『能狂言』中71 聟女狂言 はうちやうむこ
▲舅「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は最上吉日でござるによつて、聟殿の御出なされうとの事でござる。まづ太郎冠者を呼び出し、申し付けう。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲舅「居たか。
▲冠者「お前に。
▲舅「念なう早かつた。汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は最上吉日で、聟殿の見ゆる筈ぢや。門前の掃除をも云ひ付け、又、見えたならば、こちへ知らせい。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「これは、人のいとしがる花聟でござる。今日は最上吉日でござるによつて、聟入を致さうと存ずる。それにつき、聟入には色々の仕付け様体があるとは申せども、左様の事をかつて存じませぬ。こゝに、お目を掛けさせらるゝお方がござるが、これは再々聟入をなされて、ようご存じでござらうによつて、あれへ参り、習うて聟入を致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、お宿にござれば良うござるが。お宿にさへござつたならば、教へて下さらぬと申す事はござるまい。いや。参る程にこれぢや。まづ、案内を乞はう。《常の如く》
私でござる。
▲教へ手「和御料ならば、案内に及ばうか。なぜにつゝと通りは召されぬぞ。
▲シテ「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲教手「近頃、念の入つた事ぢや。扨、そなた、殊の外きらびやかなが、どれへ行くぞ。
▲シテ「何と、きらびやかに見えまするか。
▲教手「殊の外、きらびやかな体ぢや。
▲シテ「とてもの事に、念を入れて見て下されい。
▲教手「前から見ても後ろから見ても、某が所へ来始まつてない、きらびやかなゝりぢや。
▲シテ「きらびやかな形こそ道理なれ。今日は最上吉日で、舅の方へ聟入を致しまする。
▲教手「何ぢや。聟入をする。
▲シテ「中々。
▲教手「やれやれ。それはめでたい事ぢや。疾う聞いたならば、何ぞ似合ひの用を聞いておまさうものを。
▲シテ「それは近頃、忝うござる。扨、只今参るも別なる事でもござらぬ。総じて、聟入には色々の仕付け様体があるとは申せども、私は存じませぬ。こなたは再々聟入をなされて、良うご存じでござらう程に、教へて下されい。
▲教手「こゝな人は。人聞きの悪しい事を仰しやる。いつ身共が再々、聟入をした事があるぞ。
▲シテ「それ。先度、途中でお目に掛かつた時も、舅のかたへ行くとは仰せられぬか。
▲教手「これはいかな事。聟入といふは、一代に一度のもので、その後行くは、時の折見舞ひでおりやる。
▲シテ「すれば、時の折見舞ひでござるか。
▲教手「中々。折見舞ひでおりやる。
▲シテ「それはともあれ、何とぞ仕付け様体を教へて下されい。
▲教手「久しい事なれば、某も空では覚えぬ。こゝに書いた物がある。それを見て教へておまさう。まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲教手「扨も扨も、世には愚鈍な者があるものでござる。あの年になるまで、聟入の仕付け様体を知らぬと申して、習ひに参つた。あの様な者に誠を教へては、いかゞでござる。こゝに、相撲の書いた物がござるによつて、これを仕付け様体ぢやと申して遣はし、後までの笑ひ草に致さうと存ずる。
いや。なうなう。おりやるか。
▲シテ「これに居りまする。
▲教手「和御料は物を書くか。
▲シテ「いや。私は書きませぬ。
▲教手「それならば、お内儀はなるか。
▲シテ「これも、書くと申す程の事ではござらぬが、蚯蚓のぬたくつた様な事や、雀の踊つた足跡の様な事を致しまする。
▲教手「それならば、これ程の事は読めう。則ちこれが、某が聟入をした時の、仕付け様体を書いた物でおりやる。これをそなたへおます程に、御内儀に読ませて、その通りにすれば済む事でおりやる。
▲シテ「これは近頃、忝うござる。すれば、これを女共に読ませて、その通りに致せば済む事でござるか。
▲教手「いかにも、その通りでおりやるとも。
▲シテ「その儀ならば、私はもう、かう参りませう。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと仕付け様体の書いた物を貰うてござる。急いで罷り帰り、女共に読ませて見よう。誠に、問ふは当座の恥、問はぬは末代の恥と申すが、問はずに居たならば、定めて恥をかくでござらう。いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。
いや。なうなう。女共は内におりやるか。居さしますか。
▲女「これのは戻らせられたさうな。
申し。戻らせられてござるか。
▲シテ「中々。今、戻つた。扨、そなたに見する物がある。まづ、かう通らしめ。
▲女「心得ました。扨、妾に見せうと仰せらるゝは、何でござるぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。聟入には、色々の仕付け様体があるとは云へども、某はかつて知らぬ。こゝに、お目を掛けさせらるゝお方があるによつて、それへ行て習うたれば、則ち、この書いた物をくれられた。これをそなたに読ませて、この通りにすれば良いと仰しやつたが、和御料に読むるか。読うで見さしめ。
▲女「それならば、これへ見せさせられい。
▲シテ「さあさあ。見さしめ。何と、読むるか。
▲女「中々。これ程の事は読めまする。
▲シテ「何ぢや。読むる。
▲女「中々。
▲シテ「それで落ち着いた。それならば、そなたを同道して読うで貰はうが、まづ、身拵へを致さう。
▲女「それが良うござらう。これへ寄らせられい。
▲シテ「心得た。
▲女「これを腰へ付けさせられい。
▲シテ「何と良いか。
▲女「一段と良うござる。
▲シテ「舅殿が、さぞ待つて居られう。追つ付け参らう。
▲女「それが良うござる。
▲シテ「そなた、案内しに先へ立たしめ。
▲女「心得ました。さあさあ。ござれござれ。
▲シテ「参る参る。
▲女「扨、あの方は、つゝと物見高い所でござるによつて、今日こなたの御出なさるゝと聞いたならば、さぞ人が見ませう。
▲シテ「誠に、垣からも窓からも、皆、目ばかりでおりやらう。
▲女「必ず、臆せぬ様になされい。
▲シテ「臆する事ではおりない。扨、程は遠いか。
▲女「今少しでござる。急がせられい。
▲シテ「心得た。
▲女「いや。参る程に、これでござる。
▲シテ「これでおりやるか。
▲女「中々。
▲シテ「それならば、案内を乞はう。
▲女「良うござらう。
▲シテ「物申。案内申。
▲冠者「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シテ「最上吉日で聟が参つたと仰しやれ。
▲冠者「扨は、聟殿でござるか。
▲シテ「中々。
▲女「やいやい。太郎冠者。わらはも来た通りを、とゝ様へ云うてくれい。
▲冠者「これは、おごう様も御出なされてござるか。
▲女「中々。
▲冠者「その通り申しませう。まづ、それに待たせられい。
▲女「心得た。
▲冠者「申し申し。聟殿の御出なされてござる。
▲舅「何ぢや。聟殿の見えた。
▲冠者「中々。おごう様も御出なされてござる。
▲舅「やあやあ。おごうも来た。
▲冠者「その通りでござる。
▲舅「それならば、二人ともに、かう通らせられいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
申し申し。御両人ともに、かう通らせられいと申しまする。
▲シテ「只今支度をして参ると仰しやれ。
▲冠者「畏つてござる。
▲女「妾は先へ通りませう。
▲シテ「それが良からう。
▲女「申し。とゝ様。妾も参りましてござる。
▲舅「ようこそおりやつたれ。まづ、これへ通らしめ。
▲女「心得ました。
《この内、聟は、一の松にて腰の袴を解きて》
▲シテ「扨々、これは長い袴ぢや。何として着たものであらうぞ。《と云うて、柱越しに舅のなりを見て、うなづきて》
これこれ。かやうに致さう。《と云うて、片々へ両足入れ、右の片々へ手を通して着る》
▲舅「やい。太郎冠者。聟殿は何をしてござるぞ。早う通らせられいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
申し。早うお通りなされいと申しまする。
▲シテ「扨々、せはしない。只今支度をして居ると仰しやれ。
▲冠者「畏つてござる。
はあ。只今支度をして居ると仰せられまする。
▲舅「心得た。
これは遅い事ぢや。早うござれと云へ。
▲冠者「畏つてござる。只今御出なされまする。
▲舅「心得た。
▲シテ「はあ。不案内にござる。
▲舅「初対面でござる。
▲シテ「早々参らうずるを、かれこれ致いて無音の段は、おごうに免ぜられて下されい。
▲舅「内々待ちまする処に、今日の御出、近頃祝着致しまする。
▲シテ「はあ。
▲舅「太郎冠者。御盃を持て。
▲冠者「畏つてござる。《腰桶の蓋を持ち、扇開きて出づる》
はあ。御盃を持ちましてござる。
▲舅「まづ、聟殿へ持つて行け。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「まづ、舅殿へ持つて行け。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「今日の事でござるによつて、私からたべて進じませう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲舅「太郎冠者。一つ注げ。
▲冠者「心得ました。
▲舅「恰度ある。
▲冠者「ちやうどござる。
▲舅「これを聟殿へ持つて行け。
▲冠者「畏つてござる。
はあ。御盃でござる。
▲シテ「戴きまする。
▲舅「慮外にござる。
▲シテ「一つ注げ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「あゝ。恰度ある。
▲冠者「恰度ござる。
▲シテ「扨も扨も、辛い酒かな。茨を逆茂木にした様な。
▲舅「聟殿は甘いが好きと見えた。甘いを進ぜい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「いや。苦しうござらぬ。今一つ注げ。
▲冠者「心得ました。
▲舅「はあ。聟殿は、一つなると見えました。
▲シテ「常はたべませぬが、今日の事でござるによつて、一つたべまする。
▲舅「それは、一段の事でござる。
▲シテ「又、恰度ある。
▲冠者「恰度ござる。
▲シテ「これを舅殿へ持つて行け。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「戴きまする。
▲シテ「めでたうござる。
▲舅「これをおごうに差さうか。
▲女「わらはが戴きませう。
▲舅「めでたうおりやる。
▲女「恰度ある。
▲冠者「恰度ござる。
▲女「又、こなたへ進じませう。
▲舅「これへおこさしめ。
めでたうおりやる。
▲女「慮外にござる。
▲舅「又、恰度ある。
扨、もはや参りませぬか。
▲シテ「もはや、たべますまい。
▲舅「それならば、御盃を取つて、用意の物を持て。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「申し申し。こなたの悦ばせらるゝ事がござる。
▲舅「それは、いかやうな事でござる。
▲シテ「この間、おごうは青梅を好いてたべまする。
▲舅「それは、一段の事でござる。
▲女「扨々、むさとした事を仰せらるゝ。
《太郎冠者、俎板を持ち出いて、置く》
▲舅「扨、聟殿。この所の大法でござるによつて、ひと手なされて下されい。
▲シテ「私はつゝと不調法でござる。御免なされて下されい。
▲舅「いやいや。その分は苦しうござらぬ。大法の事でござるによつて、いかやうでも苦しうござらぬ。
▲シテ「その儀ならば、身拵へを致いて参りませう。
▲舅「それが良うござらう。
《シテ{*1}、一の松へ行て、手招きして女を呼ぶ》
▲女「何事でござる。
▲シテ「最前のを読うでくれさしめ。
▲女「心得ました。何々。相撲の書の事。まづ、扇子を抜いて、下に置くべし。
《聟、扇を見する。女、うなづく。聟、下に置く》
刀をも抜いて、下に置くべし。
《又、刀を見する。女、うなづく。聟、下に置く》
小袖、上下を脱ぐべし。
《又、小袖、かみしもを脱ぐ》
場なかへ出て待つべし。相手あらば、一番取るべし。
《シテ{*2}、舞台の真ん中へ出て、構へて居る。舅、見て笑うて、
「太郎冠者。あれは何とした事ぢや。」
「されば、何と致いた事でござるか。」
「定めて、相撲を取らうといふ事であらう。」
「左様でござらう。」
「聟殿は真人ぢやと聞いたが、誰ぞ、なぶつておこされたものであらう。さりながら、某もあの通りにせずば、舅は物知らずぢやと云はれう程に、身拵へをしてくれい。」
「畏つてござる。これへ寄らせられい。」
「心得た。
何と、良いか。」
「一段と良うござる。」
「それならば、行司をせい。」
「畏つてござる。」》
▲冠者「やあ。お手。
▲両人「やあやあ。《と云うて、両人、組み合うて居る。女は、一の松より見て》
▲女「これはいかな事。喧嘩になつたさうな。
申し申し。これは何とした事でござるぞ。何とぞこらへて下されい。
▲シテ「女共か。良い処へ来た。舅殿の足を取れ。
▲女「心得ました。
▲舅「やい。こゝな者。親の足を取るといふ事があるものか。聟殿の足を取れ。
▲女「心得ました。
▲シテ「やい。こゝな者。身共が足を取つたらば、宿へ寄する事ではない。舅殿の足を取れ、足を取れ。
▲女「とゝ様の足を取りまするか。
▲シテ「をゝ。早う取れ。
▲女「心得ました。
《女、親の足を取りて、両人して打ち倒す》
▲舅「こゝな者。親の足を取るといふ事があるものか。これは何とするぞ、何とするぞ。
▲シテ「やあやあやあやあ。参つたの。勝つたぞ勝つたぞ。
▲女「なう。愛しの人{*3}。こちへござれ、こちへござれ。
▲シテ「心得た、心得た。
▲舅「やいやい。親をこの様にして。将来が良うあるまいぞ。どちへ行く。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
《太郎冠者、行司して、その儘太鼓座へ引つ込むなり》
校訂者注
1・2:底本に、「シテ」はない。『狂言全集』(1903)に従い補った。
3:底本は、「いとうしの人」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
コメント