『能狂言』中78 聟女狂言 ふなわたしむこ
《初め、舅出て、常の如く云ひ付けて、座着》
▲シテ「これは、人のいとしがる花聟でござる。今日は最上吉日でござるによつて、聟入を致す。まづ急いで参らう。誠に、今日は祝儀の事でござるによつて、さゝえを持つて参る。誰そ雇うて持たせて参らうとは存じてござれども、某が人を使はぬ事は、舅も知つて居らるゝ処で、苦しうない事でござる。いや。参る程に、渡しへ参つた。いつもこの辺りに乗る物があるが、今日は見えぬ。さればこそ、つゝとあれに見ゆる。急いで呼ばう。
ほをゝい、ほをゝい。
▲船頭「《聞き付けて》いや。乗り手があると見えた。
ほをゝい、ほをゝい。
《互に「ほをゝい、ほをゝい」と云うて》
▲シテ「船頭殿。ご大儀でござる。
▲船頭「こなたでござるか。
▲シテ「中々。
▲船頭「早う舟に乗らせられい。
▲シテ「心得ました。きつと差し留めて下されい。
▲船頭「何が扨、差し留めて居まする。早う乗らせられい。
▲シテ「心得ました。やつとな。
▲船頭「扨、舟を出しまするが、何も御用はござらぬか。
▲シテ「いやいや。もはや用はござらぬ。早う出いて下されい。
▲船頭「心得ました。ゑいゑいゑい。
扨、こなたはどれへござるぞ。
▲シテ「向かひの在所へ参る。
▲船頭「扨、その持たせられたは、竹筒でござるか。
▲シテ「中々。その通りでござる。
▲船頭「見ますれば、中々自身が持たせられうお方とは見えませぬが。何として持たせられてござるぞ。
▲シテ「さればその事でござる。人もあまたござれども、今日は方々へ差し遣うてござる。その上、留守をも申し付けてござるによつて、それ故自身、樽を持つてござる。
▲船頭「さう見えました。すれば、今日はご遊山でござるか。
▲シテ「いやいや。今日は心安い所へ祝儀に持つて参る。
▲船頭「左様ならば、さゝえもさぞ御念が入りましたでござらう。
▲シテ「いかにも、念を入れて詰めさせてござる。
▲船頭「扨、今日は、何と寒い事ではござらぬか。
▲シテ「誠に、この間にない寒い事でござる。
▲船頭「こなたには、定めて出がけに一つ参つたでござらう。
▲シテ「中々。参りざまに一つ呑うでござるが、今日の寒さ故、はや醒めましてござる。
▲船頭「左様でござらう。私などは、御酒もたべずに今朝からこれへ出て居て、ひとしほ寒う覚えまする。
▲シテ「定めて左様でござらう。
▲船頭「はあ。扨、近頃申し兼ねましてござれども、何と、そのさゝえをたゞ一つ振舞うて下されまいか。
▲シテ「易い事ではござれども、最前も申す通り、祝儀に持つて参る事でござるによつて、口は切られませぬ。許いて下されい。
▲船頭「御尤ではござれども、祝儀に持つて御出なさるゝならば、早速口も切られますまい。その上、一つやなど振舞はせられたと申しても、苦しうない事でござる。何とぞ只一盃、呑ませて下されい。
▲シテ「いやいや。只今も申す通りでござるによつて、何程に仰せられても、振舞ふ事はなりませぬ。
▲船頭「むゝ。すれば、何程に申しても、なりませぬか。
▲シテ「中々。
▲船頭「それならば、是非もござらぬ。某も今朝からこれへ出て、殊の外寒うて、手が凍えて櫓が押されぬ。舟が流れうと儘よ。さらば、休まう。
▲シテ「あゝ。申し申し。船頭殿。舟が流れまする。何とぞ留めて下されい。
▲船頭「いやいや。身共は酒は呑めず、手が凍えて、中々櫓が押されぬ。
▲シテ「あゝ。それならば、一つ振舞ひませう程に、舟を留めて下されい。
▲船頭「何ぢや。呑まさう。
▲シテ「中々。
▲船頭「誠か。
▲シテ「誠でござる。
▲船頭「一定か。
▲シテ「真実でござる。
▲船頭「ゑい。それならば、留めておまさう。やつとな。
さらば、振舞はしめ。
▲シテ「あゝ。これは迷惑でござるが。それならば、只一つでござるぞや。
▲船頭「中々。一つでござる。
▲シテ「さらば、参れ。
▲船頭「心得ました。をゝ。恰度ござる。
▲シテ「誠に、ちやうどござる。扨、その風味は何とでござるぞ。
▲船頭「風味の。
▲シテ「中々。
▲船頭「今朝からたべたいたべたいと存ずる処へ、つゝかけてたべたによつて、中々風味は知れませぬ。何とぞ今一つ振舞うて、風味を覚えさせて下されい。
▲シテ「最前も申す通り、只一つの約束でござるによつて、もはやなりませぬ。
▲船頭「いや。申し。この寒さが、何と只一つばかりで温たまるものでござるぞ。今一つ振舞はせられねば、中々櫓が押さるゝ事ではござらぬ。
▲シテ「扨々、これは迷惑な事かな。それならば、今一つ参れ。
▲船頭「これは忝うござる。
▲シテ「何とでござる。
▲船頭「扨も扨も、良い酒かな。この様な良い酒は、つひにたべた事がござらぬ。何と、こなたも一つ参らぬか。
▲シテ「いかさま。こなたの参るを見ましたれば、頻りに羨ましうなりました。某も一つたべませうか。
▲船頭「それが良うござらう。私が酌を致しませう。
▲シテ「これは慮外にござる。恰度ござる。
▲船頭「誠に、恰度ござる。扨、何とでござるぞ。
▲シテ「仰せらるゝ通り、一つばかりでは風味も知れず、温たまりも致さぬ。今一つたべませう。
▲船頭「それが良うござらう。
▲シテ「あゝ。又、恰度ござる。
▲船頭「恰度ござる。何とでござるぞ。
▲シテ「やうやうこれで、風味も知れまする。ちと温たかになつた様にござる。とてもの事に、今一つ参らぬか。
▲船頭「それは、尚々でござる。
▲シテ「又、私が酌を致さう。
▲船頭「度々慮外でござる。ちと謡はせられぬか。
▲シテ「謡ひませう。《小謡》
▲船頭「やんやゝんや。
▲シテ「これは、上々の舟遊山になりました。
▲船頭「その通りでござる。又、こなたへ進じませう。
▲シテ「頂きませう。《船頭、酌して、小謡》
▲船頭「扨も扨も、はや最前の寒さを忘れました。
▲シテ「殊の外、温たかになりました。又、進じませう。
▲船頭「頂きませう。
《シテ、小謡》
▲船頭「扨、一つ受け持つてござる。ひとさし舞はせられい。
▲シテ「何と、この舟の内で舞はるゝものでござるぞ。許させられい。
▲船頭「いやいや。この狭い処が面白うござる。平に舞はせられい。
▲シテ「それならば、舞ひませう。謡うて下されい{*1}。
▲船頭「心得ました。
《「宇治のさらし」を舞うて》
やんやゝんや。お骨折りに、こなたへ進じませう。
▲シテ「頂きませう。
《船頭、小謡》
扨々、これは、存じの外、良い舟遊山でござる。
▲船頭「左様でござる。こなたは舟がお好きならば、なんどきなりとも御出なされい。方々を漕ぎ廻つて、遊山をさせませう。
▲シテ「それは忝うござる。又、進じませう。
▲船頭「頂きませう。
《どぶどぶ。ちよろちよろちよろ。》
▲シテ「もはや、皆になりました。
▲船頭「やあやあ。皆になりましたか。
▲シテ「中々。
▲船頭「扨々、それは、気の毒な事を致いてござる。
▲シテ「いやいや。苦しうござらぬ。今日参る先は、心安い所でござるによつて、少しも苦しうない事でござる。
▲船頭「それならば良うござる。さらば、舟を出しませう。
▲シテ「それが良うござらう。
▲船頭「ちと謡ひもつて参らう。《謡》
寄せよ寄せよ磯際の、粟津に早く着きにけり。
いや。舟が着きました。上がらせられい。
▲シテ「心得ました。やつとな。船頭殿。ご大儀でござる。
▲船頭「今日は御馳走で、あたゝまつて忝うござる。又、戻りにも乗らせられい。
▲シテ「心得ました。
▲船頭「ようござつた。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。船頭がかれこれ申したによつて、振舞うてござれば、皆に致いた。さりながら、参らずばなるまい。まづ急いで参らう。誠に、持つて参つても、その儘開きも召されまい程に、苦しうもござるまい。舅殿は、さぞ待ち兼ねて居らるゝであらう。いや。参る程に、これぢや。さらば、案内を乞はう。
《常の如く云ふ。舅も同断。但し、「お先走り」は云はぬが良し》
▲冠者「かう通らせられいと申しまする。
▲シテ「通らうか。
▲冠者「つゝと通らせられい。
▲シテ「そちは、内の太郎冠者か。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「今日はめでたいなあ。
▲冠者「はあ。
▲シテ「扨、これを良い時分に披露してくれい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「不案内にござる。
▲舅「初対面でござる。
▲シテ「早々参らうずるを、私のぶいんの段は、おごうに免ぜられて下されい。
▲舅「内々待ちまする処に、今日の御出、祝着致しまする。
▲シテ「はあ。
▲冠者「申し。これは、聟殿のお持たせでござる。
▲舅「これは、いらぬ事をなされてござる。
▲シテ「今日参りまする祝儀ばかりでござる。
▲舅「近頃、忝う存じまする。
太郎冠者。お盃を出いて、めでたうお持たせを開け。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「あゝ。申し申し。あれは、中々召し上がらるゝ様な御酒ではござらぬ。やはり、こなたの御酒をたべませう。
▲舅「いやいや。折角お持たせでござるによつて、めでたう開け。
▲舅「太郎冠者。平に無用にせい。
これはいかな事。あゝ。苦々しい事ぢや。
▲冠者「これは、殊の外軽いが。合点の行かぬ事ぢや。いや。これは空き樽ぢや。
いや。申し申し。
▲舅「何事ぢや。
▲冠者「お持たせには、何もござらぬ。
▲舅「何ぢや。空き樽ぢや。
▲冠者「中々。
▲舅「なう。そこな人。祝儀に空き樽を持つて来るといふ事があるものか。
▲シテ「いや。申し申し。何しに空き樽を持つて参るものでござる。随分念を入れて、なみなみと詰めさせてござるが。定めて太郎冠者があくる時、こぼいたものでござらう。
▲冠者「いやいや。私はこぼしは致しませぬ。
▲シテ「それならば、こなたが参つたものでござらう。
▲舅「何しに身共が呑むものぢや。定めて路次で、そなたが呑うだものであらう。
▲シテ「いや。私はたべは致さぬが。それならば、太郎冠者が呑うだものでござらう。
▲冠者「いやいや。私はたべは致しませぬ。初めからこの通りの空き樽でござる。《と云うて、腰桶をこかして出す》
▲シテ「あゝ。面目もござらぬ。
▲舅「あの横着者。どれへ行くぞ。
▲両人「やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「許させられい、許させられい。
《この仕方よりは、太郎冠者、樽を持つて一の松にて振つて見て、「これは、いかう軽いが」と云うて、篤と見て、「これは空き樽ぢや。扨々、気の毒な事ぢやが。何とせうぞ」と云うて、云ひ兼ねて居る。舅、「早う開け」と催促する。聟は「やはり、こなたの御酒が良うござる」と云ふ。舅、聞き入れずに、「早う開け」と云はれて、太郎冠者、迷惑さうに、「これは物でござる」。舅、「何ぢや」と云うて、詰められて、「この様な空き樽でござる」と云うて、こかして出すを、聟、見て、「近頃面目もござらぬ」と云うて、逃げて入る。舅、「苦しうない事でござる」と云うて、両人して、「どれへござるぞ。太郎冠者、早う留めい」と云うて入る方、宜しかるべし》
校訂者注
1:底本は、「舞(マゝ)うて被下い」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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