『能狂言』中80 聟女狂言 さいのめ
▲舅「罷り出でたる者は、この辺りに住居致す大有徳な者でござる。某、娘をいち人持つてござるが、総じて我ら如きの者は、算勘に達せいではなりませぬによつて、何者によらず、算勘に達した者を聟に取らうと存ずる。まづ、この由を高札に打たう。《常の如く、シテ柱へ打つて》
一段と良うござる。さらば、太郎冠者を呼び出し、この由申し付けう。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。高札の表について、聟殿の見えたならば、こなたへ申せ。
▲冠者「畏つてござる。
▲舅「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲そら聟一「これは、この辺りに住居致す者でござる。承れば、山一つあなたに大有徳な人がござつて、何者にはよるまい、算勘に達した者を聟に取らうと、たかふだを打たれたと申す。某は、いかやうの難しい算なりとも置きまするによつて、あれへ参り、聟にならうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、聟にしてくるれば良うござるが。もし聟にしてくれぬ時は、参つた詮もない事でござる。参る程に、これに高札がある。この辺りから案内を乞はう。《常の如く》
▲冠者「誰そ。どなたでござる。
▲聟一「高札の表について、聟が参つたと仰しやれ。
▲冠者「扨は聟殿でござるか。
▲聟一「中々。
▲冠者「その通り申しませう。まづ、それに待たせられい。
▲聟一「心得た。
▲冠者「申し。聟殿の御出でござる。
▲舅「何ぢや。聟殿のわせた
▲冠者「中々。
▲舅「行て云はうは、高札の表には、算勘に達した者をと打ちましたが、こなたには算勘をなさりまするかと云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲聟一「高札の表について参るからは、いかやうの難しい算なりとも仰せ付けられい。置き済まいてお目に掛けうとおしやれ。
▲冠者「畏つてござる。
いや。申し申し。《右の通り云ふ》
▲舅「それならば、かう通らせられいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲聟一「通らうか。
▲冠者「つゝと通らせられい。
▲聟一「心得た。
不案内でござる。
▲舅「初対面でござる。扨、高札には、算勘に達したお方をと打ちましてござるが、こなたにはなされまするか。
▲聟一「何が扨、かやうに参りまする上は、いかやうの難しい算なりとも仰せ付けられい。置き済まいてお目に掛けう。
▲舅「それは、一段の事でござる。その儀ならば、早速申しませう。五百具の賽の目の数は、何程ござるぞ。云うて聞かせられい。
▲聟一「五百具の賽の目の数でござるか。
▲舅「中々。
▲聟一「扨々、これは難しい事を仰せ付けられた。只今申して聞かせませう。まづ、左の手の指が五本、右の手の指が五本、合はせて十本。又、足の左の指が五本、右の指が五本、都合廿本。五百具の賽の目でござらば、二千ばかりもござらうか。
▲舅「これはいかな事。その様な愚鈍な算では、中々聟には取られませぬ。早う戻らせられい。
▲聟一「違ひましたならば、置き直いてお目に掛けう。
▲舅「いやいや。その様な事ではなりませぬ。早う戻らせられい。
太郎冠者。早う戻せ。
▲冠者「さあさあ。早う戻らせられい。
▲聟一「太郎冠者。まづ待て。今一度置き直いて、まんまと置き済まいて見せう。
▲冠者「いやいや。その様な事ではなりませぬ。早う戻らせられい。
▲聟一「扨々、残念な。今度こそ置き済まいて見せうものを。
▲冠者「何と、その様な事でなるものでござるぞ。
▲そら聟二「これは、この辺りに住居致す者でござる。《初めの聟の如く云うて》まづそろりそろりと参らう。誠に、某が算勘の事を聞かれたならば、舅は悦うで聟に取らるゝであらう。聟にさへなつたならば、出よと云うてもづる事ではござらぬ。参る程に、これに高札がある。まづ、この辺りから案内を乞はう。
《初めの如く云うて、通りても同断》
《初めの如く云うて、通りても同断》
はあ。五百具の賽の目でござるの。
▲舅「中々。
▲聟二「これは、存じも寄らぬ事を仰せ付けられた。只今申しませう。まづ、一の裏が六、二の裏が五、三の裏が四。はあ。五百具ならば、都合で目の数が五千三百ござらう。
▲舅「これはいかな事。それでは違ひました。早う戻らせられい。
▲聟二「それならば、今一算致しませう。算木を貸して下されい。
▲舅「申し。こればかりの事に、算木がいりまするものか。その様な事ではなりませぬ。
太郎冠者。聟殿を往なせ。
▲冠者「畏つてござる。
さあさあ。早う戻らせられい。
▲聟二「扨々、是非に及ばぬ。それならば、戻らう。
▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。承れば、山一つあなたに大有徳な人がござつて、ひとり娘を持たれてござるが、何者にはよるまい、算勘に達した者を聟に取らうと、高札を打たれたと申す。それにつき、私は算勘においては、世上に誰恐い者もござらぬ。その上、承れば、かの娘は美人ぢやと申すによつて、あれへ参り、聟にならうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、世上に算勘に達した者もあまたござれども、某が算は日本は申すに及ばず、唐土南蛮までも、某に続く者はあるまいと存ずる。定めて、舅は悦うで聟に取らるゝでござらう。いや。参る程に、これに高札がある。この高札は某が引かう。この辺りから案内を乞はう。
《常の如く、前よりは、以前の聟の如く云うて通りて》
《常の如く、前よりは、以前の聟の如く云うて通りて》
▲舅「早速ながら申しませう。五百具の賽の目の数は、何程ござるぞ。云うて見させられい。
▲シテ「何と仰せらるゝ。五百具の賽の目の数を申せと仰せらるゝか。
▲舅「中々。
▲シテ「私は又、何ぞ難しい割り物でも仰せ付けらるゝかと存じてござれば、これは何より心安い事でござる。とてもの事に、拍子に掛かつて申しませう。
▲舅「一段と良うござらう。
▲シテ「《イロ》五百具の賽の目、五百具の賽の目。一、いち千に二、二千。三、三千に四、四千。合はすれば一万。五、五千に六、六千。合はすれば一万千。都合二万千なり。五百具の賽の目の数、やはか違ひ候ふまい。
▲舅「扨も扨も、こなたは殊の外の算者でござる。只今まで、高札の表について聟の見えましたれども、こなたの様に算勘に達した者はござらぬ。則ち、聟に取りませう。
▲シテ「それは忝うござる。
▲舅「扨、娘を連れて参つて、こなたに引き合はせませう程に、それに待たせられい。
▲シテ「心得ました。
《楽屋へ入り、姫にかつぎを着せて、連れて出、脇座へ直して》
申し申し。これが則ち、私の娘でござる。こなたとめ合はせまするによつて、千年も万年も仲良う添うて下されい。
▲シテ「その分はお気遣ひなさるゝな。随分仲良う致いて、この家の繁昌致す様に致しませう。
▲舅「扨、私もこなたを聟に取りまするからは、はや隠居致しまするによつて、財宝は申すに及ばず、家一跡、被官までをこなたに譲りまする程に、さう心得させられい。
▲シテ「それは近頃、忝うはござれども、私も只今これへ参つた事でござれば、諸事勝手も存ぜず、その上、御親類中ともお知る人になりませぬ程に、まづ今暫く、こなた持たせられて下されい。
▲舅「いやいや。勝手の事は、娘がよう存じて居りまする。これに問はせられるば、悉く知れまする。又、一門どもとは追々にお知る人に致しませう。その上、今日は日柄も良うござる程に、今日より万事、皆渡しまするぞ。
▲シテ「その儀ならば、ともかくもでござる。
▲舅「それは悦ばしうござる。又、後程ゆるりとお目に掛かりませう。
▲シテ「何が扨、後程お目に掛かりませう。
《舅、太郎冠者、引つ込む》
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと聟になり済まいた。その上、財宝は云ふに及ばず、家いつせき、被官までを譲られてござる。この様な満足な事はござらぬ。
いや。なうなう。誠に、不思議な事でそなたと夫婦になりました程に、これからは千年も万年も、仲良う添ひませうぞ。
《うなづく》
扨、知る人になりませう程に、そのかつぎを取らしめ。
《かぶりふる》
何ぢや。嫌ぢや。はあ。誠に、初対面の事ぢやによつて、恥づかしいは尤なれども、今舅殿の仰せらるゝは、勝手の様子もそなたがよう知つて居るによつて、そなたに聞けと仰せられた。諸事聞き合はせたい事もある程に、平にかつぎを取らしめ。
《又、かぶり振る》
何ぢや。嫌ぢや。と云うて、夫婦になつて、いつまで取らずに居らるゝものぢや。それならば、某が取つて進じよう。
《と云うて、かつぎを取つて顔を見て、肝を潰して脇へのき》
これはいかな事。これの娘は殊の外美人ぢやと申すによつて参つたれば、あれは散々の悪女でござる。いかに有徳ぢやと云うても、あの様な悪女に添ふ事は嫌でござるが。何とぞして戻りたいものぢやが。何としたものであらうぞ。
▲女「申し申し。こなた、それに何をしてござるぞ。まづこちへござりませい。
▲シテ「いや。某は宿元に大切の物を忘れて参つた。まづ行つて取つて参らう。
▲女「申し申し。忘れさせられた物があらば、人を云ひ付けて取りに遣りませう程に、まづ妾が側へ来て下されい。
▲シテ「いやいや。人を遣つては中々知るゝ事ではない。某が行て取つて参る程に、そこを放さしめ。
▲女「これはいかな事。今でなうても苦しうござるまい。まづ、わらはがそばへ来て下されいと申すに。
▲シテ「いやいや。手間を取る事ではない。只今取つて参る。是非ともそこを放いておくりやれ。
▲女「こなたがござるならば、妾も一緒に参りませう。
▲シテ「扨々、そなたは聞き分けのない。今取つて来ると云ふに、その様な事があるものか。平にそこを放いてくれさしめ。
▲女「いやいや。放す事はなりませぬ。
▲シテ「いや。どうあつても行かねばならぬ。そこを放さしめ。
△《次に記す》
△《次に記す》
《と云うて、無理に引き放し、逃げ入る》
▲女「これはいかな事。申し申し。どれへござるぞ。まづ待たせられい。こなたがござるならば、妾も参りませう。
▲シテ「なう。怖ろしや、怖ろしや。許いてくれい、許いてくれい。
▲女「誰そ止めて下されい。申し。どれへござるぞ。まづ待たせられい。やるまいぞやるまいぞ。
△
▲シテ「それならば、真実を云はう。ありやうは、何も忘れた物はなけれども、和御料の様な悪女と添ふ事は嫌でおりやる。
《と云うて、突きのけて逃げ入り》
▲女「なう。腹立ちや。妾を嫌うてどれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「あゝ。許さしめ。許いてくれい、許いてくれい。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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