『能狂言』中83 聟女狂言 びくさだ
▲アド「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、伜をいち人持つてござるが、段々成人致せども、未だ名を付けて遣はしませぬ。それにつき、こゝにお目を掛けさせらるゝお寮様がござるが、つゝとめでたいお方でござるによつて、今日はかな法師を連れて参り、名を付けて貰はうと存ずる。
いや。なうなう。金法師おりやるか。居さしますか。
▲子「これに居りまする。
▲アド「念なう早かつた。そなたを呼び出す事、別なる事でもおりない。いまだ名を付けてやらぬによつて、今日はお寮へ連れて行て、名を付けて貰うてやらうと思ふが、何とあらうぞ。
▲子「一段と良うござりませう。
▲アド「それならば、竹筒を用意さしめ。
▲子「畏つてござる。《腰桶を持つて》
はあ。さゝえを用意致いてござる。
▲アド「それならば、追つ付けて行かう。
▲子「それが良うござらう。
▲アド「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲子「参りまする、参りまする。
▲アド「扨、名を付けて貰うては、今までの様にしてはならぬ程に、随分おとなしうさしめ。
▲子「畏つてござる。
▲アド「いや。来る程に、これぢや。身共は案内を乞はう程に{*1}、それへ寄つて待つて居さしめ。
▲子「畏つてござる。
《と云うて、太鼓座へ座り着いて居る。アド、幕へ向かうて》
▲アド「物申。案内申。お寮様はお宿にござりまするか。
▲シテ「聞き馴れた声で、表に物申とある。案内とは誰そら。
▲アド「私でござる。
▲シテ「そなたならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りは召されぬぞ。
▲アド「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲シテ「それは念の入つた事ぢや。まづ、かう通られい{*2}。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「扨、この間は久しう見えなんだが、何として見えなんだぞ。
▲アド「この間は何かと致いて、御無沙汰を致いてござる。
▲シテ「そなたも、若い者の所へは再々行くであらうが。このお寮も、今少し年が若くば、度ゝお見舞ひに預からうと思ふですわ。
▲アド「又、お寮様のおざれ言を仰せらるゝ。扨、今日は金法師を同道仕りましてござる。
▲シテ「何ぢや。かな法師を同道した。
▲アド「中々。
▲シテ「それはどれに居るぞ。
▲アド「表に居りまする。
▲シテ「なうなう。軽忽や。早うこちへ通さしませ。
▲アド「畏つてござる。
《と云うて、「なうなう。あれへ御出やれ」「心得ました」。目付柱の方へ通して》
はあ。これが、金法師でござる。
▲シテ「はあ。あれが金法師か。
▲アド「中々。左様でござる。はあ。これは、かな法師が持たせでござる。
▲シテ「扨々、これは云はれぬ事を召された。妾が方へは、方々より貰うて、さゝは沢山にあれども、かな法師が持たせとあらば、留めて置かう。
▲アド「それは忝うござる。
▲シテ「扨、あの金法師は、あの様に成人しても、今にかな法師と云ひ候ふか。
▲アド「それについて、今日参るも別なる事でもござらぬ。あの如く成人致いてござれども、未だ名を付けませぬによつて、何とぞこなた、名を付けて下されうならば忝う存じまする。
▲シテ「何ぢや。妾に名を付けてくれい。
▲アド「中々。左様でござる。
▲シテ「なう。物狂やぶつきやうや。何と、妾が名を付けらるゝものぢや。それは、今時めく殿達を頼ましませ。妾は知り候はぬ。
▲アド「左様ではござりませうが、こなたの御年にも御果報にもあやかりたう存じて、かな法師が願ひでござる。
▲シテ「何ぢや。金法師が願ひぢやと仰しやるか。
▲アド「中々。
▲シテ「否とは思へども、金法師が願ひとあらば、付けてもやらうか。
▲アド「それは、ありがたうござる。
▲シテ「総じて名を付くるには、家々に定まつて付く字があると聞いたが、そなたの家には何を付くぞ。
▲アド「私の家には代々、下に太郎を付けまする。
▲シテ「何ぢや。太郎を付く。
▲アド「中々。
▲シテ「太郎太郎太郎。むゝ。良い名を思ひ出いた。妾が所を、いづれもの、お庵、お庵と仰せらるゝによつて、お庵の庵の字を取つて、あんだらうと付けてやらう。
▲アド「これは良い名で、忝うござる。
やいやい。庵太郎と付けて下された。お礼を申せ。
▲子「これは、良い名を付けて下されて、ありがたうござる。
▲シテ「何と、気に入つたかの。
▲子「殊の外、気に入りましてござる。
▲シテ「総じて、殿達の、名を付けさせらるれば、馬の、鞍の、太刀の、刀のと云うて、引出物をなさるゝが、妾はその様な物は持たぬによつて、この祝儀にめゝ五十石参らすぞ{*3}。
▲アド「これは忝うござる。
やいやい。米五十石引出物に下さるゝとある。お礼を申せ。
▲子「めゝ五十石下されて、ありがたうござる。
▲シテ「をゝ。めでたうおりやる。
▲アド「扨、又、願ひがござる。
▲シテ「何ぢや。まだ願ひがある。
▲アド「とてもの事に、名乗りをもお付けなされて下されい。
▲シテ「名乗りといふものは、つゝと難しいものぢやと云ふによつて、これこそ殿達を頼ましませ。
▲アド「これも、庵太郎が願ひでござる。
▲子「私の願ひでござる。
▲シテ「庵太郎が願ひとあらば、付けてもやらうか。
▲アド「それは忝うござる。
▲シテ「これも、家々に定まつて付く字があると云ふが、そなたの家には何といふ字を付くぞ。
▲アド「代々、下に貞といふ字を付けまする。
▲シテ「何ぢや。貞を付く。
▲アド「中々。
▲シテ「貞々々。むゝ。これも、良い字を思ひ出いた。妾が事を、いづれもの、比丘尼、比丘尼と仰しやるによつて、比丘尼の比丘の字を取つて、びく貞と付けてやらう。
▲アド「これは、忝うござる。
やいやい。比丘貞と付けて下された。お礼を申せ。
▲子「これは、良い名乗りを付けて下されて、忝うござる。
▲シテ「何と、気に入つたかの。
▲子「殊の外、気に入りましてござる。
▲シテ「この祝儀には、お足百貫参らす{*4}程に、これは、庵太郎がわたくしものにして置いて、太う長う大きう栄えさしめ。
▲アド「やいやい。お足百貫下された。お礼を申せ。
▲子「これはありがたうござる。
▲シテ「近頃めでたうおりやる。扨、めでたう最前の竹筒を開かしめ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「いや。なうなう。庵太郎。
▲子「はあ。
▲シテ「これからは、庵太郎の比丘貞ぢやによつて、随分大人しうさしめや。
▲子「畏つてござる。
▲アド「扨、今日の事でござるによつて、こなた召し上がられて、庵太郎へ差させられて下されい。
▲シテ「誠に、今日の事ぢやによつて、一つ呑うで庵太郎へ差さうか。
▲アド「それは尚々、ありがたうござる。
▲シテ「一つ注がしめ。
▲アド「心得ました。
▲シテ「恰度ある。
▲アド「ちやうどござる。
▲シテ「これを庵太郎へ差してくれさしめ。
▲アド「畏つてござる。
なうなう。庵太郎。戴かしめ。
▲子「戴きまする。
▲シテ「めでたうおりやる。
▲子「これを、お寮様へ上げて下されい。
▲アド「心得た。
庵太郎が上げまする。
▲シテ「をゝ。めでたうおりやる。
▲子「慮外にござる。
▲シテ「又、つがしめ。
▲アド「心得ました。
▲シテ「ちと謡はしめ。
▲アド「畏つてござる。《小謡》
▲シテ「殿達の好かせらるゝは道理ぢや。謡といふものは、いつ聞いても面白いものでおりやる。
▲アド「左様でござる。
▲シテ「扨、あの庵太郎は、前、舞を舞うた事があつたが、今に舞ひ候ふか。
▲アド「久しう舞ひませぬ。
▲シテ「今日はめでたい事ぢや程に、ひとさし舞はさしめ。
▲アド「畏つてござる。
なうなう。庵太郎。ひとさし舞はしめ。
▲子「心得ました。
《小舞。シテ、褒めて》
▲シテ「はゝ。扨々、久しうて見ておりやるが、今では殊の外上手になつておりやる。
▲子「久しう舞ひませぬによつて、忘れましてござる。
▲シテ「扨、これをめでたうそなたへ差さうか。
▲アド「戴きませう。
▲シテ「めでたうおりやる。
▲アド「庵太郎。酌をせい。
▲子「心得ました。
▲シテ「めでたう一つ呑ましめ。
▲アド「畏つてござる。扨、又、お寮様にお願ひがござりまする。
▲シテ「それは、何事でおりやる。
▲アド「久しうこなたのお立ち姿を拝見致しませぬによつて、何とぞ一つ舞はせられて下されい。
▲シテ「何ぢや。妾に舞を舞へ。
▲アド「中々。
▲シテ「なう。物狂や物狂や。いつ妾が舞を舞うた事がある。その様な事は知り候はぬ。
▲アド「いや。左様に仰せらるゝな。前かた拝見致いた事がござる。今日は取り分けめでたい事でござる程に、平に舞はせられい。これも庵太郎が願ひでござる。
▲シテ「むゝ。そなたの願ひか。
▲子「中々。私の願ひでござる。
▲シテ「庵太郎が願ひとあらば、さゝにも酔うた程に、舞ひもせうか。
▲アド「それは、ありがたうござる。
▲シテ「さりながら、必ず沙汰なしでおりやるぞや。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「庵太郎。沙汰なしぢやぞ。
▲子「心得ました。
▲シテ「《謡》鎌倉の女郎は。
なう。恥づかしや、恥づかしや。
▲アド「なぜに左様に仰せられまするぞ。是非とも一つ、舞はせられて下されい。
▲シテ「それならば舞はう程に、必ず沙汰なしでおりやるぞや。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「《謡》鎌倉の女郎は。
▲地「《謡》煤竹のつめたに織物の手蔽ひ{*5}、宇都宮笠をきりゝと召されておりやらします。いりやらしまして、あさいわ井さしませ。
なう。恥づかしや、恥づかしや。あら。そなたはいたづらな人ぢや。
▲アド「扨々、久しうてお立ち姿を拝見致いてござる。さりながら、今のは余り短かうて見足りませぬ程に、今少し長い事を舞うて見せさせられい。
▲シテ「それならば、一つ舞ふも二つ舞ふも同じ事ぢやによつて、舞ひもせうか。
▲アド「それはありがたうござる。
▲シテ「随分沙汰なしでおりやるぞや。
▲アド「心得ましてござる。
▲シテ「庵太郎。必ず沙汰なしぢやぞ。
▲子「畏つてござる。
▲シテ「《謡》やらやら。珍しや、珍しや。昔が今に至るまで、比丘尼の烏帽子々を取る事は、これぞ初めの祝言なる。さりながら方丈。
▲地「《謡》さりながら方丈、寺も庵もお足も米も、多く持つたれば、しゞうの旦那に頼み頼まるゝ。只今の引出物。
▲シテ「《謡》めゝ五十石。
▲地「《謡》お足百貫、比丘貞に取らせ、これまでなりとて方丈は、これまでなりとて方丈は、眠蔵にぐつすと這入りけり。
校訂者注
1:底本は、「こふ程に」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
2:底本は、「先斯う通らい」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
3:底本は、「米(めゝ)五十石まいすぞ」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
4:底本は、「百貫まいす程に」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
5:底本は、「手おほゝひ」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
コメント