『能狂言』中84 聟女狂言 おこさこ
▲シテ「これは、この辺りに住居致す、右近と申すお百姓でござる。誠に、当年は豊年とは申しながら、某が田は、畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はござらぬ。それについて、ちと苦々しい事が出来てござるが、某が分別にはあたはぬによつて、女共を喚び出し、相談を致さうと存ずる。
いや。なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女「妾を用ありさうに呼ばせらるゝは、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「ちと用の事がある程に、まづ、かう通らしめ。
▲女「心得ました。扨、御用と仰せらるれば心元なうござるが、それはいかやうの事でござるぞ。
▲シテ「別の事でもおりない。まづ、当年は豊年とは云ひながら、某が田は、畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はおりないぞ。
▲女「誠に、豊年とは申しながら、こなたの田は畦を限つてよう出来て、わらはも悦びまする。
▲シテ「これと云ふも、そなたの精を出いてくれた故ぢやと思へば、ひとしほ悦ぶ事でおりやる。
▲女「左様に思し召して下さるれば、妾も骨を折つた甲斐あつて、嬉しう存じまする。
▲シテ「扨、それについて、ちと気の毒な事が出来ておりやるわ。
▲女「それは又、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「さればその事ぢや。この間、左近めが牛を放いておこいて、某が田を大目程、撫で喰ひにさせたによつて、その儘左近が所へ行て、なぜにこれの牛を放いておこいて田を喰はせたと云うたれば、はて、畜生のした事ぢやによつて、堪忍をしたが良いと云ふ。成程、畜生のした事ぢやによつて堪忍をせうが、それならば、牛をおこすか、年貢をはかるかと云うたれば、それもならぬと云ふ。某も、余り腹が立つたによつて、この事を地頭殿へ公事に上げうと云うたれば、出居にどうかと寝て居て、公事に上げたくば上げうまでよと、ねそねそと云うたが、何と腹の立つ事ではないか。
▲女「扨々、それは憎い事でござる。こなたと妾と骨を折つて作り済まいた田を、牛に喰はするといふは、近頃腹の立つ事でござれども、さこ殿の云はるゝ通り、畜生のした事でござるによつて、これは堪忍をなされたならば良うござらう。
▲シテ「これはいかな事。和御料までその様な事を仰しやる。いかに畜生のした事ぢやと云うて、これを堪忍をすれば、目の前で身共が損の行く事ぢや。その上、去年の未進さへ済まさずに置いて、何と堪忍がなるものでおりやるぞ。
▲女「お腹立ちは、近頃御尤ではござれども、こゝをよう聞かせられい。あの左近殿は、村での口きゝでござり、その上、地頭殿をば手一杯にせられまする。又、こなたは口不調法にはあり、その上、地頭殿へと云うては、年頭の礼ならではござらぬによつて、この事を公事に上げさせられたりと、こなたの負けになりませう程に、これは堪忍をなされたならば良うござらう。
▲シテ「をゝ。そなたの仰しやる通り、左近は口きゝにはあり、地頭殿は手一杯にする。又、身共は口不調法にはあり、地頭殿へとては、年頭ならで行た事はない。扨、相談と云ふは、こゝの事ぢや。今も云ふ通り、身共は口不調法ぢやによつて、和御料、名代に出て、この事を良い様に公事に上げてくれさしめ。
▲女「なう。物狂やぶつきやうや。男ありながら、何と妾が出らるゝものでござる。これは、ふつゝりと思ひ止まらせられい。
▲シテ「すれば、これ程に云うても、そなたがづる事はならぬか。
▲女「何と、女が出らるゝものでござるぞ。
▲シテ「良い良い。置き居れ。頼まぬ。上は御清粋ぢや。理を以て申し上ぐるに、負くるといふ事があるものか。おそらくは勝つて見せう。
▲女「あゝ。申し申し。すれば、どうあつてもこの事を、公事に上げさせられねばなりませぬか。
▲シテ「この事を公事に上げいで、何とするものぢや。
▲女「それならば、妾が云ふ事を聞かせられい。総じて、公事と申すものは、云ひ様によつて、理を以て非に落つるものでござる。その上、最前も申す通り、こなたは口不調法なお方でござるによつて、地頭殿へ出て公事に上げうと思し召す事を、宿で稽古なされい。妾が地頭殿になつて、公事を承つて、悪しい処があらば、こゝが悪しい、かしこが悪いと申して、直いて進じませうが、何とござらう。
▲シテ「むゝ。何と云ふぞ。某は口不調法なによつて、地頭殿へ出て云はう事を{*1}、宿で稽古して見よ。そなたが聞いて、直いてくれうと仰しやるか。
▲女「中々。その通りでござる。
▲シテ「これは一段と良からう。何とぞ、聞いて直いてくれさしめ。
▲女「さりながら、こなたも内ぢやと思し召しては、又、例の我が儘が出ませう程に、地頭殿ぢやと思し召して、いかにも謹んで稽古なされい。
▲シテ「何が扨、謹んで稽古するであらう。又、そなたも、それでは地頭殿らしうない程に、地頭殿らしう取り繕うて出さしめ。
▲女「妾も取り繕ひませうず。早う出させられい。
▲シテ「追つ付け出ようぞ。《太鼓座へ入る》
▲女「かやうに致すも、別なる事でもござらぬ。妾はちと訳があつて、左近殿の贔屓をせねばなりませぬ。
《と云うて、笛の上へ引つ込み、烏帽子を着、刀を差し、棒を持つて、「お白洲」と云ふ時分に出て、腰掛けて居る》
▲シテ「扨も扨も、こちの女共を、地下の衆も他郷の衆も褒めさせらるゝは尤ぢや。某が口不調法ぢやによつて、地頭殿へ出て公事に上ぐる事を、宿で稽古して見よ、直いてくれうと申す。
はあ。扨、地頭殿へは、これを真つ直に行て、ひぢたをれば、則ち御門ぢや。御門には、門番衆が居らるゝによつて、挨拶を云うて通らずばなるまい。
はあ。これは、当所に住居致す、おこと申すお百姓でござるが、ちと公事がござつてお白洲へ通りまする。通させられて下されい。通れ。はあ。いづれも近頃、ご大儀に存じまする。
などゝ云うて、まづ御門は通つた。扨、これからは御玄関ぢや。御玄関には、侍衆が出て居らるゝ処で、これはちと、慇懃に云うて通らずばなるまい。
はあ。物申し上げまする。これは当所に住居致す、右近と申すお百姓でござるが、ちと公事の様な事がござつて、お白洲へ通りまする。何とぞお通しなされて下されい。通れ。はゝ。はあ。通りまする。これはいづれも様、近頃ご苦労に存じまする。御免ありませう。通りまする。
などゝ云うて、はあ。まんまと御玄関をば通つたわ。扨、これからが、お白洲ぢや。これには、地頭殿が自身出て居らるゝ処で、あゝ。これは気味が悪うなつた。誠に、女共が無用にせいと申したに、已めに致せば良うござつたものを。但し、戻らうか。いやいや。御門を通り、御玄関まで通つたによつて、後へは帰すまい。あゝ。扨、これは苦々しい事ぢやが。何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。男の心と大仏の柱は、太うても太かれと云ふ。何の、思い切つて行くに、行かれぬといふ事があるものか。恐らくは往んで見せう。
▲女「やい。こゝなうろたへ者。何者ぢや。
▲シテ「あゝ。真つ平許させられい。
▲女「おのれは何者ぢや。
▲シテ「私は当所に住居致す、右近と申すお百姓でござる。
▲女「その右近が、これへは何として出たぞ。
▲シテ「この間、右近が牛が放れて、左近が田を喰べました。
▲女「それならば、左近が出る筈ぢや。
▲シテ「あゝ。只今のは申し違へでござる。左近が牛が放れて、右近を喰べましてござる。
▲女「何ぢや。牛が右近を喰うた。
▲シテ「いやいや。左様ではござらぬ。左近が右近が田をたうました。
▲女「それでは分からぬ。早う云はぬか。
▲シテ「右近がたこでござる。
▲女「あのうろたへ者。縛れ。括れ括れ。
▲シテ「あゝ。もはや参りまする。許させられい。あゝ。悲しや悲しや悲しや。
《と云うて、気を失ふ》
《と云うて、気を失ふ》
▲女「扨も扨も、気の毒な体かな。
申し申し。これは何とした事でござるぞ。気を確かに持たせられい。
▲シテ「あゝ。もはや戻りまする。許させられい、許させられい。
▲女「これこれ。妾でござるわ、妾でござるわ。
▲シテ「何ぢや。妾。
▲女「中々。わらはでござるわ。
▲シテ「和御料は、これへ何しに来た。
▲女「ゑゝ。まだうろたへた事を仰せらるゝ。これは、内でござるわ。
▲シテ「それならば、地頭殿はどれへ行かれたぞ。
▲女「扨々、むさとした。今の地頭殿は、妾でござるわ、妾でござるわ。
▲シテ「すれば、今烏帽子を着、刀を差し、棒を持つて、縛れ、括れと云うたはそちか。
▲女「中々。妾でござる。
▲シテ「やい。そこな者。
▲女「何事でござる。
▲シテ「公事の聞き様こそあらうずれ、今の様に理非も聞き分けいで、縛れ、括れと云ふ事があるものか。
▲女「でも、こなたの様に、むさとした事ばかり云うて、何と公事がなるものでござるぞ。これは、ふつゝりと思ひ止まらせられい。
▲シテ「をゝ。それそれ。身共が誤つた。この公事は、そちと相談をせずば、身共が勝たうものを。
▲女「いや。こなたは異な事を仰せらるゝ。それには又、仔細ばしござるか。
▲シテ「仔細のない事を云はうか。一体おのれは、左近贔屓ぢやいやい。
▲女「なう。ぶつきやうや物狂や。こなたは人聞きの悪しい事を仰せらるゝ。男ありながら、妾が左近殿の贔屓をするには、証拠ばしござるか。
▲シテ「証拠がなうて叶はうか。云うたらば、恥をかゝうがの。
▲女「恥をかく覚えはござらぬ。あらば仰せられい。
▲シテ「それならば云はう。それ。先度、地下に寄り合ひがあつたわ。
▲女「それが何と致いた。
▲シテ「まづ聞け。身共も行き、左近も行たが、身共が行くと、その儘何やら用ありさうに、左近が座を立つによつて、合点の行かぬ事ぢやと思うて、某も後から行て見たれば、おのれは左近が所に居たではないか。
▲女「あれは、左近殿の茶を飲めと云はれましたによつて、茶を飲うで居ました。
▲シテ「何ぢや。茶を飲うで居た。
▲女「中々。
▲シテ「《笑うて》茶を飲うだ者が、二人ともに、鼻の上にしつぽりと汗をかくものか。
▲女「なう。腹立ちや、腹立ちや。妾が恥は誰が恥ぢや。皆、こなたの恥ではないか。こゝな男畜生めが、男ぢくせうめが。
▲シテ「やい。そこな奴。
▲女「何ぢや。
▲シテ「箸に目鼻を付けても、男は男ぢやに。夫に向かうて男畜生と云ふ事があるものか。
▲女「でも、我が恥を知らぬは、畜生も同じ事ではないか。
▲シテ「おのれ。総別、この間甘やかいて置けば、方領もない。散々に習はかいて遣らう。
《と云うて、棒を取る》
《と云うて、棒を取る》
▲女「又、例の杖取りばいか。いやあ、いやあ、いやあ。
▲シテ「何とするぞ、何とするぞ。
▲女「いやあ、いやあ。
やあ。参つたの。
《と云うて、女は、男を打ち倒いて、這入るなり》
▲シテ「やいやいやいやい。身共をこの様にしても、おのれは左近とは夫婦ぢやいやい、めうとぢやいやい。
《と云うて、笑うても留める。又、追ひ込みにも。両様なり》
校訂者注
1:底本は、「出ていふ事を」。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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