『能狂言』中75 聟女狂言 ひつしきむこ
《舅、名乗り、その他、同前》
▲シテ「これは、人のいとしがる花聟でござる。今日は最上吉日でござるによつて、聟入を致す。それにつき、こゝにお目を掛けさせらるゝお方がござるによつて、これへ参り、吹聴致いて、それよりすぐに聟入致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、かねてお目を掛けさせらるゝお方でござるによつて、今日参らずば、後で𠮟らせられう程に、あれへ参つて吹聴致す。この由聞かせられたならば、さぞ悦ばるゝでござらう。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く、あしらひて》
私でござる。
▲教へ手「扨、そなたは殊の外きらびやかな体ぢやが、どれへ行くぞ。
▲シテ「何と、きらびやかに見えまするか。
▲教手「殊の外、きらびやかな事ぢや。
▲シテ「とてもの事に、念を入れて見て下されい。
▲教手「前から見ても後ろから見ても、某がゝたへ来始まつてない、きらびやかなていぢや。
▲シテ「きらびやかなゝりこそ道理なれ。今日は最上吉日で、聟入を致しまする。こなたはかねて、お目を掛けさせらるゝお事でござるによつて、ご吹聴に参りました。
▲教手「やれやれ。それはめでたい事ぢや。疾う聞いたならば、何なりとも似合ふ用を聞いておまさうものを。
▲シテ「近頃、忝うござる。方々とご無心を申して、これ程までには出で立つてござる。
▲教手「それは一段の事ぢや。扨、そなたは宿へ戻つて行くか。これからすぐに行くか。
▲シテ「これからすぐに行きまする。
▲教手「見れば、上下のかみばかりで、しもがないが、何とするぞ。
▲シテ「はあ。私は、これで良いと存じてござるが、見ますれば、こなたのは上下でござるが、私のは下に足りませぬ。何とぞ貸して下されい。
▲教手「易い事。貸してやらう。まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「やいやい。かみしもの下を出せ。ぢやあ。扨々、気の毒な事ぢや。
なうなう。近頃、気の毒な事がある。
▲シテ「それは、いかやうの事でござる。
▲教手「今問うたれば、皆よそへ貸して、上はあれども下はないと云ふわ。
▲シテ「扨々、それは苦々しい事でござる。それならば、こなたの着てござる下を貸して下されい。
▲貸手「某も、今日は外へ振舞ひに行くによつて、貸す事はならぬ。
▲シテ「それは是非もない事でござる。何と、この分では行かれますまいか。
▲教手「何と、その体で行かるゝものぢや。
▲シテ「それは苦々しい事でござる。こなた、何とぞ良い様に分別をなされて下されい。
▲教手「扨々、気の毒な事ぢや。疾う聞いたならば、いかやうにもしておまさうが、これは差し掛かつた事ぢやによつて、某も分別にあたはぬが。何として良からうぞ。
▲シテ「されば、何と致いて良うござらうぞ。
▲教手「良い良い。身共が、上を下に着せないてやらう。それに待たしめ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「さあさあ。これへ寄らしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲教手「これへ足を入れさしめ。
▲シテ「心得ました。《飛び込む》
▲教手「これはいかな事。その様に飛び込むものではおりない。左から片足づゝ、静かに入れさしめ。
▲シテ「畏つてござる。《左より片足づゝ入れて》
▲教手「さあさあ。そちらを向かしめ。
▲シテ「心得ました。あれへ参つたならば、引出物があまたござらう程に、持つて参つてひけらかしませう。
▲教手「をゝ。待つぞ。
▲シテ「何と、良うござるか。
▲教手「一段と良うおりやる。
▲シテ「誠に、まんまと下になりました。さりながら、こなたのは、横目が縦にござるが、私のは横にある分の事でござる。
▲教手「その分の事は、苦しうあるまい。
▲シテ「それならば、かう参りませう。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、才覚な人でござる。まんまと上を下に着せないてくれられた。急いで参らう。これはいかな事。はて、合点の行かぬ。人が笑ふが、何とした知らぬ。これはいかな事。笑ふこそ道理なれ。身共が後ろには、尾が下がつて居る。これでは行かれまい。直いて貰はう。
申し。ござるか。ござりまするか。
▲教手「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲教手「和御料は、まだ行かぬか。
▲シテ「只今、途中まで出ましてござれば、人が笑ひまするによつて、後ろを見てござれば、尾が下がつて居りまする。何とぞ直いて下されい。
▲教手「どれどれ。誠に見苦しい。何としたものであらうぞ。いや。良い事を思ひ出いた。それに待たしめ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「これこれ。この引つ敷きを付けてやらう。
▲シテ「これは一段と良うござりませう。
▲教手「下におりやれ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「前で紐を結ばしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲教手「さらば、立つて見さしめ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「をゝ。それで一段と良うおりやる。さりながら、あれへおりやつたならば、定めて引つ敷きを取れと云ふであらうが、今日は野駈けからすぐに参つたと云うて、必ず取らしますな。
▲シテ「お気遣ひなさるゝな。取る事ではござらぬ。扨、もう、かう参りまする。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。後ろの見えぬ様に、引つ敷きを当てゝくれられた。まづ急いで参らう。今日は、ようこそあれへ立ち寄つてござる。もし寄らずに参つたならば、恥をかく処でござつた。定めて舅は待つて居らるゝでござらう。いや。参る程にこれぢや。案内を乞はう。
《常の如く、太郎冠者出て、通りて挨拶をするまでは、「岡太夫」など同断》
▲冠者「申し申し。聟殿は、引つ敷きを付けて御出なされまする。
▲舅「何ぢや。引つ敷きを付けてござる。
▲冠者「中々。
▲舅「それならば、取つて進ぜい。
▲シテ「いや。申し申し。今日は野駈けからすぐに参りましたによつて、それ故付けて居りまする。必ず構はせらるゝな。
▲舅「野駈けは野駈け。こゝは座敷でござる。御窮屈にござらう。太郎冠者。取つて進ぜい。
▲冠者「私が取つて上げませう。
▲シテ「それならば、身共が取らう。
▲舅「太郎冠者に取らせられい。
▲シテ「いやいや。私が取りませう。《太鼓座にて取つて、横になつて出る》
はあ。取りましてござる。
▲舅「それで、一段と良うござる。太郎冠者。御盃を出せ。
▲冠者「畏つてござる。
《これより、盃事の内は、「岡太夫」など同断》
▲舅「もはや、参りませぬか。
▲シテ「もうたべますまい。
▲舅「それならば、御盃は取れ。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「扨、この所の大法でござるによつて、ひとさし舞はせられい。
▲シテ「ご大法は、さる事でござれども、私はつゝと不調法にござる。許させられい。
▲舅「その分は苦しうござらぬ。大法の事でござるによつて、平にひとさし舞はせられい。
▲シテ「それならば、畏つてござる。《謡》
めでたかりける時とかや。《下に居て舞ふ》
はあ。舞ひましてござる。
▲舅「なぜに、立つて左右へ廻つて舞はせられぬぞ。
▲シテ「今日は、立つて左右へ廻られぬ事がござる。
▲舅「それは、いかやうな事でござる。
▲シテ「右にも左にも、さす神がござる。
▲舅「これはいかな事。舞にさすがみがいるものでござるぞ。平に、立つて左右へ廻つて舞はせられい。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。《謡》
祝ふ心は万歳楽。《立つて舞ひ、舅と太郎冠者の顔を篤と見て、大臣柱を扇にて指す。それを見る内に廻りて、左右して留める》
はあ。立つて左右へ廻りましてござる。
▲舅「いやいや。太郎冠者。廻りはなされぬな。
▲冠者「いや。廻りはなされませぬ。
▲シテ「今の程、廻りましてござるが、こなたも太郎冠者も、よそ見をして見させられぬものでござらう。
▲舅「それならば、今度はめでたう相舞に致しませう。
▲シテ「ともかくもでござる。
▲両人「《謡》悦びに、又悦びを重ねつゝ。《相舞に立つて舞ひ、廻る処を、太郎冠者、後ろを見付けて》
▲冠者「あゝ。申し。聟殿の後ろには、尾が下がつて居りまする。
▲舅「誠に、尾が下がつて居る。
▲シテ「あゝ。面目もござらぬ。許させられい、許させられい。
▲舅「申し申し。どちへござるぞ。苦しうない事でござる。太郎冠者。急いで聟殿を止めい。
▲両人「どれへござるぞ。やるまいぞやるまいぞ。
《後から、「笑へ笑へ」と云うて、両人して笑うても入る》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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