『能狂言』中82 聟女狂言 をばがさけ
▲シテ「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、山一つあなたに、伯母をいち人持つてござるが、毎年酒を造つて商売致さるれども、殊の外吝い人でござつて、いつ参つても、酒を一つ呑めと云はれた事がござらぬ。今日は、ちと思案を致いた事がござる程に、あれへ参り、ねだつてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いや。誠に、世にしわい人もあるものでござれども、こちの伯母御の様に吝い人はござるまい。今日こそ、是非とも振舞はるゝであらう。いや。参る程に、これぢや。
申し申し。伯母者人。ござりまするか。ござるか。
▲伯母「誰ぢや。
▲シテ「私でござる。
▲伯母「ゑい。誰か。そなたは久しう見えなんだが。何と、変る事もおりないか。
▲シテ「私も、かれこれ致いて、御無沙汰申しましてござるが、こなたも変らせらるゝ事もござらいで、めでたうござる。
▲伯母「お見やる通り、妾も変る事もおりないよ。
▲シテ「扨、当年も又、酒を造らせられてござるか。
▲伯母「中々。相変らず造つておりやるが、殊の外良う出来て、この様な満足な事はおりないぞ。
▲シテ「やれやれ。それは一段の事でござる。それにつき、今日参るも別なる事でもござらぬ。私の在所は薄う広い所でござるが、近頃、御酒が殊の外はやりまするによつて、もし良く出来ましたならば、ひけんして売つて進じませうか。
▲伯母「やれやれ。それは嬉しい事ぢや。なる事ならば、ひけんして売つてくれさしめ。
▲シテ「中々。売つて進じませうが、良い酒か悪しい酒か、私がきいて見ずばなりますまい程に、一つきかせて下されい。
▲伯母「近頃易い事ぢやが、そなたのきいて見るには及ばぬ。只、良い酒ぢやと云うて、売つてくれさしめ。
▲シテ「こなたの何程良いと仰せられても、私がきいて見ねば知れませぬ。その上、甘いを好いて参る衆もござり、又、辛いを好く衆もござる処で、たべたうはござらねども、平に一つきかせて下されい。
▲伯母「その、甘いを好く衆へは、甘いを進じようず。辛いを好いて参る衆へは、辛いを進じよう。その上今日は、未だ売り初めをせぬによつて、和御料にきかする事はならぬ。
▲シテ「扨々、こなたは義理の堅い事を仰せらるゝ。則ち、私に振舞はせらるゝが、売り初めと申すものでござる。
▲伯母「いやいや。妾は、お足を取らねば売り初めとは思はぬ。
▲シテ「はあ。すれば、これ程に申しても、きかさせらるゝ事はなりませぬか。
▲伯母「中々。ならぬ。
▲シテ「それならば、たべますまい。私はもう、かう参りまする。
▲伯母「もはやおりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲伯母「良うおりやつた。
▲シテ「はあ。
これはいかな事。扨々、吝い人でござる。今の程に申したに、振舞はれぬ。何と致さう。いや。思ひ出いた。致し様がござる。
申し。ござるか。ござりまするか。
▲伯母「和御料はまだ行かぬか。
▲シテ「かう参りますが、こなたへ申さう申さうと存じて、はつたと忘れた事がござるによつて、それ故、立ち戻りましてござる。
▲伯母「それは又、いかやうな事ぢやぞ。
▲シテ「さればその事でござる。この間、私の在所へは、七つ過ぐるといかめな鬼が出まするによつて、七つ過ぐると、背戸門をさいて用心致しまする。承れば、山一つこなたへも参つたとやら申しまする。こなたは、ひとり御出なさるゝ事でござるによつて、七つ過ぎたならば、用心をなされたならば、良うござらう。
▲伯母「やれやれ。それは怖ろしい事ぢや。誠に、妾はひとり居る事ぢやによつて、七つ過ぎたならば、店を仕舞うて用心をするであらうぞ。
▲シテ「この事を申さう申さうと存じて参つて、はつたと忘れましたによつて、わざわざ立ち戻つてござる。それならば、かう参りまする。
▲伯母「もはやおりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲伯母「良うおりやつた。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと誑し済まいた。かやうに致すも別なる事でもござらぬ。つゝと臆病な人でござるによつて、こゝに風流の面がござる程に、これをかけて嚇いて、酒をたべうと存ずる。
▲伯母「扨も扨も、怖ろしい事でござる。最前、甥の誰が参つて申すは、七つ下がるといかめな鬼がづると申すによつて、もはや背戸かどをさいて、用心致さうと存ずる。さらさらさら。ばつたり。
▲シテ「物申。案内申。
▲伯母「もはや店を仕舞うてござる程に、用があらば、明日ござれ。
▲シテ「これは、近所の者でござるが、客があつて急に酒がいりまする程に、こゝをあけて下されい。
▲伯母「何ぢや。近所の人ぢや。
▲シテ「中々。
▲伯母「いゑ。それならば、あけておまさう。さらさらさら。
▲シテ「いで。喰らはう、喰らはう。《と云うて、一遍追うて、一の松へ追ひ詰める》
▲伯母「あゝ。許させられい、許させられい。《と云うて、逃げて廻りて、一の松にかゞみ居る》
▲シテ「やいやいやい。そこな奴。
▲伯母「はあ。
▲シテ「おのれは憎い奴の。七つ下がつて、殊に女の身としてこの屋に一人居るは、定めて武辺立てゞあらう。頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲伯母「あゝ。武辺立てゞはござらぬ。真つ平命を助けて下されい。
▲シテ「おのれ。真実、命が助かりたいか。
▲伯母「中々。命が助かりたうござる。
▲シテ「命が助かりたくば、この鬼の云ふ事を聞くか。
▲伯母「何なりとも承りませう。
▲シテ「おのれは第一、しわい奴ぢや。
▲伯母「いや。吝うはござらぬ。
▲シテ「身共がよう知つて居る。おのれ、山一つあなたに甥を一人持つて居るではないか。
▲伯母「こなたはよう御存じでござる。
▲シテ「その甥が遥々と見舞ひに来ても、沢山にある酒を、一つ振舞うた事がないとな。
▲伯母「いや。参る度ごとに振舞ひまする。
▲シテ「身共がよう知つて居る。向後、見舞ひに来たならば、夏ならば冷し済まし、又、冬ならば燗をし済まいて、あれが厭と云ふ程、呑まさうか。呑ますまいか。
▲伯母「呑ませませう、呑ませませう。
▲シテ「おのれ、呑まさぬにおいては、頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲伯母「あゝ。呑ませませう、呑ませませう。
▲シテ「何ぢや。呑ませう。
▲伯母「中々。
▲シテ「それならば、命を助けてやる。扨、この鬼も、酒が一つなるいやい。
▲伯母「はあ。
▲シテ「今、酒蔵へ行て呑まう程に、某が行方を見るな。
▲伯母「見る事ではござらぬ。
▲シテ「見たならば、頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲伯母「見る事ではござらぬ。
▲シテ「見るな。
▲伯母「見は致さぬ。
▲シテ「見るな。
▲伯母「見は致さぬ。
▲シテ「そりや。見居つたわ。頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
▲伯母「あゝ。見は致しませぬ。
▲シテ「見るなと云ふに。
▲伯母「見は致さぬ。
▲シテ「見るな。見るな。
《と云うて、正面の方へ出、
「これが酒蔵ぢや。さらば、戸をあけう。見居るまいぞ」
など云うて、
「ぐわりぐわり、ぐわらぐわらぐわら。扨も扨も、夥しい壺数ぢや。これ程ある酒を、つひに振舞はれた事がござらぬ。扨、どれに致さうぞ。これに、蓋の取れかけたのがある。これに致さう」
と云うて、蓋を取りて、
「むゝ。扨も扨も、旨い匂ひがする。まづ、汲む物を取つて参らう」
と云うて、太鼓座へ取りに行き、腰桶の蓋を取つて、又、こゝにて、
「見居るまいぞ。見たならば、いで、喰らはう。あゝ」
と云うて、嚇す。伯母は始終かゞみて居る。扨、蓋を持つて行き、
「まづ、一つ汲んでたべう」
と云うて、酒を汲み、呑まうとして、面へつかふる。
「これはいかな事。はつたと忘れた」
と云うて。面を片手にて外して呑む。呑うでから又、面を着て》
はあ。今朝からたべたいたべたいと存ずる処へ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりで、風味を覚えぬ。今一つたべて、風味を覚えう。
《汲んで、「見居るまいぞ」と云うて嚇して、初めの如くして呑む{*1}》
はあ。扨も扨も、伯母者人の自慢を召さるゝは、道理ぢや。殊の外良い酒ぢや。今一つたべうが、これでは窮屈な。何とぞ、今少しゆるりとしてたべたいものぢやが。をゝ。それそれ。良い事を思ひ付いた。
《と云うて面を右の方、横へ廻して着る》
おのれ、見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
《と云うて、頭を振り、足踏みをして嚇す》
をゝ。これこれ。一段と良い。されば又、汲んでたべう。扨も扨も、この様な旨い酒は、つひに呑うだ事がござらぬ。今一つたべう。が、まだこれでも頭が重い。とてもの事に、づを軽うして呑みたいものぢやが。をゝ。それそれ。致し様がある。
《と云うて、左を下にして横になり、右の足を立て、膝を折り、膝頭へ面を着せて》
やい。こちを見居るまいぞ。見たならば、いで、喰らはう。あゝ。
《と云うて、足踏みして嚇して》
これこれ。これで、一段と楽になつた。さらば、今一つたべう。あゝ。扨も扨も、呑めば呑む程、旨い酒ぢや。今一つたべう。
おのれ、見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。
あゝ。これは良い慰みぢや。さらばたべう。あゝ。ちと酔うたさうな。とてもの事に、ちと休んでたべう。
《蓋を枕にして寝て、嚇す》
見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口に、いで、喰らはう。あゝ。見るな。見居るまいぞ。
《段々に酔うて寝る》
▲伯母「なうなう。怖ろしや、怖ろしや。最前、甥が参つて知らせてござるが、真実でござる。あまの命を拾うた。扨、殊の外静かになつたが。もはや出て行たか知らぬ。こは物ながら、参つて見ようと存ずる。
《と云うて、そろりそろりとさし足して、舞台へ入る。面を見付けて》
あゝ。真つ平命を助けて下されい。酒は惜しみませぬ程に、いか程も参つて、早う出て行て下されい。申し申し。なぜにものを仰せられぬぞ。ものを仰せられいでは、迷惑にござる。申し申し申し。
《と云ひながら、そろそろと顔を上げて見て、後には立つて、甥を見付けて》
なう。腹立ちや、腹立ちや。鬼ぢや鬼ぢやと思うたれば、あれは、甥の誰ぢや。おのれ、何としてくれうぞ。
やいやいやい。
《と云うて起こす。シテは、起こされて、うつゝにて》
▲シテ「いで、喰らはう。《と云うて、足にて嚇す》
▲伯母「まだ、そのつれな事をするか。これは、何とした事ぢや。
《と云うて、面を取る。シテ、目を覚まし、枕にしたる蓋を面と思ひ、顔に当てゝ》
▲シテ「いで、喰らはう。《と云うて、嚇す。》
▲伯母「何の、いで喰らはう。よう妾を誑し居つたな。
▲シテ「あゝ。許させられい、許させられい。《と云うて、ひよろひよろとして、逃げ入る》
▲伯母「あの横着者。捕らへて下されい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて、追ひ入る》
校訂者注
1:底本は、「始めのごとしてのむ」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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