『能狂言』中76 聟女狂言 にはとりむこ

《舅、出て名乗り、その他、前に同じ。聟、名乗り、道行、その他、「仕付け様体を習はう」までは、諸事「音曲聟」同断》
▲教へ手「和御料は、聟入をすれば、分別までが上がつた。まづ、舅の門外へ行て、鶏の蹴合ふ真似をする。扨、舅と対面の時も、鶏の蹴合ふ真似をする。これを、当世様の鶏聟と申す。
▲シテ「その分の事でござるか。
▲教手「中々。この分の事でおりやる。
▲シテ「大方覚えました。扨、私はもはや、かう参りませう。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「これこれ。まづお待ちやれ。そなたの烏帽子はとさかに似ぬ。こゝに鳥冠に似た烏帽子がある。貸しておまさう程に、それに待たしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲教手「これこれ。まづ下におりやれ。
▲シテ「心得ました。
▲教手「これを着せておまさう。
▲シテ「これは忝うござる。あれへ参つたならば、定めて引出物があまたござらう程に、持つて参つて、ちとひけらかしませう。
▲教手「をゝ。必ず待ちまするぞ。
▲シテ「何と、良うござるか。
▲教手「一段と良うおりある。
▲シテ「それならば、もう、かう参りませう。
▲教手「もはや、おりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲教手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
なうなう、嬉しや嬉しや。まんまと仕付け様体を習ひ、烏帽子までを貸して下されてござる。まづ急いで参らう。誠に、問ふは当座の恥、問はぬは末代の恥と申すが、問はいで参つたならば、定めて恥をかくでござらう。いや。参る程にこれぢや。さらば、教への通りを致さう。
《扇子を開き、「かうかうかう、こきやつかうかうかう」と云うて、蹴合ふ真似をする》
▲冠者「いや。殊の外、表がくわくわらめくが、何事ぢや知らぬ。いゑ。こなたはどなたでござる。
▲シテ「最上吉日で、聟が参つたと仰しやれ。
▲冠者「扨は、聟殿でござるか。
▲シテ「中々。
▲冠者「その通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲シテ「心得た。
《常の如く、「こなたは御先走りでござらう」も云うて、「扨、かう通らせられい」と云ふ時》
汝は、これの太郎冠者か。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「今日はめでたいなあ。
▲冠者「はあ。
▲シテ「《謡》聟は舅の家に行き。
▲地「《謡》聟は舅の家に行き、御座敷までは歴々なりとて、掛かりの際にぞ立つたりける、掛かりのきはにぞ立つたりける。《又、蹴合ふ真似をする。舅、見て笑うて》
▲舅「やいやい。太郎冠者。あれは、何とした事ぢや。
▲冠者「最前、御門外でもあの通りなされてござる。
▲舅「聟殿は、またうどぢやと聞いたが、定めて誰そ、なぶつておこされたものであらう。さりながら、某もあの通りせずば、舅は物知らずぢやと云はれうが。あの様な烏帽子があるか。
▲冠者「中々。ござりまする。
▲舅「それならば、着せてくれい。
▲冠者「畏つてござる。これへ寄らせられい。
▲舅「心得た。扨、引出物は、某が出せと云ふまでは出すな。
▲冠者「心得ました。
▲舅「何と、良いか。
▲冠者「一段と良うござる。
▲舅「次の者に、笑ふなと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「汝も笑ふまいぞ。
▲冠者「心得ました。
▲舅「《謡》舅はこれを見るよりも。
▲地「《謡》舅はこれを見るよりも、聟のしつけに劣らじと、広縁よりも跳んで下り、羽叩きをしてこそ立つたりけれ。
《又、蹴合うて、左右へ三度跳び違うて》
▲シテ「《謡》元より所も掛かりなれば。
▲地「《謡》柳桜を追ひ廻し、松は元より常盤なれば、紅葉にまがふ鳥冠蹴られて叶はじと、舅は内に入りければ、聟は聟入し済まして、勝ち鬨作つて帰りけり。
《正面へ出て、「かうかうかうかう、こきやあろうくう」と云うて入る》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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