『能狂言』中67 小名狂言 たちばひ
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は北野の御手水の会でござるによつて、参詣致さうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は北野の御てうづのゑぢや程に、参詣せうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「これは一段と良うござりませう。
▲主「それならば、追つ付けて行かう。さあさあ。来い来い。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲主「今日は天気も良いによつて、定めて賑やかであらうぞ。
▲シテ「誠に、今日は天気も良うござるによつて、さぞ大参りでござらう。
▲主「戻りには、ゆるりと慰うで帰らうぞ。
▲シテ「それが良うござらう。
《主、廻り掛かると、通り、出で、一の松にて名乗る》
▲通り「これは、この辺りの者でござる。今日は北野の御手水の会でござるによつて、参詣致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いつも、辺りの若い衆を誘うて参るが、今日は他に用事もござつたによつて、某いち人で参る。天気も良うござる程に、定めて賑やかでござらう。
《通り、廻り掛かると、主、太刀を見付けて》
▲主「やい。太郎冠者。
▲シテ「何事でござる。
▲主「あの太刀を見よ。何と結構な太刀ではないか。
▲シテ「誠に結構な太刀でござる。
▲主「某もあの様な太刀が望みぢやが。
▲シテ「はあ。こなたはあの太刀が欲しうござるか。
▲主「中々。あの様な太刀を欲しい事ぢや。
▲シテ「それならば、私が取つて上げませう。
▲主「こゝな者が。人の持つて居る太刀を、何と取らるゝものぢや。
▲シテ「いや。見た処が、眉あひの延びたやつでござるによつて、取るに取られぬ事はござらぬが、私は丸腰でござる。こなたのお腰の物を貸して下されい。
▲主「それならば、貸しては遣らうが、これは無用にしたならば良からう。
▲シテ「いやいや。お気遣ひなさるゝな。追つ付け取つてお目に掛けませう。
▲主「早う取つて来い。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
▲通り「扨も扨も、早この辺りから色々売り物がある。慰みに見物致しながら参らう。はあ。これは何ぢや。
《これより太郎冠者、通りの左の方へ行きて、顔を見ながら口真似を云ふ》
▲シテ「これは何ぢや。
▲通り「子どもの持て遊び。
▲シテ「子どもの持て遊び。
▲通り「起き上がり小法師。振り鼓。
▲シテ「起き上がりこぼふし。振り鼓。
▲通り「ぴいぴい風車。
▲シテ「ぴいぴいかざぐるま。
▲通り「何を求めうと儘ぢや。
《もし早く行き着いたらば、茶の湯の道具や武具、馬具、唐物、いづれなりとも色々云うて居る。太郎冠者、言葉の切るゝ処々で、太刀を取つて引いて見る》
やい。こゝな者。
▲シテ「何事ぢや。
▲通り「なぜに身共が持つて居る太刀に手をさふるぞ。
▲シテ「この人混みの中ぢやによつて、ちと触はるまいものでもないわ扨。
▲通り「何ぢや。触はるまいものでもない。
▲シテ「中々。
▲通り「おのれは定めてすつぱであらう。ひと討ちにして遣らう。
▲シテ「あゝ。真つ平命を助けてくれい。
▲通り「命が助かりたいか。
▲シテ「中々。命が助かりたい。
▲通り「見れば、おのれは良い一腰をさいて居る。それをおこせ。
▲シテ「何ぢや。一腰をおこせ。
▲通り「中々。
▲シテ「何とこれが遣らるゝものぢや。遣る事はならぬ。
▲通り「おのれ、おこさずば胴斬りにして遣らう。
▲シテ「あゝ。遣らう遣らう。
▲通り「早うおこせ。
▲シテ「つゝとそちへのいて居よ。
▲通り「心得た。
▲シテ「さあ取れ。
▲通り「いや。おのれは心得た出し様をする。取り直いておこせ。
▲シテ「それ程用心をするならば、な取つそ。
▲通り「おのれ、取り直いておこさずば、唐竹割りにして遣らう。
▲シテ「あゝ。取り直いて遣らう遣らう。
▲通り「早う取り直いておこせ。
▲シテ「是非に及ばぬ。さあ取れ。
▲通り「こちへおこせ。
▲シテ「危ない事をする。
▲通り「まづこれは身共が物ぢや。
やい。聞くか。
▲シテ「何事ぢや。
▲通り「恥づかしい事なれども、某はつひに生き物を斬つた事がない。おのれを斬り習ひに、どれから斬らうぞ。
▲シテ「あゝ。真つ平許いてくれい、許いてくれい。
▲通り「瓜割りにして遣らう。
▲シテ「何とぞ命を助けてくれい。
▲通り「命が助かりたい。そりや、手がづるわ。
▲シテ「出はすまい。
▲通り「足がづるわ。
▲シテ「出はすまい。
▲通り「《幾つも云うて、笑うて》扨も扨も、一段の慰みでござる。
やい。聞くか。
▲シテ「何事ぢや。
▲通り「今は北野への参りぢやによつて、命を助けてやる。下向にこの所に居たならば、只置く事ではないぞ。
▲シテ「居よと云うても、居る事ではない。
▲通り「某が行く方を見るな。
▲シテ「見る事ではない。
▲通り「見たならば、ひと討ちにするぞ。
▲シテ「見はせぬと云うに。
▲通り「見るな。
▲シテ「見はせぬ。
▲通り「見るな。
▲シテ「見はせぬ。
▲通り「そりや、見居つたわ。おのれ、胴斬りにして遣らう。
▲シテ「中々見る事ではない。
▲通り「見るな。
▲シテ「見はせぬ。
▲通り「見るな、見るな、見るな。
▲シテ「見はせぬ、見はせぬ、見はせぬ。
これはいかな事。眉あひの延びた奴かと存じたれば、目の鞘の外れた奴でござる。それはともあれ、頼うだ人のお腰の物を取られたが、何とせうぞ。さりながら、正直なお方ぢやによつて、面白可笑しう申しないて置かうと存ずる。
申し。頼うだお方。ござりまするか。太郎冠者が太刀を取つて参りましてござる。
▲主「いや。太郎冠者が太刀を取つて参つたと見えた。
太郎冠者。何と、取つたか取つたか。
▲シテ「取りました、取りました。
▲主「何と、取つたか。
▲シテ「こちのをあちへ取りました。
▲主「何ぢや。こちのをあちへ取つた。
▲シテ「中々。
▲主「それぢやによつて、無用にせいと云うたに。
▲シテ「されば、その事でござる。眉あひの延びた奴かと存じたれば、目の鞘の外れた奴でござつて、私を見ますると、あの氷の様な太刀をするりと抜いて、胴斬りにせうと申しましたによつて、こなたのお腰の物を遣はして、やうやう命を助かつてござる。こなたは太郎冠者をいち人拾はせられたと申すものでござる。
▲主「まだそのつれな事を云ふ。あの腰の物は重代で、汝一人や二人に替ふる腰の物ではないゝやい。
▲シテ「それは余りお情けない事を仰せらるゝ。あのお腰の物は、求めさせられたらばござらうが、この太郎冠者は、又と二人はござりますまい。
▲主「大切な腰の物を取られて、まだその様な事を云ふか。諸侍が丸腰で、何と帰らるゝものぢや。これはまづ、何としたものであらうぞ。
▲シテ「それならば、良い事がござる。きやつが申すは、今は北野へ参りぢやによつて許す。下向にこゝに居たならば、只置く事ではないと申しましたによつて、これに待つて居りまして、きやつが通る処をこなたと私と致いて捕らへまして、お腰の物は扨置き、丸裸に致しませうが、何とでござる。
▲主「これは一段と良からうが、汝はその者の顔を見覚えて居るか。。
▲シテ「中々。見覚えて居まする。やうやう下向の時分でござる程に、これへ寄つてござれ。
▲主「心得た。
《通り、「今日は一段の仕合せを致いた。急いで罷り帰らう」と云うて廻る。これより後は、諸事「真奪」と同断故、略す》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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