『能狂言』中70 聟女狂言 えびすびしやもん

▲舅「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、娘をいち人持つてござるが、いまだ聟がござらぬによつて、西の宮の夷三郎殿と、鞍馬の毘沙門天へ祈誓を掛けてござれば、まづ高札を打てとの御示験でござる。急いで高札を打たう。《シテ柱へ打つて》
一段と良うござる。
▲毘沙門「《一セイ》《謡》そもそもこれは、鞍馬の毘沙門天とは我が事なり。
こゝに、有徳なる者のあるが、一人の娘を持つ。彼が母、某が前へ来て祈る様、いかにも足元、素性気高うして、有徳なる者を聟に取らせてくれよと祈るにより、方々と尋ぬれども、彼が聟になしつべしい者がござらぬ。承れば美人ぢやと申すによつて、某が聟になつて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、某が聟になつてござらば、舅はさぞ悦ぶでござらう。いや。参る程に、これにたかふだがある。さらば、この辺りから案内を乞はう。《常の如く、一の松より》
鞍馬辺より、聟の望みで来てあるぞとよ。
▲舅「鞍馬辺と仰せらるゝは、もし、毘沙門天王でばしござるか。
▲毘沙「遅い推かな。毘沙門天王にてあるぞとよ。
▲舅「これは、ありがたうござる。まづ、かう御来臨なされて下されい。
▲毘沙「心得た。床机をくれい。
▲舅「畏つてござる。
はあ。御床机でござる。
▲シテ「《一セイ》《謡》そもそもこれは、西の宮の夷三郎殿にておりやらします。
こゝに有徳な者のあるが、彼、一人の娘を持つ。彼が父、某が前へ来て祈る様、いかにも足元、素性気高うして、有徳なる者を聟に取らせてくれよと祈るにより、こゝかしこと尋ぬれども、彼が聟になしつべしい者がござらぬ。承れば美人ぢやと申すによつて、某が聟になつて参らうと存じ、まづ高札を打てと、示現をおろいてござる。まづそろりそろりと参らう。誠に、某が聟になつた事ならば、その身の事は云ふに及ばず、所まで富貴栄華に栄えさせうは、疑ひもござない。いや。参る程に、これに高札がある。この高札は、夷三郎の引いてす。急いで案内を乞はう。《常の如く、一の松より》
西の宮辺より、聟の望みで来てあるぞとよ。
▲舅「西の宮辺と仰せらるゝは、もし、夷三郎殿でばしござるか。
▲シテ「遅い推かな。夷三郎殿にてあるぞとよ。
▲舅「はあ。これは、ありがたうござる。さりながら、最前、鞍馬の毘沙門天の、聟の望で御出でござる。
▲シテ「何ぢや。鞍馬の毘沙が来た。
▲舅「中々。
▲シテ「あれは、仏の体を得た者ぢやによつて、来る筈はないが。合点の行かぬ事ぢや。
▲毘沙「なうなう。舅殿舅殿。
▲舅「何事でござる。
▲毘沙「表に聟算段がござるが、あれは誰でござる。
▲舅「西の宮の夷三郎殿の、聟の望で御出でござる。
▲毘沙「何じや。さぶが来た。
▲舅「中々。早これへ御出でござる。
▲毘沙「やいやい。それへ来たは、西の宮のさぶかやい。
▲シテ「さう云ふは、鞍馬の毘沙かやい。
▲毘沙「さぶ、この所へ来てあるを、この毘沙門天王の、きつと御推量なされてあるぞとよ。
▲シテ「何と推量してあるぞとよ。
▲毘沙「この毘沙門天王の聟入が、あの西の宮まで隠れがなうて、魚物あまたいらうと思ひ、鯛ばし売りに来てあるか。
▲シテ「さう云ふ毘沙が、この所へ来てあるを、この夷三郎殿の、きつと御推量なされてあるぞとよ。
▲毘沙「何と推量してあるぞとよ。
▲シテ「この夷三郎殿の聟入が、鞍馬のつうと奥まで隠れがなうて、美物あまたあらうず、生魚を多う喰はせ、虫ばしおこさせてはと思ひ、山椒の皮ばし売りに来てあるか。
▲舅「申し申し。互のご雑言は無益となさるゝとも{*1}、足元素性気高いお方を聟に取りたうござる。
▲シテ「舅殿。よう云はれた。総じて、我と我が身の事は云はれぬものぢやによつて、某が身の上の事を毘沙に云はせ、又、毘沙が身の上の事を某が云うて聞かさう程に、まづ毘沙から先へ云へと仰しやれ。
▲舅「畏つてござる。まづ、毘沙門天王のご由来が承りたうござる。
▲毘沙「語つて聞かさう。ようお聞きやれ。
▲舅「はあ。
▲毘沙「《語》それ、多門と云つぱ、四王じ{*2}の主として、須弥の四州を守り、貧なる者には福を与へ、富貴栄華に栄えさするも、ひとへにこの多門が守りの故なり。さあるによつて、年の初めの初寅と斎はれ、威光を顕はす。又、あのさぶが身の上を云うて聞かさう。それ、神と斎はれなば、いかにも綺麗なる森林には住みもせで、西の宮の市中に住んで、草鞋履き物に踏み越えられ、たまたま思ひ出せんとては、小船に取り乗り沖の方へ出で、神上鱠受け喰うて、絹の裁ち外れ、布の裁ち外れなどを着て、衆生済度となるまいぞとよ。
▲シテ「をゝ。それこそ衆生済度の為にてあるぞとよ。
舅殿。お聞きそい。
▲舅「はあ。
▲シテ「《語》それ、伊弉諾、伊弉冉の尊、天の岩倉の苔筵にて、男女の語らひをなし給ひ、日神、月神、蛭子、素戔嗚の尊を儲け給ふ。蛭子とは某が事なり。天照太神より三番目の弟なればとて、西の宮の夷三郎殿と斎はれ、我が氏素性、誰にか劣り給ふべき。又、あの毘沙が身の上の事を云うて聞かさう。それ、仏とあらば、いかにも人間近き所には住みもせで、鞍馬のつうと奥に住んで、敵も持たぬ詰め用心。これ、まづ一つ無用なり。その上、毘沙には主があるぞとよ。
▲毘沙「主はあるまいぞとよ。
▲シテ「増長広目多門持国と聞く時は、大仏は汝が主ではないか。
▲毘沙「おのれ、突かうぞよ。
▲シテ「おのれ、釣らうぞよ。
▲舅「いかにや、かたがた聞き給へ。誠の聟に成りたくば、宝を我にたび給へ。
▲毘沙「いでいで、宝を与へんとて。《舞、カケリ》
いでいで、宝を与へんとて。
▲地「《謡》悪魔降伏、災難を払ふ、鉾を舅に取らせけり。
▲シテ「《謡》和殿に我も劣るまじ。《舞、カケリ》
和殿に我も劣るまじと。
▲地「《謡》商ひ冥加、作り冥加、万の幸ひあらする釣針を、魚ながらこそは取らせけれ。
▲毘沙「《謡》猶も舅に欲しがりて、兜を脱いで舅に取らせ。
▲シテ「《謡》烏帽子を脱いで舅にとらせ、
▲地「《謡》いづれも劣らぬ福天なれば、いづれも劣らぬ福天なれば、この所にこそ納まりけれ。
▲両神「やあ。ゑいやあ。やあ。

校訂者注
 1:底本は、「と被成共、」。
 2:底本は、「四王じ(マゝ)のぬし」。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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