『能狂言』中68 小名狂言 すあをおとし

▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、明日は日柄も良うござるによつて、ふと思ひ立つて、伊勢参宮致さうと存ずる。それに付き、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。明日は日柄も良いによつて、ふと思ひ立つて伊勢参宮せうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「これは一段とめでたう存じまする。
▲主「則ち、供にはそちを連るゝぞ。
▲シテ「それは近頃、忝う存じまする。
▲主「それにつき、汝は太儀ながら、伯父者人の方へ使ひに行てくれい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「行て云はうは、この間は久しうお便りも承りませぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。さうござれば、明日は日柄も良うござるによつて、ふと存じ立つて伊勢参宮致しまする。こなたはかねてお約束の事でござるによつて、太郎冠者を進じまする。御出なさらばお供致しませうと云うて来い。
▲シテ「畏つてはござりまするが、明日と申しては、余り急な事でござるによつて、御出はなされますまい。
▲主「某もさうは思へども、かねがねお約束の事ぢやによつて、お付け届けまでに行て来い。
▲シテ「はあ。すれば、お付け届けまでにでござるか。
▲主「中々。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲主「扨、供には誰が行くぞと仰せられたならば、まだ知れませぬと云へ。
▲シテ「すれば、私の参るは、まだ知れませぬか。
▲主「いやいや。さうではない。供には汝を連るれども、あの伯父御は気の付いた人ぢやによつて、そちが供に行くと聞かれたならば、定めて餞をなされう。さうあれば、下向の時分、あの方の内の者へ、銘々に土産を遣らねばならぬ。とかく互の雑作がいらぬものぢやによつて、未だ知れませぬと云へ。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「内も忙しい程に、やがて戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、めでたい事でござる。明日は日柄も良うて、頼うだ人の伊勢参宮なされうと仰せらるゝ。それにつき、伯父御様へお使ひに行けと仰せ付けられた。まづ急いで参らう。誠に、某も、内々はひ参りなりとも致したいと存じてござるが、ひとへに大神宮に受けられたと申すものでござる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く》
▲伯父「そちならば、案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせぬぞ。
▲シテ「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲伯父「それは念の入つた事ぢや。扨、今は何と思うて来たぞ。
▲シテ「只今参るも、別なる事でもござらぬ。頼うだ者の使ひに参りました。
▲伯父「何と云うておこされた。
▲シテ「頼うだ者、申しまする。《主の云ひ付けたる通り云ふ》と申し越しましてござる。
▲伯父「やれやれ。それはめでたい事ぢや。某も行きたいものなれども、明日と云うては余り急な事ぢやによつて、某は、え行くまい。
▲シテ「私も左様に申してござれば、かねてお約束の事ぢやによつて、お付け届けまでに参る様にと申し付けられてござる。
▲伯父「それはいよいよ念の入つた事ぢや。戻つたならば、さう云うてくれい。明日は日柄も良うて参宮召さるゝげな。近頃めでたうこそあれ。某も行きたいものなれども、明日と云うては余り急な事ぢやによつて、え参るまい。めでたう下向を待つてこそあれと、良い様に云うてくれい。
▲シテ「畏つてござる。
▲伯父「扨、供に誰が行くぞ。
▲シテ「供の。
▲伯父「中々。
▲シテ「供には誰が参りまするか、未だ知れませぬ。
▲伯父「これはいかな事。明日の供の未だ知れぬといふ事があるものか。定めて汝が行くであらう。
▲シテ「いかさま、誰彼と云うて、他に人もござらぬによつて、定めて私が参るではござらうが、とかく未だ知れませぬ。
▲伯父「いやいや。汝が行くに相違はあるまい。門出を祝うてやらう。下に居よ。
▲シテ「内も忙しうござるによつて、もはやお暇申しませう。
▲伯父「いやいや。手間を取らする事ではない。平にしもに居よ。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲伯父「さあさあ。一つ呑うで行け。
▲シテ「これは例の大盃が出ましてござる。
▲伯父「手のいらぬ様に、おほさかづきを出いた。さらば、一つ呑め。
▲シテ「お酌はこれへ下されい。
▲伯父「いやいや。身共が注いでやらう。
▲シテ「これは慮外にござるが。その儀ならば、一つ注がせられて下されい。
▲伯父「心得た。
▲シテ「をゝ。恰度ござる。
▲伯父「誠にちやうどある。
▲シテ「さらば、たべませう。
▲伯父「それが良からう。やい。太郎冠者。その酒の風味は、何とあるぞ。
▲シテ「はあ。風味の。
▲伯父「中々。
▲シテ「ありやうは、今朝からたべたいたべたいと存ずる処へ、つゝかけてたべましたによつて、まだ風味を覚えませぬ。今一つたべて、風味を覚えませう。
▲伯父「これは尤ぢや。今一つ呑うで、風味を覚えい。
▲シテ「畏つてござる。又、恰度ござる。
▲伯父「又、恰度ある。風味は知れたか。
▲シテ「いや。申し。こなたで下さるゝ御酒に、あだなごしゆはござらぬが、今日のは格別、結構に覚えまする。
▲伯父「汝は酒を呑む程あつて、よう呑うだ。これは、遠来ぢや。
▲シテ「や。ご遠来。
▲伯父「中々。
▲シテ「私の申さぬ事か。常の御酒ではあるまいと存じてござる。ご遠来ならば、今一つたべませう。
▲伯父「それが良からう。
▲シテ「をゝ。又、恰度ござる。
▲伯父「を。恰度ある。
▲シテ「扨々、強いお酌ぢや。さらば、たべませう。
▲伯父「早う呑め。
《こゝにてむせる》
やいやい。太郎冠者。何としたぞ、何としたぞ。
▲シテ「大盃でつゝかけてたべましたによつて、ちとむせましてござる。暫く休んでたべませう。
▲伯父「いかやうにしてなりとも呑め。
▲シテ「とてもの事に、許させられい。ろくに居ませう。
▲伯父「誠に、最前から気が付かなんだ。ゆるりと居て呑め。
▲シテ「総じて、御酒などゝ申すものは、ゆるりと居て呑まねば、旨うないものでござる。
▲伯父「定めてさうであらう。
▲シテ「扨、いつぞはこなたへ申さう申さうと存じてござれども、折もござらぬによつて申しませぬが、こなたの世上の取り沙汰を聞かせられてござるか。
▲伯父「それは心元ないが、何と云ふぞ。
▲シテ「あゝ。そつともお気遣ひな事ではござらぬ。世上でこなたを褒めまする。
▲伯父「それは又、何と云うて褒むるぞ。
▲シテ「第一、お慈悲が深い。その上、それぞれにお気の付かせらるゝ。あの様な結構なお方は、追つ付けご加増を取らせられ、くわつと御立身をなされうと申して褒めまする処で、私の自慢を致す事でござる。
▲伯父「それは、何と自慢をしたぞ。
▲シテ「それは、皆の者が云ふは、くどい。結構なばかりではない。何から何までも行き届いた、あの様なお方が、恐らく天が下に、又と二人はあるまいなどゝ申して、自慢を申してござる。
▲伯父「それは良う云うてくれた。さりながら、これはそちに酒を振舞ふ追従であらう。
▲シテ「何ぢや。追従。
▲伯父「中々。
▲シテ「いや。申し。賤しい太郎冠者でこそござれ、御酒などがたべたいと申して、追従などを申す太郎冠者ではござらぬ。真実褒めまする。
▲伯父「何ぢや。真実褒むる。
▲シテ「中々。
▲伯父「それならば、近頃悦ばしい事ぢや。扨、呑まぬか。
▲シテ「たべませうが、上がすいて気味が悪うござる。ちと足させられて下されい。
▲伯父「酒は惜しまぬが、酔はぬ様にせい。
▲シテ「中々、これに五つや七つで酔ふ事ではござらぬ。
▲伯父「それならば、足してやらう。
▲シテ「をゝ。又、恰度ござる。扨も、気味の良いお酌ぢや。
▲伯父「酒さへ見ると、いつも機嫌が良い。
▲シテ「扨、たべませうか。
▲伯父「早う呑め。
▲シテ「心得ました。
▲伯父「は。又、ひと息に呑うだ。
▲シテ「はあ。扨又、こちの頼うだ人の噂を聞かせられてござるか。
▲伯父「いゝや。何とも聞かぬが。定めて褒むるであらう。
▲シテ「何ぢや。褒むる。
▲伯父「中々。
▲シテ「散々に叱りまする。
▲伯父「それは又、何と云うて叱るぞ。
▲シテ「第一、吝い。よそへは振舞ひに行けども、宿へと云うては、つひに人を呼うだ事がない。あの様な吝い人はあるまいと申して、皆叱りまする。こなた、何とぞ御意見を仰せられて下されい。
▲伯父「それは、気の毒な事ぢや。身共が云ふまでもない。そち、意見をしたならば良からう。
▲シテ「何。私の意見。
▲伯父「中々。
▲シテ「この太郎冠者などが申す事は、鹿の角を蜂の刺いた程にも思はぬ人でござる。是非、こなたの御意見の仰せられたならば、良うござらう。
▲伯父「その儀ならば、某も意見を云ふであらうぞ。
▲シテ「はあ。扨、こなたは上がりませぬか。
▲伯父「いやいや。そちが知る通り、身共は呑まぬ。
▲シテ「何ぢや。呑まぬ。
▲伯父「中々。
▲シテ「それならば、ご名代に今一つたべませう。
▲伯父「そちも、ちと酔うたさうな。もはやいらぬものぢや。
▲シテ「なぜにその様な吝い事を仰せらるゝ。中々、これに五つや七つで酔ふ事ではござらぬ。お気遣ひなしに注がせられて下されい。
▲伯父「それならば、半分注がう。
▲シテ「あゝ。気味の悪い。平に恰度注いで下されい。
▲伯父「酒は惜しまぬが。酔ふぞよ。
▲シテ「いかないかな。酔ふ事ではござらぬ。あゝ。又、恰度ござる。
▲伯父「又、一つある。
▲シテ「いや。申し。かう受け持つて、これを呑まう呑まうと存ずる処は、又、何に替へられたものではござらぬ。
▲伯父「呑む者は、定めてさうであらうとも。
▲シテ「又、たべませうか。
▲伯父「それが良からう。はあ。ちと大儀さうな。
▲シテ「あゝ。もはやたべますまい。
▲伯父「もう呑まぬか。
▲シテ「あゝ。もう嫌でござる。
▲伯父「それならば、取るぞや。
▲シテ「早う取らせられい。扨も扨も、結構な伯父御様ぢや。大盃で三つ、五つ。ほつてと酔うた。
▲伯父「やいやい。
▲シテ「あゝ。もはや嫌でござる。
▲伯父「いやいや。その事ではない。この素襖を汝に取らするといふ事ぢや。
▲シテ「や。何と仰せらるゝ。これを私に下さるゝ。
▲伯父「中々。
▲シテ「まづ以て、ありがたうはござりまするが、これは辞退仕りまする。
▲伯父「これはいかな事。折角祝うて、はなむけに遣る事ぢや程に、納めて置け。
▲シテ「お志は忝うござるが、幾重にも辞退仕りまする。
▲伯父「某が志ぢや程に、平に取つて置け。
▲シテ「何程に仰せられても、ちと申し受けにくい訳がござる。いつまでも辞退仕りまする。
▲伯「それは又、いかやうな事ぢや。
▲シテ「さればその事でござる。明日の供には私が参るに極まつてござれども、それをこなた様へは隠せでござる。
▲伯「それは又、いかやうな事ぢや。
▲シテ「さればその事でござる。頼うだ人を叱りまするは、こゝでござる。明日の供には私が参りまするが、それをこなたへは隠せでござる。
▲伯父「とは又、何とした事ぢや。
▲シテ「こなたはお気の付かせられたお方でござるによつて、私の参ると聞かせられたならば、まづこの如く、餞をなされう。さうあれば、下向の時分に、こなたの内の者に、銘々に土産を遣らねばならぬ。とかく互の雑作がいらぬものぢやによつて、こなたへは隠せでござる処へ、これを持つて参つて良いものでござるか。これは、幾重にも辞退仕りまする。
▲伯父「成程、聞き分けた。それならば、こゝ元では頼うだ者に隠いて、伊勢は諸国の付き合ひで晴れいなによつて、宮廻りの時分にそつと出いて着て、某が名代をしてくれい。
▲シテ「何と仰せらるゝぞ。こゝ元では頼うだ者に隠いて、伊勢は諸国の付き合ひで、はれいなによつて、宮廻りの時分にそつと出いて着て、こなたの御名代。
▲伯父「中々。
▲シテ「それならば、めでたう申し受けませう。
▲伯父「をゝ。それでこそ良けれ。
▲シテ「扨、おみやを上げませう。
▲伯父「いやいや。その様な事はいらぬものぢや。
▲シテ「なぜに左様に仰せらるゝぞ。私の事でござれば、しやうらかしい物でもござらぬ。まづこなた様へは、めでたうお祓ひ。奥様へは伊勢白粉。稚児様方へは愛らしう、笙の笛を上げませう。
▲伯父「それ程の事は申し受けう。扨、行かぬか。
▲シテ「どこへ。
▲伯父「これはいかな事。宿へ戻らぬかと云ふ事ぢや。
▲シテ「をゝ。宿への。
▲伯父「中々。
▲シテ「それを忘れて良いものでござるか。どりや。参りませう。
▲伯父「これはいかな事。そちはちと酔うたさうな。
▲シテ「いや。少しも酔ひは致しませぬが、最前から暫く居敷いて居りましたによつて、ちとしびりがきれました。慮外ながら、手を取つて下されい。
▲伯父「易い事。取つてやらう。さあ立て。あゝ。これこれ。酔うたさうな。
▲シテ「いかないかな。酔ふ事ではござらぬ。扨、こなたは明日、伊勢へ御出なされまするか。
▲伯父「最前も云ふ通り、余り急な事ぢやによつて、明日は、え行くまい。
▲シテ「それならば、土産を上げませう。
▲伯父「それは最前聞いた。
▲シテ「なぜに左様に仰せらるゝ。私の事でござれば、別にしやうらかしい物でもござらぬ。まづ、こなた様へは伊勢白粉。稚児様方へはめでたうお祓ひ。奥様へは愛らしう、笙の笛を上げませう。
▲伯父「をゝ。それ程の事は、申し受くるであらう。もはや戻らぬか。
▲シテ「別に忙しい事もござらぬ。
▲伯父「これはいかな事。明日参宮する者が、忙しうないと云ふ事があらうか。早う戻つたならば良からう。
▲シテ「それならば、もうかう参りませう。
▲伯父「もはや行くか。
▲シテ「さらばさらば。
▲伯父「よう来た。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、結構な伯父御様かな。門出を祝うてやるとあつて、大盃で三つ、五つ。ほつてと酔うた。ちと謡うて参らう。《謡》
ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
あゝ。酔うたさうな。いつもこの道は一筋ぢやが、今日はふた筋にも三筋にも見ゆる。あゝ。ちと酔うたさうな。
《この内に、主、立つて》
▲主「太郎冠者を伯父者人の方へ使ひに遣はしてござるが、今に戻りませぬ。後から参つて見ようと存ずる。もはや余程久しい事でござるが、何をして居る事ぢや知らぬ。さればこそ、あれへしたゝかに酔うて参る。やいやいやいやい。
▲シテ「やあ。
▲主「やあとは。おのれ憎い奴の。今まで何をして居つた。
▲シテ「伯父御様へお使ひに参つたが。こなたは又、どれへござるぞ。
▲主「おのれが遅いによつて、迎ひに来た。
▲シテ「いらぬ迎ひの。この太郎冠者は、道は知つて居りまする。先へござれござれ。
▲主「扨々、むさとしたやつの。伯父御は伊勢へ行かうとか。行くまいとか。
▲シテ「誰が。
▲主「これはいかな事。伯父御は伊勢へ行かうとか。又、行くまいとか。
▲シテ「はあ。伯父御様の。
▲主「中々。
▲シテ「伯父御様は、伊勢へ行かうでもなし。行くまいでもござらぬ。
▲主「これはいかな事。それでは知れぬ。参らうとか。参るまいとか。
▲シテ「参るまいと。
▲主「それで良い。
▲シテ「それで良い。《笑うて》
▲主「又、伯父者人も伯父者人ぢや。あの様に酒に呑まするといふ事があるものでござるか。
▲シテ「いや。なうなうなう。頼うだ人。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「明日参宮するに、その様に機嫌を悪うせぬものでござる。ちと謡はせられい。
▲主「謡ひたくば、おのれひとり謡へ。
▲シテ「それならば、謡ひませう。《小歌》
あの山見さい。この山見さい。頂きやつれた小原木。《笑うて、素襖を落とす》
某が機嫌の良いこそ道理なれ。伯父御様にこれを貰うたによつてぢや。や。どれへ行たか知らぬ。今まで持つて居たが。どちへ落といた知らぬ。
《主、落としたる素襖を拾うて》
▲主「太郎冠者が機嫌の良いこそ道理なれ。これを貰うたによつてぢや。さればこそ、尋ぬるわ。
▲シテ「はて。合点の行かぬ。どこ元へ落といた知らぬ。
▲主「やいやい。太郎冠者。明日参宮するに、機嫌を悪うせまい事を。ふと機嫌を悪うした。機嫌を直いた。一つ舞はぬか。
▲シテ「舞ひたくば、こなたばかり舞はせられい。
▲主「それならば、舞うて見せう。《「漕ぎ出いて」を舞うて》
面白いとの。
▲シテ「や。なうなうなう。頼うだ人。
▲主「何事ぢや。
▲シテ「道通りが、気違ひぢやと云うて、笑ひまする。
▲主「あれは、褒めさせらるゝのぢや。
▲シテ「誰が褒むるものぢや。はて。合点の行かぬ。どれへ落といたか知らぬ。
▲主「やいやい。汝は今まで機嫌が良うあつたが、俄かに機嫌悪うなつたの。
▲シテ「その様に、朝から晩まで機嫌の良い者があるものでござるか。
▲主「その上、何やら尋ぬる体ぢやが。何を落といた。
▲シテ「はあ。私は何も落としは致しませぬが。こなたは俄かに機嫌が直らせられてござるが、何ぞ拾ひはなされぬか。
▲主「いや。身共はちと拾うた物がある。
▲シテ「何を拾はせられたぞ。ちと見せさせられい。
▲主「いやいや。見する事はならぬ。
▲シテ「いや。ちと見せさせられい。
▲主「それならば見せう程に、これへ出い。
▲シテ「心得ました。
▲主「まだ出い。
▲シテ「心得ました。
▲主「身共はこりや、この素襖を拾うた。
▲シテ「これは、私の貰うた素襖でござる。
▲主「あの横着者。どちへ行くぞ。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「あゝ。許させられい、許させられい。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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