『能狂言』中81 聟女狂言 どんだらう

《次第なしにも》
▲シテ「《次第》《謡》帰る嬉しき故郷に、帰る嬉しき故郷に、急いでめこに会はうよ。
これは、都に住居致す、どんだらうと申す者でござる。某、訴訟の事あつて、みとせ以前に西国へ下つてござるが、この度訴訟も思ひの儘に叶ひ、仕合はせを致いてござるによつて、急いで都へ上らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、故郷忘じがたしとは、良う申したものでござる。又、都でも、この様に仕合はせ良うのぼる事は知らいで、定めて今日か明日かと待ち兼ねて居るでござらう。戻つてこの様子を話いたならば、皆の者が殊ない悦びでござらう。いや。何かと云ふ内に、はや都へ上り着いた。又、都は格別な事ぢや。久々で上つたれば、殊の外賑やかに覚えまする。はあ。扨、近頃恥づかしい事でござれども、私は上京と下京に、女共をに人持つてござるが、いづれから参らうぞ。いや。下京は本妻なり。幼馴染でござるによつて、下京から参らうと存ずる。いや。誠に、私も折節は、文の音づれをも致したうござつたれども、殊の外忙しうござつたによつて、三とせが間、文の音づれも致さぬによつて、さぞ恨みを云ふでござらう。いや。参る程に、下京ぢや。久々で参つたれば、よそへ来た様な。いや。何かと申す内に、これでござる。はあ。某が留守ぢやと思うて、表の戸をさいて置いた。
いや。なうなう。西国から鈍太郎が今戻つた程に、こゝをあけてくれさしめ、あけてくれさしめ。
▲下京「又、辺りの若い衆のなぶらせらるゝのでござらう程に、あくる事はなりませぬ。
▲シテ「いやいや。誠の鈍太郎が仕合はせ良う戻つたによつて、早うこゝをあけてくれさしめ。
▲下京「鈍太郎殿は三とせ以前に西国へ下られて、これまでつひに文の音づれもござらぬ程に、誠の鈍太郎殿ではござるまい。
▲シテ「その恨みは尤ぢや。某も折節は、音づれをもしたうあつたれども、殊の外忙しうて、それ故音づれもせなんだ。さりながら、その云ひ訳は、内へ入つてからせう程に、早うあけてくれさしめ。
▲下京「たとへ誠の鈍太郎殿でも、こゝをあくる事はなりませぬ。
▲シテ「それは又、なぜにぢや。
▲下京「待つ程こそ待たうずれ、三とせの間、音づれもござらぬによつて、棒づかひを夫に持つてござる程に、こゝをあくる事はなりませぬ。
▲シテ「何ぢや。棒づかひを夫に持つた。
▲下京「中々。
▲シテ「やい。おのれは憎いやつの。いかに音づれをせねばとて、身共が暇もやらぬに、誰に断つて夫を持つたぞ。おのれ、そのつれを云うて。こゝをあけずば、踏み破つて這入るが。あけぬか、あけぬか。
▲下京「なう。腹立ちや、腹立ちや。
これのはござらぬか。棒を持つて出て、あの狼藉者を打ち倒いて下されい、
なう。腹立ちや、腹立ちや。
《鈍太郎、聞き耳立てゝ居る。「打ち倒せ」と聞いて、肝を潰して逃げて》
▲シテ「これはいかな事。すれば、きやつは誠に夫を持つたと見えた。扨々、憎いやつでござる。さりながら、きやつは日頃から心立てが悪しうござつたによつて、いつぞは暇をやらうやらうと存じてござるが、幸ひな事ぢや程に、暇を遣はさうと存ずる。
やい。聞き居ろ。おのれ、憎いやつの。三とせばかりの留守を待ち兼ねて、夫を持つといふ事があるものか。おのれがその根性ぢやによつて、日頃から、いつぞは暇をやらうやらうと思うて、上京に見目良しの心良しを持つて居る程に、今からそれが方へ行く。おのれはその棒づかひと、千年も万年も添ひ居れ。後で悔やむまいぞ。
扨々、憎いやつでござる。さらば、急いで上京へ参らう。誠に、いつぞは暇をやらうやらうと存ずる処に、今日といふ今日、暇を遣はして、心が清々と致いた。上京のは見目良しの心良しでござるによつて、さぞ待つて居るでござらう。いや。参る程にこれぢや。はゝあ。これも留守ぢやと思うて、門をさいて置いた。
いや。なうなう。西国から鈍太郎が今戻つた程に、こゝをあけてくれさしめ、あけてくれさしめ。
▲上京「又、辺りの若い衆のなぶらせらるゝでござらう程に、あくる事はなりませぬ。
▲シテ「いやいや。誠の鈍太郎が仕合はせ良う戻つたによつて、早うあけてくれさしめ。
▲上京「鈍太郎殿は三とせ以前に西国へ下られて、その後、文の音づれもござらぬによつて、誠の鈍太郎殿ではござるまい。
▲シテ「その恨みは尤ぢや。さりながら、内へ入つてから云ひ訳はせうず。声でなりとも、聞き知つて居るであらう。まづ、早うあけてくれさしめ。
▲上京「その上、たとへ誠の鈍太郎殿でも、あくる事はなりませぬ。
▲シテ「それは又、何とした事ぢや。
▲上京「さればその事でござる。待つ程こそ待たうずれ、三とせの間、文の音づれもござらぬによつて、今では長刀づかひを夫に持つてござるによつて、こゝをあくる事はなりませぬ。
▲シテ「やあら。おのれは憎いやつの。誰に断つて夫を持つた。そのつれな事を云うて。こゝをあけずば、切り破つて這入るが。あけまいか、あけまいか。
▲上京「なう。腹立ちや。
これのはござらぬか。あの狼藉者を、長刀にのせて下されい、
なう。腹立ちや、腹立ちや。
《又、初めの如く、聞き耳して居て、「長刀にのせて下されい」と聞いて、肝を潰して脇へのきて》
▲シテ「これはいかな事。きやつも、長刀づかひを夫に持つたと申す。扨々、是非もない事かな。某も、訴訟も思ひの儘に叶ひ、仕合はせを致いたによつて、彼らを楽しみに上つたれば、両人の女共に見捨てられ、足を留めう様がない。その上、もはや人に顔の向けよう様もなし。扨々、口惜しい事ぢやが、何としたものであらうぞ。それそれ。淵川へ身を投げて死んでのけう。が。女わらべを見る様に、淵川へ身を投げて死んだならば、いよいよ人に笑はれうが。何と致さうぞ。をゝ。それそれ。これを出離の種として、髷を切り、隔夜へ入り、道心をおこいて、彼らが成れる果てをも、よそながら見ようと存ずる。
やい。下京の女共も上京の女共も、よう聞け。某も、訴訟も思ひの儘に叶ひ、仕合はせをしたによつて、彼らを楽しみに上つたれば、三とせばかりの留守を待ち兼ね、両人ともに、よう夫を持つたな。身共も汝らには見捨てらるゝ、もはや人につらを向けう様もないによつて、もとゞりを切り、かくやへ入り、道心をおこいて諸国修行をする程に、その棒づかひや長刀づかひと、千年も万年も添ひ居ろ。後で悔やむまいぞ。
扨々、是非もない事ぢや。さらば、髻を切らう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。しないたるなりかな。
▲下京「夜前、鈍太郎殿の戻られてござるを、又、例の辺りの若い衆ぢやと存じて、荒けなう申してござれば、殊の外腹を立てられて、上京へ行くと云はれてござる。定めて上京に居らるゝでござらう程に、参つて申し訳を致さうと存ずる。誠に、鈍太郎殿と存じてござらば、何しに荒けなう申しませうぞ。若い衆と存じて荒けなう申して、近頃面目もござらぬ。いや。参る程に、上京ぢや。どの辺りぢや知らぬ。まづ、こゝ元で承つて見よう。
物申。案内申。
▲上京「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
いや。こなたは見馴れぬお方でござるが。いづ方から御出なされてござるぞ。
▲下京「近頃御尤でござる。恥づかしながら、妾は下京に居りまする、鈍太郎殿の妻でござる。
▲上京「やあやあ。すれば、承り及うだ鈍太郎殿のお妻でござるか。
▲下京「中々。左様でござる。
▲上京「これは又、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲下京「さればその事でござる。夜前、誠の鈍太郎殿の、西国より戻られてござるを、又、例の辺りの若い衆のなぶらせらるゝと存じて、荒けなう申してござれば、腹を立てられて、こなたへ参ると申されてござる。定めてこなたの方に居らるゝでござらう程に、申し訳を致さうと存じて参りました。
▲上京「扨は、左様でござるか。成程、こなたへも参られてござれども、こなたの仰せらるゝ通り、若い衆のなぶらせらるゝと存じて、荒けなう申してござれば、いづ方へやら行かれましてござる。
▲下京「こなたの隠させらるゝは尤でござるが、わらはゝ申し訳さへ致せば、その儘戻りまする程に、何とぞちよつと会はせて下されい。
▲上京「何しに妾が隠しませうぞ。真実、これにではござらぬ。
▲下京「すれば、一定でござるか。
▲上京「中々。いちゞやうでござる。
▲下京「はあ。すれば、ちと思ひ当たる事がござる。
▲上京「それは又、いかやうな事でござる。
▲下京「只今、これへ参る路次すがら、京わらんべの申しまするは、鈍太郎は、両人の女共に見捨てられ、かくやへ入り、修行に出らるゝと申してござるが、扨は左様の事でかなござらう。
▲上京「すれば、疑ひもなう、かくやへ入られたものでござらう。
▲下京「扨々、これは苦々しい事でござるが。何として良うござらうぞ。
▲上京「されば、何と致いて良うござらうぞ。
▲下京「妾が存じまするは、定めて今日は修行に出られぬ事はござるまい程に、上下の街道へ参り、こなたと私と致いて留めませうが、何とでござらう。
▲上京「これは一段と良うござらう。
▲下京「扨は、御同心でござるか。
▲上京「中々。同心でござる。
▲下京「その儀ならば、まづこなたからござれ。
▲上京「いやいや。まづ、こなたからござれ。
▲下京「それならば、妾から参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲上京「参りまする、参りまする。
▲下京「こなたも妾も、誠の鈍太郎殿と存じて、何しに荒けなう申すものでござるぞ。
▲上京「仰せらるゝ通り、辺りの若い衆の、又なぶらせらるゝと存じて、それ故荒けなう申して、近頃面目もない事でござる。
▲下京「腹を立てらるゝも、尤でござる。
▲上京「左様でござる。
▲下京「いや。参る程に、上下の街道でござる。
▲上京「誠に左様でござる。
▲下京「まづ、これへ寄つて、待ちませう。
▲上京「それが良うござらう。
▲シテ「南無阿弥陀、南無阿弥陀仏。南無阿弥陀。
あゝ。扨、昨日までは、我ら如きの者を見ては、あれは世捨て人か。但し、世に捨てられ人かと存じてござるが、今日は我が身の上になつてござる。
南無阿弥陀。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀。《いくつも返して云ふ》
▲下京「申し申し。あれへ参らるゝが、鈍太郎殿でござる。
▲上京「中々。左様でござる。
▲下京「扨々、浅ましいなりでござる。
▲上京「誠に、はかない体でござる。
▲下京「こなた、留めさせられい。
▲上京「いやいや。まづ、こなた留めさせられい。
▲下京「それならば、妾が留めて見ませう。
▲上京「早う留めさせられい。
▲下京「心得ました。
申し申し。鈍太郎殿。これはまづ、何としたなりでござる。何とぞ思ひ留まつて下されい。
▲シテ「いや。こゝな女は、むさとした事を云ふ。この尊い隔夜道心に、鈍太郎といふ名があるものか。
▲下京「お腹立ちは御尤でござれども、何しにこなたと存じて、あの様に荒けなう申すものでござるぞ。近所の若い衆のなぶらせらるゝと存じて、荒けなう申してござる。何とぞ思ひ留まつて下されい。
▲シテ「まだそのつれな事を云ふか。身共は棒使ひを夫に持つて居るによつて、その様なむさとした事を云うたならば、棒で打ちなやいてやらうぞ。
▲下京「これはいかな事。あの体では留められますまい。
こなた行て、留めて見させられい。
▲上京「心得ました。
申し申し。鈍太郎殿。このなりは、何とした事でござるぞ。思ひ留まつて下されい。
▲シテ「これはいかな事。右からも左からも、なまめいた女中の、留まれ留まれと仰しやるが、身共はそなたの様な美しい女中に近付きはおりない。
▲上京「お腹立ちは御尤ではござれども、下京の云はせらるゝ通り、辺りの若い衆のなぶらせらるゝと存じて、荒けなう申してござる。何とぞ堪忍をして、思ひ留まつて下されい。
▲シテ「その上、某は長刀使ひを檀那に持つて居るによつて、聊爾な事を仰しやつたならば、長刀にのせらるゝであらうぞ。
▲上京「これはいかな事。中々留められませぬ。
又、こなた出て留めさせられい。
▲下京「心得ました。
申し申し。さりとては、聞き分けもない事でござる。かやうに上京のと申し合はいて仲良う出ました事でござるによつて、何とぞ思ひ留まつて下されい。
▲シテ「誠に、見れば、両人とも云ひ合はいて仲良う御出やつたが、それは古への事。今この身になつては、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲下京「又、こなた、留めさせられい。
▲上京「それならば、両人して留めて見ませう。
▲下京「それが良うござらう。
▲両京「申し申し。鈍太郎殿。両人ともに、こなたのかくやへ入らせられたと承つて、取る物も取りあへず出ました程に、何とぞ思ひ留まつて下されい。
▲シテ「あゝ。扨々、そなた達は、むさとした事を仰しやる。一旦かくやへ入り、道心をおこいた者が、何と思ひ留まらるゝものでおりやるぞ。
▲下京「すれば、これ程に申しても、思ひ留まらせらるゝ事はなりませぬか。
▲シテ「何と、思ひ留まらるゝものでおりやる。
▲下京「それならば、両人して、こなたの衣の裾や。
▲上京「袂に取り付いて。
▲両京「修行の先々へ付き廻つて、修行の妨げを致しまするぞ。
▲シテ「むゝ。何ぢや。身共が思ひ留まらねば、両人して、衣の裾や袂に取り付いて、修行の妨げをすると仰しやるか。
▲両京「中々。
▲シテ「何程に某が思ひ切つても、和御料達の、衣の裾や袂に取り付いて妨げをしたならば、修行もなるまい程に、それならば、思ひ留まるまいものでもないが、総じて今まで、上京へ行けば下京で恨み、下京へ行けば上京で恨むによつて、これからは仲良うしたならば、思ひ留まつてやらう。
▲下京「何が扨、思ひ留まつてさへ下さるゝならば。
▲両京「仲良う致しませうとも。
▲シテ「とてもの事に、行く日を決めておかう。
▲下京「それが良うござらう。
▲シテ「まづ、ひと月三十日の内を、上二十日上京へ行て、下十日下京へ行かう。
▲下京「なう。腹立ちや。その様な片落ちな事があるものでござるか。妾が方へ上二十日来て下されい。
▲シテ「それそれ。それぢやによつて、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲上京「申し申し。それは余り片落ちでござるによつて、今少し了簡をなされて下されい。
▲シテ「扨々、そなたは見目が良ければ心までが良い。それならば、了簡をして、上十五日そなたの方へ行て、下十五日下京へ行かう。
▲下京「とてもの事に、上十五日妾が方へ来て下されい。
▲シテ「それはなぜに。
▲下京「はて。大小の違ひで、一日損がござる。
▲シテ「その根性ぢやによつて、南無阿弥陀、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲上京「申し申し。一日ばかりの事は、こなたも了簡をなされい。
▲下京「それならば、了簡を致しませう。
▲上京「申し申し。それならば、了簡をせうと仰せらるゝ程に、思ひ留まつて下されい。
▲シテ「何ぢや。了簡をせう。
▲下京「中々。
▲シテ「その儀ならば、思ひ留まつてやらうぞ。
▲下京「それは嬉しうござる。
▲シテ「扨、某がかくやへ入つた事は、世上に隠れはあるまい。
▲下京「いかにも隠れはござらぬ。
▲シテ「とてもの事に、そなた達は手車をかいて、囃子物で宿へ連れて行てくれさしめ。
▲下京「心得ましてござるが、何と云うて囃しまするぞ。
▲シテ「総じて、某は人にでん文字を付けて呼ばれた事がないによつて、身共が、これは誰が手車手車と囃さう程に、和御料達は、鈍太郎殿の手車手車と云うて、殿文字を付けて囃いてくれさしめ。
▲下京「心得ました。さあさあ。これへ寄つて手車を組ませられい。
▲上京「心得ました。
▲下京「急いで囃させられい。
▲シテ「心得た。《囃子物》
これは誰が手車手車。
▲上京「《囃子物》鈍太郎殿の手車手車。
▲下京「《囃子物》鈍太郎めが手車手車。
▲シテ「いや。いち人は鈍太郎めと仰しやる。それならば、南無阿弥陀、南無阿弥陀。
▲下京「あゝ。申し申し。誰が、めと申しませうぞ。でん文字を付けて囃しまする程に、急いで囃させられい。
▲シテ「それならば、必ず殿文字を付けて囃さしめ。
▲下京「何が扨、心得ました。早う囃させられい。
▲シテ「心得た。《囃子物》
これは誰が手車手車。
▲両京「《囃子物》鈍太郎殿の手車手車。
《幾遍も返して云うて、仕方色々あり。上京の方は随分やはらかに、下京の方は、強く云うて、手車に乗る時にも、上京の方は背をさすり、戴いてやはらかに踏み込み、下京の方は叩く真似して強く踏み込む。両足踏み込むと、かき上げて、すぐに横に楽屋へ入る。シテは正面を向く様に、横すさりに入るなり》

底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.

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