『能狂言』中79 聟女狂言 ふたりばかま
《舅、出て名乗る。常の如く云ひ付けて、座着》
▲親「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、成人の伜を持つてござるが、舅の方から再々、聟入を致す様にと申して参れども、かれこれ致いて、未だ遣はしませぬ。今日は最上吉日でござるによつて、呼び出だいて聟入を致させうと存ずる。
なうなう。《名を云うて》誰はおりやるか。居さしますか。
▲シテ「いや。呼ばせらるゝさうな。
申し。呼ばせられまするか。
▲親「今の程、声をばかりに呼ぶに、どれに居たぞ。
▲シテ「表に子供と遊んで居りました。
▲親「これはいかな事。その年になつて、子供と遊ぶといふ事があるものか。今日は最上吉日ぢやとあつて、舅殿の方から、聟入をせいと云うて来た程に、身拵へをして早う行かしめ。
▲シテ「私は恥づかしうて、嫌でござる。
▲親「恥づかしいと云うて、いつがいつまで行かずに居らるゝものぢや。どうあつても、今日は是非とも行かしめ。
▲シテ「それならば、欲しいものを下さるゝか。
▲親「をゝ。何なりとも欲しい物をやらうが、何が欲しいぞ。
▲シテ「弁慶の人形が欲しうござる。
▲親「その年になつても、まだむさとした事を仰しやる。さりながら、欲しくばやらうが、もうないか。
▲シテ「又、犬ころをも飼うて下されい。
▲親「中々。ゑのころも飼うてやらう程に、早う行かしめ。
▲シテ「さりながら、こなたも来て下さるゝか。
▲親「これはいかな事。そなたの聟入に、何と身共が行かるゝものぢや。
▲シテ「それならば、行く事はなりませぬ。
▲親「その儀ならば、誰ぞ人を雇うてやらう。
▲シテ「いやいや。他の者では不自由にござらうによつて、こなたのござらずば、参る事はなりませぬ。
▲親「扨々、それは苦々しい事ぢや。是非に及ばぬ。身共が門前まで連れて行てやらう程に、身拵へをさしめ。
▲シテ「それならば、参りませう。
▲親「さあさあ。これへ寄つて身拵へをさしめ。
▲シテ「畏つてござる。
▲親「この袴を腰へ着けて行かしめ。
▲シテ「心得ました。
▲親「何と、良いか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲親「扨、あれへ行たならば、必ず身共が来たといふ事を仰しやるな。
▲シテ「左様に申したならば、定めて舅殿の悦ばれませう。
▲親「いやいや。身共が来たと云うては悪しい程に、もし聞かれたならば、内の者ぢやと仰しやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲親「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲シテ「参りまする、参りまする。
▲親「扨、聟入などゝいふものは、人の見たがるものぢやによつて、定めて垣からも窓からも目ばかりであらう程に、臆せぬ様にさしめ。
▲シテ「何が扨、臆する事ではござらぬ。扨、程は遠うござるか。
▲親「今少しぢや。急がしめ。いや。来る程に、これでおりやる。
▲シテ「これでござるか。
▲親「中々。
▲シテ「こなたの内とは違うて、柱太な良い居なしでござる。
▲親「舅殿は勝手者ぢやによつて、住居も大きな。扨、某は案内を乞はう程に、そなたは袴を出いて着さしめ。
▲シテ「心得ました。
▲親「物申。案内申。
▲冠者「案内とは誰そ。どなたでござる。
▲親「最上吉日で、聟殿の参られてござる。
▲冠者「聟殿の御出なされてござるか。
▲親「中々。
▲冠者「その通り申しませう。まづ、それに待たせられい。
▲親「心得ました。
▲シテ「《この内に袴を解いて見て》扨々、これは長い袴ぢやが、何として着たものであらうぞ。
▲親「和御料はまだ袴を着ぬか。
▲シテ「何とぞ着せて下されい。
▲親「扨々、むさとした人ぢや。その年になつて、袴を着る事がならぬか。これへおこさしめ。
《この内に、太郎冠者、舅に、聟の来た事を云ふ》
▲舅「かう通らせられいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
申し申し。かう通らせられいと申しまする。
▲親「只今身拵へを致いて通られますると云うて下されい。
▲冠者「心得ました。《その通り云ふ》
▲舅「心得た。
▲親「さあさあ。これへ足を入れさしめ。
《跳び込む》
その様に跳び込むものではおりない。左から片足づゝ入れさしめ。
▲シテ「心得ました。
▲親「さあさあ。そちらを向かしめ。
▲シテ「畏つてござる。
《この内、舅より催促する。二三度も催促して良し》
▲冠者「申し申し。早う通らせられいと申しまする。
▲親「扨々、せはしない。追つ付け参ると仰しやれ。
▲冠者「畏つてござる。
《その通り云ふ。「扨々、手間の取るゝ事ぢやなあ」。「左様でござる」など云うて、又、催促する。やうやう袴を着て》
▲親「さあさあ。早う出さしめ。
▲シテ「心得ました。《少し出て、立ち戻り》
申し申し。こなたはそれに待つてござれ。
▲舅「心得た。
▲シテ「必ずどちへもござるな。
▲親「行く事ではおりない。
《聟、通りて》
▲シテ「不案内にござる。
▲舅「初対面でござる。
▲シテ「早々参りませうを、かれこれ致いて無音の段は、おごうに免ぜられて下されい。
▲舅「内々待ちまする処に、今日の御出、満足致しまする。
▲シテ「はあ。
▲冠者「いや。申し。親御様の御出なされてござる。
▲舅「何ぢや。親御様の御出なされた。
▲冠者「中々。
▲シテ「申し申し。あれは親共ではござらぬ。内の者でござる。
▲冠者「いやいや。私が良う覚えて居りまする。
▲舅「それならば、かう通らせられいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「いやいや。太郎冠者。あれは内の者ぢや。
▲冠者「いや。私が存じて居りまする。
▲舅「早う呼びまして来い。
▲シテ「それならば、私が呼うで参りませう。
▲舅「いやいや。太郎冠者を遣はしませう。
▲冠者「私が参りませう。
▲シテ「いやいや。身共が呼うで来る。
申し申し。
▲親「何事ぢや。
▲シテ「こなたに、あれへ出させられいと申されまする。
▲親「それ故、和御料に固く云うたに。なぜに来たと云うた。
▲シテ「私は申しませぬが、太郎冠者が見知つて居りました。
▲親「なぜに内の者ぢやと仰しやらぬ。
▲シテ「左様に申してござれども、太郎冠者が、良うこなたを見知つて居りましてござる。
▲親「扨々、これは苦々しい。それぢやによつて、身共が行くまいと云うたに。それならば、出ずばなるまいが、袴がない。その袴をおこさしめ。
▲冠者「これを進じまするか。
▲親「はて。それをおこさいで。何と、袴なしに出らるゝ。早う脱がしめ。
▲シテ「心得ました。
▲親「あゝ。扨々、迷惑な事かな。
《又、舅、催促する》
只今参ると仰しやれ。
▲冠者「心得ました。《その通り云ふ》
▲親「扨、某はあれへ出て挨拶をすると、その儘来る程に、その内どちへもおりやるな。
▲シテ「心得ました。
▲親「不案内にござる。
▲舅「初対面でござる。
▲親「伜が御門を存じませぬによつて、御門外までついて参りました処に、太郎冠者に見付けられて、面目もござらぬ。
▲舅「いやいや。苦しうない事でござる。いや。聟が見えぬ。
太郎冠者。呼びまして来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲親「いや。私が呼うで参りませう。
▲舅「いや。太郎冠者を遣はしませう。
▲冠者「私が参りませう。
▲親「いやいや。某が行て呼うで来る。
さあさあ。身共が挨拶は済んだ。又、そなたに出いと云はるゝ程に、あれへ御出やれ。
▲シテ「私は最前、挨拶は仕舞ひましたによつて、もはやづるには及びますまい。
▲親「これはいかな事。聟入ぢやによつて、そなた出いで、何とするものぢや。さあさあ。この袴を着て、早う出さしめ。
▲シテ「心得ました。
▲親「扨、又、某に出いと云はれたならば、もはや戻つたと云はしめ。
▲シテ「畏つてござるが、必ず戻らせらるゝな。
▲親「戻りはせぬ。これに待つて居るぞ。
▲シテ「心得ました。
又、出ましてござる。
▲舅「ようこそ出させられた。いや。親御様が見えぬ。
太郎冠者。呼びまして来い。
▲シテ「いや。親共は、もはや戻りました。
▲舅「それならば、太郎冠者。追つ付いて止めい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「あゝ。申し申し。それならば、私が呼うで参りませう。
▲舅「太郎冠者をやらせられい。
▲シテ「いや。私が呼うで参りませう。
▲冠者「私が参りませう。
▲シテ「いや。身共が呼うで来る。
申し申し。又、こなたに{*1}出させられいと申されまする。
▲親「なぜに戻つたと云はぬぞ。
▲シテ「左様に申してござれども、追つ付いて止めいと云はれまするによつて、又、こなた出させられい。
▲親「扨々、迷惑な事かな。是非に及ばぬ。又、その袴をおこさしめ。
▲シテ「心得ました。
《又、舅、催促する》
▲親「只今出ますると仰しやれ。
▲冠者「心得ました。
《その通り云ふ。又、親出て、「出ましてござる」と云ふ。舅、「又、聟殿が見えぬ。太郎冠者。呼びまして来い」と云ふ。親、「私が呼うで参りませう」と云うて、呼びに行く。袴脱ぐ処で、「お盃がなりませぬによつて、この度は御両人揃うて出させられい」と云ひ付くる》
▲冠者「申し申し。お盃がなりませぬによつて、御両人揃うて出させらるゝ様にと申しまする。
▲親「はあ。両人揃うて出まするか。
▲冠者「中々。
▲親「畏つたと仰しやれ。
▲冠者「心得ました。《その通り云ふ》
▲親「なうなう。今度は両人揃うて出いと云はるゝ。
▲シテ「左様でござる。
▲親「袴が一つぢやが、何としたものであらうぞ。
▲シテ「まづ、この袴は私が着ませう。
▲親「いやいや。身共も出ねばならぬ。こちへおこさしめ。
▲シテ「いや。こちへおこさせられい。
《と云うて、聟は前を持ち、親は後ろを{*2}持つて、引き合うて、引き裂く》
▲親「はあゝ。二つになつた。
▲シテ「誠に、二つになりました。
▲親「これで良い事がある。そなたはそれを前へ当てさしめ。身共はこの後ろを{*3}当てゝ出よう。
▲シテ「一段と良うござらう。これが正真のふたり袴でござる。
▲親「その通りでおりやる。
《この言葉の内、舅、又々二度も催促する。言葉は前に同じ》
さあさあ。あれへお出やれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲親「必ず、後ろを見られぬ様にさしめ。
▲シテ「心得ました。《横になつて出る》
はあ。この度は両人揃うて。
▲両人「出ましてござる。
▲舅「ようこそ揃はせられてござる。
太郎冠者。お盃を出せ。
▲冠者「畏つてござる。
《太郎冠者、腰桶の蓋を持ち、扇開きて出る。盃事は「庖丁聟」と同断》
▲舅「もはや参りませぬか。
▲親「もうたべますまい。
▲舅「こなたも参りませぬか。
▲シテ「私も、もはやたべますまい。
▲舅「それならば、太郎冠者。お盃を取れ。
▲冠者「畏つてござる。
《この内に、「こなたの悦ばせらるゝ事がござる」と云ふ言葉ありて》
▲舅「扨、この所の大法でござるによつて、ひとさし舞はせられい。
▲親「ご大法はさる事なれども、伜はつゝと不調法にござるによつて、これは御免なされい。
▲シテ「何とぞ許いて下されい。
▲舅「いやいや。その分は苦しうござらぬ。所の大法の事でござる程に、平に舞はせられい。
▲シテ「それならば、舞ひませう。
▲親「舞はうか。
▲シテ「中々。
《扇にて後ろを{*4}教ふるを、聟、見てうなづく》《謡》
めでたかりける時とかや。《聟、「引敷聟」の如く、下に居て舞ふ》
はあ。舞ひましてござる。
▲舅「一段と良うござる。さりながら、なぜに立つて左右へ廻らせられぬぞ。
▲シテ「いや。今日は、立つて左右へ廻りにくい事がござる。
▲舅「それは、なぜにでござる。
▲シテ「右にも左にも、さす神がござる。
▲舅「これはいかな事。舞にさすがみがいるものでござるか。ひらに、立つて左右へ廻らせられい。
▲シテ「それならば、畏つてござる。
▲親「これこれ。立つて舞はうか。
▲シテ「中々。舞ひまする。《又、扇子にて後ろを教ふる》
《謡》祝ふ心はまんざいらく。
《立つて舞ふ。「引敷聟」同断。大臣柱を指して、舅も太郎冠者も、それを見る内に廻るなり》
はあ。舞ひましてござる。
▲舅「なぜに廻らせられぬぞ。
▲シテ「今の程、廻りましたれども、こなたも太郎冠者も、よそ見をなされて、それ故見させられぬものでござらう。
▲舅「いや。太郎冠者。廻りはなされぬな。
▲冠者「いや。廻りはなされませぬ。
▲親「いやいや。只今廻りましてござる。
▲舅「それならば、めでたい事は三神相応と申しまするによつて、この度は、三人相舞に致しませう。
▲両人「ともかくもでござる。
▲三人「《謡》悦びに、又悦びを重ねつゝ。《三人相舞にして廻る処を、太郎冠者、見付けて》
▲冠者「あゝ。聟殿の後ろがござらぬ。はあ。親御様にも後ろがござらぬ。
▲舅「誠に、御両人ともに、後ろがない。
▲両人「あゝ。近頃面目もござらぬ。許させられい{*5}、許させられい。
▲舅「どれへござるぞ。苦しうない事でござる。太郎冠者。留めませい。
▲冠者「心得ました。申し申し。どれへ御出なさるゝぞ。苦しうない事でござる。
《「申し申し」と云うて、両人して云ひながら入る》
校訂者注
1:底本は、「こなた出させられい」。
2:底本は、「うしろ持て」。
3:底本は、「此うしろへ(マゝ)」。
4:底本は、「うしろをし〈へ〉ゆるを」。
5:底本は、「ゆるさせられられい」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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