『能狂言』中73 聟女狂言 をかだいふ

《舅、名乗り、その他、前に同じ》
▲シテ「罷り出でたる者は、年に似合はぬ申し事でござれども、人のいとしがる花聟でござる。《この名乗り、年輩ならば良し。若き者は、常の如く名乗るべし》今日は最上吉日でござるによつて、舅のかたへ聟入を致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に某も、疾う聟入を致す筈でござるが、かれこれ致いて遅なはつてござる。定めて舅は待つて居らるゝでござらう。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。
物申。案内まう。
▲冠者「表に物まうとある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シテ「今日は最上吉日で、聟が参つたと仰しやれ。
▲冠者「扨は、聟殿でござるか。
▲シテ「中々。
▲冠者「その通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲シテ「心得た。
《冠者、その通り舅へ云ふ。「音曲聟」の通り云うて、扨、通りても「庖丁聟」などの如く挨拶して、盃事も同断。盃取つて、「最前云ひ付けた物を出せ」と云ひ付くる。太郎冠者、盃持つて引つ込む》
いや。申し。こなたの悦ばせらるゝ事がござる。
▲舅「それは、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「この間、おごうは青梅を好いてたべまする。
▲舅「それは一段の事でござる。
《太郎冠者、三宝へ綿を載せて持つて出る》
申し申し。聟殿。それをちと参りませい。
▲シテ「これをたべまするか。
▲舅「中々。
▲シテ「これは忝うござる。それならば、たべませう。扨も扨も、これは殊の外旨い物でござる。この様な旨い物は、つひにたべた事がござらぬ。これはまづ、何と申す物でござるぞ。
▲舅「それは蕨餅でござるが、定めて賤しい物の様に思し召されうが、延喜の帝のお好きでご賞翫なされ、則ち官を下されて、岡太夫とも申しまして、朗詠の詩にも載つてある物でござる。お気に入つたならば、代へて参りませい。
▲シテ「これは良い物でござる。それならば、代へませう。
▲舅「太郎冠者。代へて進ぜい。
▲冠者「もはやござりませぬ。
▲舅「何ぢや。ない。
▲冠者「中々。
▲舅「扨々、それは不調法な。近頃気の毒な事を致いた。
▲シテ「いやいや。少しも苦しうござらぬ。総じて私の癖で、ない物は食べませぬ。
▲舅「近頃、残り多い事を致いた。さりながら、もしお気に入つたならば、おごうが拵へ様を存じて居りまする程に、戻らせられたならば、拵へさせて参りませい。
▲シテ「やあやあ。何と仰せらるゝ。この拵へやうを、おごうがよう覚えて居ると仰せらるゝか。
▲舅「中々。その通りでござる。
▲シテ「それは一段の事でござる。戻つたならば、早々拵へさせてたべませう。
▲舅「それが良うござらう。
▲シテ「扨、私はもう、かう参りませう。
▲舅「もはやござるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲舅「ようござつた。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと聟入を致いた。まづ急いで罷り帰らう。定めて女共が、今か今かと待つて居るでござらう。戻つてこの様子を話いたならば、さぞ悦ぶでござらう。いや。何かと云ふ内に、戻り着いた。
いや。なうなう。女共、居りやるか。今戻つておりやるわ。
▲女「やあやあ。これのは戻らせられてござるか。
▲シテ「中々。今戻つておりやる。
▲女「定めて父様の悦ばせられたでござらう。
▲シテ「殊ない悦びであつた。
▲女「左様でござらう。扨、あのとゝ様は、人に珍しい物を振舞ふ事が好きでござるが、こなたは何も、珍しい物は参りませぬか。
▲シテ「あゝ。それについて、何やら珍しい物を振舞はれた。
▲女「それは何でござるぞ。
▲シテ「あゝ。何とやらであつた。そなたの拵へ様をよう知つて居るとおしやつた。早う拵へてくれさしめ。
▲女「それは何でござるぞ。名を仰せられたならば、拵へて進じませう。
▲シテ「あゝ。何とやら云ふ物であつた。
▲女「何でござらうぞ。
▲シテ「をゝ。それそれ。らうらうとやら云はれた。
▲女「らうらうと云ふ物はござらぬが。もし、朗詠の詩ではござらぬか。
▲シテ「中々。その朗詠の詩であつた。それを拵へて喰はさしめ。
▲女「これはいかな事。これは物の本の名で、喰ふ物ではござらぬが。この朗詠の詩の中にある物ではござらぬか。
▲シテ「をゝ。定めてその様な事であらう。
▲女「それならば、常々とゝ様の読ませらるゝを承つて、少しは覚えて居りまする。これを申しませう程に、この内にあるならば、あると早う仰せられい。
▲シテ「心得た。
▲女「池の凍りの東頭は風渡つて解け、窓の梅の北面は雪封じて寒し{*1}。この窓の梅で思ひ出しました。梅干しばし参つたか。
▲シテ「なう。酸や、すや。その様な酸い物ではおりない。
▲女「これではござらぬか。
▲シテ「中々。
▲女「気霽れては風新柳の髪を梳り、氷消えては浪旧苔の鬚を洗ふ{*2}。このひげで思ひ出しました。もし野老ばし参つたか。
▲シテ「なうなう。苦や、にがや。その様な苦い物でもない。旨い物でおりやる。
▲女「それならば、鶏既に鳴いて忠臣晨を待つ{*3}。あしたとは開場時。貝の酢和へに鶏冠海苔ばし参つたか。
▲シテ「その様な物でもおりない。
▲女「白飯山の上にはりやうばうの雲棚引き、御酒海の底には納豆の砂を敷く。白飯とは白いお台の事。りやうばうのお和へで白い飯ばし参つたか。
▲シテ「こゝな者は。朝夕喰ふ飯を忘るゝといふ事があるものか。
▲女「御酒海とは良い酒の事。納豆を肴にして、良い酒ばし喰らうたか。
▲シテ「何ぢや。喰らうたか。
▲女「中々。
▲シテ「やい。こゝな者。
▲女「何事でござる。
▲シテ「藁で束ねても男は男ぢやに。夫に向かうて、喰らうたかと云ふ事があるものか。
▲女「でも、こなたの様に、喰うた物を忘るゝといふ事があるものでござるか。
▲シテ「おのれ憎い奴の。総別、この間甘やかいて置けば、方領もない。おのれ、散々に打擲してやらう。憎い奴の、憎い奴の、憎い奴の。
▲女「あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。扨も扨も、痛い事かな。余りの堪へがたさに手で受けたれば、この手をしたゝかに打たれた。誠に、紫塵のものうき蕨、人手をにぎる{*4}と申すが、この事でござらう。あゝ痛、あゝ痛、あゝ痛。
▲シテ「いや。なうなう。今そなたは何と云うたぞ。
▲女「妾は知りませぬ。
▲シテ「その様にすねた事を云はずとも、今のを云うて聞かさしめ。
▲女「紫塵の嫩き蕨人手を拳る{*5}と云ふ事よ。
▲シテ「をゝ。その蕨餅であつた。
▲女「何ぢや。蕨餅ぢやと仰せらるゝか。
▲シテ「中々。
▲女「それならば、わらはが拵へ様をよう覚えて居りまする程に、拵へて進じませう。こちへござれござれ。
▲シテ「心得た、心得た。

校訂者注
 1:底本は、「池凍東頭風渡解。窓梅北面雪封寒。」。(但しふりがながある)。
 2:底本は、「気霽風梳新柳髪。氷消浪洗旧苔鬚。」(但しふりがなと返り点がある)。
 3:底本は、「鶏既鳴忠臣待且。」(但しふりがながある)。
 4・5:底本は、「紫塵嫩蕨人拳手。」(但しふりがなと返り点がある)。

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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