『能狂言』中72 聟女狂言 おんぎよくむこ

《舅、名乗り、その他「庖丁聟」同断。聟、名乗り、道行、案内乞うて、「それはともあれ、仕付け様体を教へて下されい」と云ふまで、「庖丁聟」同断》
▲教へ手「近頃易いことなれども、はや程久しい事なれば、某もそらでは覚えぬ。こゝに書き記いた物がある。これを見て教へておまさう程に、まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲教手「扨も扨も、世には愚鈍な者があるものでござる。あの年になるまで、聟入の仕付け様体を知らぬと申して、習ひに参つた。あの様な者に誠を教へては、いかゞでござるによつて、筋ない事を教へ、後までの笑ひ草に致さうと存ずる。
いや。なうなう。おりやるか。
▲シテ「これに居りまする。
▲教手「書いた物を見たが、大昔、なか昔、当世様と云うて三通りあるが、和御料はいづれが習ひたいぞ。
▲シテ「まづ、おほ昔と申しては、余り昔でござる。中昔と申しても、はや昔でござる。とかく皆人の当世様当世様と仰せらるゝによつて、その当世様を教へて下されい。
▲教手「そなたは聟入をすれば、分別までが上がつた。この当世様と云ふが、いち心安い事でおりやる。まづ、舅の門外へ行て、三つ拍子を打つて、調子を吟ずる事ぢや。
▲シテ「はあ。三つ拍子を打てば、銚子が出まするか。
▲教手「いや。その事ではない。かう三つ拍子を打つて、むゝ、と云ふ。これを、調子を吟ずると云ふ。扨、その後、舅と対面の時は、三はりさしと云うて、前へ三足出で、後へさんぞく下がり、きりゝと廻つて、とうど下に居て、又三つ拍子を打つて調子を吟じ、その後何なりとも云ひたい事を、謡節に掛かつて申す。これを当世様の音曲聟と申す。
▲シテ「その分の事でござるか。
▲教手「中々。この分の事でおりやる。
▲シテ「大方覚えました。重ねて参つて、このお礼はきつと申しませう。
▲教手「お尋ねに預からうぞ。
▲シテ「定めて舅殿の待つて居られませう程に、もう、かう参りませう。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
《これより「庖丁聟」の通り、「問ふは当座の恥」を云うて、「舅はさぞ待つて居らるゝであらう」など云うて、一の松へ行く》
来る程に、これぢや。さらば、教への通りを致さう。《と云うて、三つ拍子を打つて、「むゝ」と云ふ》
▲冠者「いや。表がうめくが、何事ぢや知らぬ。
いや。こなたはどなたでござる。
▲シテ「《謡》聟が参りて候ふ。それそれ。御申し候へ。むゝ。
▲冠者「扨は、聟殿でござるか。
▲シテ「中々。
▲冠者「その通り申しませう。まづ、それに待たせられい。
▲シテ「心得た。
▲冠者「はあ。
聟殿の御出でござる。
▲舅「何ぢや。聟殿の見えた。
▲冠者「中々。
▲舅「それならば、聟殿には、かう通らせられいと云はうず。又、供の者をば遠侍へ入れて、汝もてなせ。
▲冠者「いや。聟殿は、只ごいち人でござる。
▲舅「それならば、定めて先走りであらう。行て云はうは、こなたは定めて御先走りでござらう。聟殿にはどれまで御出なされたぞ。御迎ひを進じませうと云へ。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲シテ「先走りにも後走りにも、正身の真聟、只いち人ぢやと仰しやれ。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲舅「その様な事もあらう。かう通らせられいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。かう通らせられいと申しまする。
▲シテ「通らうか。
▲冠者「つゝと通らせられい。
▲シテ「汝は、これの太郎冠者か。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「今日はめでたいなあ。
▲冠者「はあ。
《聟、通りて、舅と向き合ひ、三はりさしをして、下に居て、三つ拍子を打ち、調子を吟じて》
▲シテ「《謡》早々参らうずるを、私のぶいんは、これのお娘子に免ぜられ、御免あらうずるにて候ふ。むゝ。
▲舅「《笑うて》あれは、何とした事ぢや。
▲冠者「最前、御門外でもあの通りなされてござる。
▲舅「はあ。聟殿は、またうどぢやと聞いたが、定めて誰そ、なぶつておこされたものであらう。某もあの通りせずば、舅は物知らずぢやと云はれう程に、あの通りするによつて、次の者に、必ず笑うなと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「汝も笑ふまいぞ。
▲冠者「心得ました。
《舅も、三はりさしゝて、三つ拍子を打ち、調子を吟じて》
内々待ち申す処に、今日の御出、祝着申して候ふ。むゝ。
▲シテ「不案内にござる。
▲舅「初対面でござる。
《これより「庖丁聟」の如く云うて、返事も同断。盃取りて》
▲シテ「《謡》何事もか事も、何事もか事も、親子の契約ある上は、只、平に御免候へ。
▲舅「《謡》やがて乱酒になりしかば、も一つ参れ、聟殿。
▲シテ「《謡》今一つ召せや、舅殿。
▲地「《謡》三々九度も重なれば、後は酒興の余りにや、聟も舅も諸ともに、聟も舅も諸ともに、聟も舅も諸ともに、相舞まうてぞ帰りける。
《正面へ出て、向かひ合ひて、「むゝ」と云うて、辞儀して入るなり》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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