申し。
▲通り「こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲シテ「いかにもこなたの事でござる。聊爾な申し事ながら、その真は商売物か。但し進上物でござるか。
▲通り「これは、さる方へ約束致いて、進上致すのでござる。
▲シテ「すれば、進上物でござるか。
▲通り「中々。その通りでござる。
▲シテ「それならば、是非に及びませぬ。さりながら、私の頼うだ者も立花が好きでござつて、今日東山へ真を取りに参る処でござるが、こなたの真を見られまして、その様な良い真はあるまいと申して、殊の外欲しがられまするが、何と下さるゝ事はなりますまいか。
▲通り「近頃易い事ではござれども、只今も申す通り、他へ約束致いて持つて参るによつて、進ずる事はなりませぬ。
▲シテ「その儀ならば、頼うだ人に見せたうござる程に、貸して下されい。
▲通り「いやいや。もはや某も持つて参るによつて、貸す事はなりませぬ。それから見させられい。
▲シテ「それならば、私が篤と見て話しまする程に、これへ見せさせられい。
▲通り「どれから見ても同じ事でござる。それから見さしめ。
▲シテ「いやいや。これから見ては知れませぬ。平にこれへ見せさせられい。
▲通り「いやいや。どれから見るも同じ事ぢや。それから見さしめ。
▲シテ「いやいや。これからは知れぬ程に、少しの間貸しておくりやれ。
▲通り「いやいや。貸す事はならぬ。
▲シテ「どうあつても、少しの間貸らねばならぬ。
《と云うて、奪ひ合う、て、太郎冠者は一心に真を取らうとして、真を取る。通りはやるまいとして、太刀を取つて真を放し》
▲通り「一段の仕合せを致いた。さらばまづ、用事を弁じて参らうと存ずる。
《と云うて、太鼓座へ着く。太郎は真を取つて悦うで》
▲シテ「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと真を取つた。
申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が真を取つて参りましてござる。
▲主「いや。太郎冠者が真を取つて来たと見えた。太郎冠者。取つたか取つたか。
▲シテ「取りました、取りました。
▲主「何と、真を取つたか。
▲シテ「これ、見させられい。まんまと取りましてござる。
▲主「どりや。これへ見せい。
▲シテ「早う見させられい。
▲主「扨も扨も、良い真かな。東山へ行ても、中々この様な良い真はあるまいぞ。
▲シテ「誠に、東山へ御出なされても、これ程の真はござりますまい。
▲主「扨、汝は太刀は何とした。
▲シテ「お太刀の。
▲主「中々。
▲シテ「はあ。今まで持つて居りましたが。
▲主「これはいかな事。手に持つた太刀を取らるゝといふ事があるものか。
▲シテ「いや。取られは致しませぬが。すれば、最前真を取らう取らうと存じて奪ひ合ふ内に、真とお太刀とをすり替へたものでござらう。
▲主「扨々、おのれは憎いやつの。それ故、身共が無用にせいと云うたに。真と太刀とを取り替へらるゝといふ事があるものか。腹も立つ。この真は引きむしつてのけう。
▲シテ「扨々、こなたはむさとした。折角取つて参つた真を、その様に引きむしつて捨てさせらるゝと申す事があるものでござるか
▲主「まだそのつれな事を云ふ。あの太刀は重代で、真の十本や廿本に替へらるゝ太刀ではない。これはまづ、何としたものであらうぞ。
▲シテ「私の存じまするは、最前は外への参りがけと見えましたによつて、又戻りにこの所を通らぬ事はござるまい程に、これに待つて居りまして、通る処をこなたと私と致いて捕らへまして、お太刀の事は扨置き、きやつを丸裸に致いてやりませう。
▲主「これは一段と良からうが、その男を見覚えて居るか。
▲シテ「中々。見覚えて居りまする。もはや戻る時分でござらう。これへ寄つてござれ。
▲主「心得た。
▲通り「今日は一段の仕合せを致いた。用事も弁じてござる程に、まづ急いで罷り帰らう。誠に、世にはむさとした者があるもので、存じ寄らず、今日は良い太刀を手に入れて、この様な満足な事はござらぬ。戻つて皆の者に話いたならば、さぞ羨むでござらう。
《廻り掛かるを、太郎冠者、見付けて》
▲シテ「いや。申し。あれでござる。
▲主「あれか。
▲シテ「中々。
▲主「さあさあ。汝行て捕らへい。
▲シテ「こなた行て捕らへさせられい。
▲主「いやいや。身共は捕らへられぬ。汝行て捕らへい。
▲シテ「いやいや。私は見知つて居りまする。こなた行て捕らへさせられい。
▲主「それならば、身共が捕らふるぞ。
▲シテ「早う捕らへさせられい。
▲主「心得た。
がつきめ。やるまいぞ。
▲通り「これは何となさるゝ。
▲主「何とすると云うて。覚えがあらう。
▲通り「覚えはござらぬ。
▲シテ「をゝ。良いなりの、良いなりの。
▲通り「おのれは最前のすつぱではないか。
▲シテ「おのれこそすつぱなれ。
▲主「早う打擲せい。
▲シテ「今、しつぺいを当てゝやらう。やつとな。これはいかな事。きつと捕らへてござれ。
▲主「心得た。
▲通り「そこを放させられい。
▲主「いやいや。放す事はならぬ。
▲シテ「おのれ。これを戴かせてくりやう。これはいかな事。きつと捕らへてござれと申すに。
▲主「その様な事でなるものか。縄をかけい、縄をかけい。
▲シテ「縄をかけまするか。
▲主「早うかけい、早うかけい。
▲シテ「心得ました。
《と云うて、太鼓座へ行き、なひ掛けを持つて出る。その内に、すつぱ、「こゝを放せ」と云ふ。主は「ならぬ」と云うて、せり合うて居る》
申し申し。幸ひこれに、なひ掛けがござる。これをなうて掛けませう。
▲主「はて。今から縄をなうて間に合ふものか。
▲シテ「でも{*1}、他にはござらぬ。
▲主「いかにないと云うて。扨々、もどかしいやつの。
《すつぱ、太刀にて太郎冠者を転ばす》
▲シテ「これはいかな事。きつと捕らへてござれと申すに。
《又、転ばす》
扨々、こなたはむさとした。きつと捕らへてござらぬによつて、きやつが色々いたづらを致しまする。
▲主「何と、縄は良いか。
▲シテ「大方できました。いや。一段と良うござる。
▲主「それならば、早う掛けい、早う掛けい。
▲シテ「心得ました。
やいやい。これへ足を入れい、足を入れい。
▲主「やい。そこなやつ。誰がそれへ足を入るゝものぢや。上から掛けい、上から掛けい。
▲シテ「畏つてござる。
やいやい。これへ首を入れい。
▲主「ゑゝ。もどかしい。誰がそれへ首を入るゝものぢや。上から掛けいと云うに。
▲シテ「心得ました。きつと捕らへてござれ。
▲主「心得た。早う掛けい。
▲シテ「やつとな、やつとな。
▲主「これはいかな事。それでは掛からぬ。後ろから掛けい、後ろから掛けい。
▲シテ「後ろから掛けまするか。
▲主「後ろから掛けいと云うに。
▲シテ「畏つてござる。さあ、掛けました。
▲主「何と、掛けたか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲主「それならば、放すぞ。
▲シテ「早う放させられい。
▲主「そりや。放いたわ。
▲シテ「がつきめ。
▲主「これは、身共ぢや。何とするぞ。
▲シテ「頼うだ人でござるか。
▲主「すつぱはどれへ行くぞ。
▲シテ「あれへ参りまする。
▲主「早う捕らへい。
▲シテ「心得ました。
▲両人「あの横着者。どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「ど(マゝ)うも」。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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