『能狂言』中74 聟女狂言 みづかけむこ
▲舅「これは、この辺りに住居致す耕作人でござる。当年は豊年とは申しながら、某が田は殊の外よう出来て、この様な悦ばしい事はござらぬ。さりながら、うち続いての日照りでござるによつて、田に水がなうて迷惑致す。今日も見舞はうと存ずる。誠に、当年程良う作り済まいた事はござらぬ。この上にひと雨降つたならば、殊の外楽になる事でござる。いや。来る程に、某が田ぢや。扨も扨も、よう出来た事かな。これはいかな事。田に水が少しもない。見れば、隣の田には水がなみなみとある。こちの水を取つたものであらう。憎い事ぢや。さらば、こちへ取らう。ゑい。がはがはがは。ゑい。がはがはがは。
さればこそ、水が来るわ来るわ。もはや、一面に行き渡つた。又、水口を止めて置かう。ゑいゑいゑい。これで一段と良い。又、明日見舞はうと存ずる。
▲シテ「これは、この辺りに住居致す耕作人でござる。当年は豊年とは申せども、取り分け某が田は、畦を限つて良う出来て、この様な満足な事はござらぬ。さりながら、うち続いての日照りでござるによつて、田に水がなうて迷惑致す。今日も見舞はうと存ずる。誠に、耕作と申すものは、忙しいものでござつて、毎日毎日見舞ひに参らねばならぬ事でござる。いや。何かと申す内に、田へ参つた。これはいかな事。田に少しも水がない。これは苦々しい事ぢや。昨日まで夥しうあつた水ぢやが、合点の行かぬ。見れば、隣の田には、水がなみなみとある。定めてあちへ取つたものであらう。扨々、憎い事でござる。隣の田は、則ち身共が舅の田でござるが。某が田に水がなくば、ともどもに掛けてくれられうを、大人気なう、こちの水をあちへ取るといふは、近頃腹の立つ事でござる。こちの田へ取らうと存ずる。ゑいゑい。がはがはがは。ゑいゑい。がはがはがは。
扨も扨も、来るわ来るわ。気味の良い事ぢや。見て居る内に、水が行き渡つた。大方良さゝうな。さらば、みなくちを止めう。ゑいゑい。やつとな、やつとな。一段と良うござる。又、明日も見舞はうと存ずる。
▲舅「昨日、田へ見舞うてござれば、水がござらぬによつて、水を掛けてござる。又、今日も見舞ひに参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、うち続いての日照りでござるによつて、いづ方にも水がござらぬ程に、少しも油断のならぬ事でござる。いや。参る程に、身共が田ぢや。これはいかな事。昨日沢山に掛けて置いた水が、又、一水もない。定めて隣の田へ取つたものであらう。良い良い。又、こちへ取らう。ゑいゑい。がはがはがは。ゑいゑい。がはがはがは。
さればこそ、皆こちの田へ水が参つた。さらば、水口を止めう。ゑいゑい。やつとな。一段と良い。今日は、この辺りに番を致いて居らうと存ずる。
▲シテ「昨日、田へ見舞うてござれば、水が少しもござらぬによつて、随分沢山に水を掛けてはござれども、うち続いての日照りでござれば、心元なうござるによつて、又、今日も見舞ひに参らうと存ずる。まづ急いで参らう。誠に、只今が一大事の時分でござる。段々生ひ立つ時分には、少々水がなうても、田が痩せまするによつて、随分精を出す事でござる。いや。参る程にこれぢや。これはいかな事。昨日なみなみと掛けて置いた水が、少しもない。合点の行かぬ事ぢや。定めて隣へ取つたものであらう。又、こちへ取らずばなるまい。
▲舅「いや。聟殿。御出やつたか。
▲シテ「いゑ。舅殿。出させられてござるか。
▲舅「この間はうち続いての日照りで、田に水がなうて迷惑致す事でおりやる。
▲シテ「仰せらるゝ通り、日照りが続きまする処で、田に水がなうて骨が折れまする。《と云ひながら、水口をあくる》
▲舅「あゝ。これこれ。そなたはむさとした人ぢや。某が田へ水を掛けて置くと、その儘水がなくなる程に、合点の行かぬ事ぢやと思へば、和御料が取ると見えた。これは、某が田の水ぢやによつて、やる事はならぬぞ。
▲シテ「これはいかな事。こなたこそ、むさとした事を仰せらるゝ。私の田へ水を掛けて置けば、その儘こなたの田へ取らせらるゝ。その様な事があるものでござるか。元が某の田の水でござるによつて、こちへ取らねばなりませぬ。
▲舅「まだその様な事を仰しやる。某が田に水がなくば、ともども掛けてくれう筈を、こちの田の水を取るといふ事があるものでおりやるか。やる事はならぬ。
▲シテ「左様に仰せらるゝならば、私もこなたの為には聟ではござらぬか。聟は子も同じ事でござるによつて、こちの田に水がなくば、こなたこそ、ともども掛けて下されうを、大人気なう某が田の水を取らせらるゝといふ事があるものでござるぞ。どうあつても取らねばなりませぬ。
▲舅「いやいや。何程云うても、やる事はならぬ。
▲シテ「元がこちの田の水ぢやによつて、取らねばなりませぬ。
▲舅「やい。そこな者。
▲シテ「何事でござる。
▲舅「おのれ憎い奴の。なぜに、某が顔へ水を掛けたぞ。
▲シテ「いや。これは怪我で掛けました。許いて下されい。
▲舅「何ぢや。怪我で掛けた。
▲シテ「中々。
▲舅「怪我で掛けて良くば、某も掛けてやらう。
▲シテ「なう。そこな人。
▲舅「何事ぢや。
▲シテ「こなたはなぜに、わざわざ水を掛けさせられた。
▲舅「某も怪我で掛けた。堪忍をおしやれ。
▲シテ「某は誠の怪我で掛けましたが、こなたはわざわざ掛けさせられた。掛けて良くば、身共も掛けう。
▲舅「これこれ。そなたはわざわざ掛けたの。
▲シテ「こなたのわざわざ掛けさせられたによつて、某も掛けました。
▲舅「舅の顔へ、この様に水を掛くるといふ事があるものか。又、身共も掛けてやらう。
▲シテ「某も負くる事ではない。
▲両人「やつとな、やつとな。
▲シテ「これはいかな事。この様に水を掛けて良いものか。いや。思ひ出いた。仕様がある。この泥を塗つてやらう。
▲舅「やい。そこな奴。某が顔へ泥を塗り居つたな。身共も負くる事ではない。塗つてやらう。
▲シテ「もはや堪忍ならぬ。
▲両人「やあやあやあ。《と云うて、組み合ひて居る。女、聞き付けて》
▲女「やあやあ。それは誠か。真実か。扨々、苦々しい事ぢや。どこ元に居らるゝ事ぢや知らぬ。
申し申し。これはまづ、何とした事でござる。何とぞ堪忍をして下されい。
▲シテ「女共。良い処へ来た。舅殿の足を取れ。
▲女「心得ました。《これより「庖丁聟」の如く云うて、舅を打ち倒いて入るなり。舅、追ひ込む》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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