『能狂言』中85 聟女狂言 どもり
《シテ、言葉は始終、どもりて云ふ》
▲女「やい。わ男。おのれ、憎いやつの。打ち殺いてのけう。
▲シテ「あゝ。許いてくれい、許いてくれい。
《と云うて、幕より出、一遍舞台を追ひ廻り、シテは一の松へ逃げ行き、中媒、後より出、太鼓座に見合うて、追ひ駆けて来る処を、女を留むる》
あゝ。誰そ、出合うて下されい。あゝ。悲しや、悲しや。
▲支人「扨々、気の毒な事ぢや。
▲女「おのれを打ち殺いて、妾も死んで仕舞はう。
▲支人「あゝ。これこれ。待たしめ。何事ぢや。
▲女「こなたの構はせらるゝ事ではござらぬ。そこをのかせられい。
▲シテ「あゝ。何とぞ取りさへて下されい。
▲支人「いやいや。身共が出ては、聊爾はさせぬ。これはまづ、何とした事でおりやるぞ。
▲女「それならば、聞いて下されい。あの男は、三界を家として、夜泊まり日留まりを致いて、屋根の漏りまで妾にさゝせまする。あの様な者は打ち殺いて、妾も死にまする。そこをのかせられい。
▲支人「あゝ。これこれ。その様なむさとした事があるものか。某がきつと叱つておまさう。まづ待たしめ。
▲女「それならば、きつと叱つて下されい。
▲支人「心得た。
なう。太郎。
▲シテ「面目もござらぬ。
▲支人「面目もないと云うて、今お内儀の云はるゝを聞けば、三界を家として夜泊まり日留まりをして、屋根の漏りまでをお内儀にさゝすると云ふ。その様な沙汰の限りな事があるものでおりやるか。
▲シテ「それは皆、うそでござる。私が夜泊まり日留まりを致すは、世帯を大切に存じての事でござる。私の留守になると、酒ばかり呑うで、世帯の事には一向構ひませぬによつて、私もほうどあの女に厭き果てまして、往ねと申せば、あの如くに追ひ走らかしまする。何とぞ云うて、往ないて下されい。
▲支人「これは近頃、尤ぢや。その様な事であらうと思うた。それならば、往ぬ様に云うてやらう。
▲シテ「それは忝うござる。
▲支人「いや。なうなう。今の通り云うたれば、とかくそなたに厭き果てたと云ふ程に、和御料も親里へ往んだならば良からう。
▲女「何ぢや。妾に往ねと云ひまするか。
▲支人「中々。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。何とせうぞ。そこをのかせられい。打ち殺いてのけませう。
▲支人「扨々、そなたはわゝしい人ぢや。あの男ばかり、男でもあるまい程に、他へ行たならば良からう。
▲女「仰せらるゝ通り、あの様な男は、藪を蹴ても五人や七人は蹴出しませうが、去られたと思へば、身が燃ゆる様に腹が立ちまする。
▲支人「それは、尤ぢや。
▲女「さりながら、こなたの仰せらるゝ事でござるによつて、出て往にませうが、その儀ならば、妾が嫁入の時分着て参つた、十二単を戻せと仰せられて下されい。
▲支人「心得た。
これこれ。お内儀の嫁入に着てわせた、十二単を返せと云はるゝわ。
▲シテ「何ぢや。十二単。
▲支人「中々。
▲シテ「《笑うて》古帷子一つで参つてござる。
▲支人「さうであらう。
▲シテ「とかく私が、こゝが叶ひませぬによつて、云ひ掛けを致しまする。何とぞ云ひ訳が致したうござるが。
▲支人「誠に、云ひ訳をさせたいものぢやが。それについて、どもりといふものは、謡は謡ふものぢやが、そなたは謡はぬか。
▲シテ「中々。謡ひまする。
▲支人「それならば、謡節にかゝつて云ひ訳をさしめ。
▲シテ「心得ました。その通り云うて下されい。
▲支人「心得た。
これこれ。その通り云うたれば、謡節にかゝつて云ひ訳をせうと云ふ程に、聞いてやらしめ。
▲女「何も云ひ訳はござるまいが、あらば云へと仰せられい。
▲支人「心得た。
早う出て、云ひ訳をさしめ。
▲シテ「畏つてござる。《謡》
こゝに不思議の男、いち人あり。その名をあん太郎と申す。則ち、けらが事なり。彼、一人の妻を持つ。女、口ごはなるによつて、離別す。彼が去られじ調謀には、着ても来ざりし衣裳の類、着たると人に訴訟する。我は元よりどもりにて、言葉の沙汰が叶はねば、拍手に掛かり謡節に、委細の事を申すなり。珍しからぬご沙汰かな。それそらごとや、偽り偽り。わ女郎の嫁入の小袖の品は何々。練りや朽葉織物、襖織筋や黄練貫、綾紫に折り紅梅、かれらこれらを取り集め、十二の品で縫うたる、かたかた物只一枚、裏綿ほしの小袖や。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。あの様な事を云ひまする。
▲支人「これこれ。あれ程云ひ訳をした程に、堪忍をしてやらしめ。
▲女「それならば、これは堪忍致しませう程に、月機日ばたを織つた、をがせを返せと云うて下されい。
▲支人「心得た。《その通り云ふ》
▲シテ「又、嘘でござる。
▲支人「さうであらう。
▲シテ「云ひ訳を致しませう。その通り云うて下されい。
▲支人「心得た。
これこれ。又、云ひ訳をせうと云ふわ。
▲女「早う云へと仰せられい。
▲支人「心得た。
又、云ひ訳をさしめ。
▲シテ「畏つてござる。《謡》
それ、ない事で候ふぞ。それ、ない事で候ふぞ。わ女郎の能には、朝寝、昼寝、夕まどひ、たまたま起きて、ものゝろい、苧を績いだてはすれども、すゞそやへそやをがせを、酒手の質に取りやり、織る事更になければ、着る事まして候はず。一年に一度立つ、河内の国に聞こえたる、大み堂の市場にて、布一尺もえ売らで、さのみ人の聞くに、物な云ひそ、わ女。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。またそのつれな事を云ふ。何としてくれうぞ。《小さ刀に手を掛くる》
▲支人「あゝ。これこれ。これも、云ひ訳をした程に、了簡をさしめ。
▲女「それならば、これも堪忍致しませう程に、十二の手具足を返せと云うて下されい。
▲支人「心得た。又、云ひ訳をするであらう程に、まづこれに腰を掛けて聞かしめ。
▲女「心得ました。
▲支人「これこれ。十二の手具足を返せと云ふ。又、云ひ訳をさしめ。
▲シテ「《謡》それ、そら言で候ふぞ。わ女郎の手具足、狐の啼くか、紺ぎれ、博奕打ちの賽目ぎれ、かちんや浅黄やはりの木染めや柿染め、かれらこれらを取り集め、十二の品で縫うたる、小包一つ持たせうで、中に入れたる物とては、扇で折つた畳紙に、はいほなんど押し入れ、伊勢水呑の古うして、はたのくわつと欠けたに、紅をちつと移いて、赤がはらけの様なる、まづこれ程の鏡を、中にとうど押し入れて、市立ちの売り物か、をがせ績みの小太刀か、小脇にきつと挟うで、地白帷子の、肩のくわつとやれたを、胸でしやんと結んで、檜笠の破れたるを、端をきつと捉へて、霜月師走の霜月師走の、畷の風に吹かれて、寒さは寒し、あなたヘぴらりしやらり、こなたヘぴらりしやらりと、凍え果てた有様を、今においてこの男、少しも忘れ候はぬぞ、わ女。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。又、妾に恥をかゝする。おのれ、打ち殺いてのけう。
▲シテ「あゝ。許さしめ、許さしめ。
▲支人「あゝ。これこれ。何とするぞ。早う逃げさしめ。
扨々、気の毒な事ぢや。
▲女「あの男を捕らへて下されい。やるまいぞやるまいぞ。
《「十二の手具足を返せ」と云ふ時、さへにん、「心得た」と云うて、シテへ云はずに、腰桶を持ち出で、「又、云ひ訳をするであらう程に、和御料もまづ、これへ腰を掛けさしめ」と云うて、腰を掛けさせて、扨、シテへ云ふなり》
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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