『能狂言』中86 聟女狂言 かまばら
《初めは「吃り」の如く、シテを女追うて、舞台を一遍廻る。中媒、後よりついて出、太鼓座にて見合ひ、女追うて来る処を留むる。シテは、一の松へ逃げて行く。言葉も同断》
▲支人「これはまづ、何とした事でおりやる。
▲女「こなたも聞いて下されい。あの男は、三界を家として、夜泊まり日留まりを致いて、屋根の漏りまでを妾にさゝせまする。今日もたまたま戻りましたによつて、山へ参つて薪を取つて参れと申せば、それも参りませぬ。生けて置いても何の役に立ちませぬによつて、打ち殺いて、妾も死にまする。そこをのかせられい。
▲シテ「あゝ。留めて下されい。
▲支人「いやいや。身共が出ては、聊爾はさせぬ。きっと叱らう程に、まづ、それに待たしめ。
▲女「心得ました。
▲支人「なう。そこな者。
▲シテ「近頃面目もござらぬ。
▲支人「面目もないと云うて、今、お内儀の云はるゝを聞けば、三界を家として、夜泊まり日留まりをして、世帯の事には少しも構はず、屋根の漏りまでをお内儀にさゝする。その上、山へ行て薪を取れと云へば、それも行くまいといふ事があるものでおりやるか。
▲シテ「さればその事でござる。私もあなたこなたに旦那衆がござつて、それへ参れば、よう来たと云うて留めさせられまする。これも世帯を大切に存じまするによつて、留まりまする。あなたへ参つてこなたへ参らずにも置かれず、かれこれ致いて、宿へ戻るも遅なはりまする。その上、たまたま戻れば、あの如くに追ひ走らかしまする処で、おのづと帰る暇のある時も、帰らぬ事もござる。今日も戻ると、その儘山へ参れと申しまする。それも参るまいではござらねども、少し休んで参らうと申せば、それをも聞き分けいで、あの如く追ひ走らかしまする。さりながら、とかく私が山へさへ参れば済む事でござる程に、何とぞあの㭷と鎌とを取つて下されい。
▲支人「則ち、聞き分けた。すれば、山へ行かうぢやまで。
▲シテ「中々。
▲支人「それならば、その通り云うて、取つてやらう。まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「心得ました。
▲支人「これこれ。きつと叱つたれば、山へ行かうと云ふ程に、そのあふこと鎌とをやらしめ。
▲女「すれば、山へ参らうと申しまするか。
▲支人「中々。
▲女「山へさへ参れば良うござる。それならば、この鎌と㭷をやつて下されい。
▲支人「心得た。
これこれ。この鎌と㭷を取つてやる程に、早う山へ行たならば良からう。
▲シテ「これは忝うござる。何が扨、山へ参りませう。今日も、こなたの良い処へ出合うて下されて、あまの命を助かりました。もし、こなたの出て下さらねば、あの女に打ち殺さるゝ処でござつた。
▲支人「誠に危ない事であつた。扨、太郎。よう聞かしめ。又しても又しても、そなたが夫婦諍ひをするによつて、地下の衆も他郷の衆も、後ろ指を指いてお笑やる。某も、今日こそ出合うたれ、以来は出合はぬ程に、さう心得さしめ。
▲シテ「何が扨、もはや夫婦いさかひいを致す事ではござらぬ。
▲支人「これこれ。そなたも早う宿へ戻らしめ。
▲女「心得ました。
やい。わ男。まだ山へ行かぬか。
▲シテ「扨々、せはしい女ぢや。今、山へ行くと云ふに。
▲支人「さあさあ。早う戻らしめ。
▲女「心得ました。
《と云うて、両人とも、幕へ入る》
▲シテ「扨も扨も、危ない事かな。良い処へ誰殿の出合うてくれられた。あの人が出合うてくれられぬと、既に打ち殺さるゝ処であつた。まづ、急いで山へ参らう。いや。誠に、世にわゝしい女もあるものでござれども、こちの女共の様にわゝしい者はござるまい。何の因果であの様な女に連れ添うた事ぢや知らぬ。はあ。扨、今、誰の云はるゝは、又しても又しても夫婦諍ひをすると云うて、ぢげの衆もたがうの衆も、後ろ指を指いてお笑やる。重ねて夫婦諍ひをしたりとも、出合はせぬと仰しやつたが、もし、誰そ出合うてくれねば、身共はあの女に打ち殺さるゝと云ふものぢや。男と生まれて女に打ち殺さるゝといふは、何とも口惜しい事ぢやが。何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。人といふものは、是非一度は死ないで叶はぬものぢや。女に打ち殺されうより、この先の淵へ行て、身を投げて死んでのけう。が、ようよう思へば、女わらべの様に淵川へ身を投げたならば、いよいよ人が笑ふであらう。これはまづ、何としたものであらうぞ。をゝ、それよ。百姓の似合うた様に、この鎌で腹を切らう。これこれ。これは良い事を思ひ付いた。誠に、この間から山へ行て木を伐らう木をこらうと存じて、この鎌を研ぎ済まいて置いたが、これは、木は伐らいで身共が腹を切る。扨々、是非もない事でござる。扨、某はつひに腹を切つた事はないが、何として切るものであらうぞ。さりながら、別に難しい事もあるまい。まづ、この鎌をかう振り上げて、左の脇壺へがばと立て、力に任せて右へきりきりきりと引き廻いたならば、定めて腸がぐわらぐわらとづると、目がくるくると舞うて、その儘死ぬるであらう。これこれ。これは難しうもない事ぢや。これに致さう。とてもの事に、この由を触れてから死なう。
いや。なうなう。地下の衆も他郷の衆も、ようお聞きやれ。身共が日頃、女共に追ひ走らかさるゝと云うて、いづれもおわらやるげな。それ故、太郎は男が立たぬによつて、百姓の似合ふ様に鎌腹をするが、誰も見物はないか。や。誰も見てはないか。
これはいかな事。いち人も見えぬ。扨々、残り多い事ぢや。この潔う腹を切るを、誰そ見せたいものぢやが。とやかう云へば、時刻が移る。是非に及ばぬ。まづ、肌を脱いで、鎌腹を致さう。一段と良い。やあ。今が最期ぢや。やあ。ゑい。
あ痛、あ痛、あ痛。しつくりとしたが、鎌の先が当たつたか知らぬ。はあ。見れば、疵もつかぬ。《笑うて》中々この様な事では、腹を切られまい。はて、口惜しい事ぢやが、何としたものであらうぞ。をゝ。それそれ。この鎌を、かう首へかけて、力に任せて前へ引いたならば、首はころりと前へ落ちよう。首さへ落といたならば、その儘死ぬるであらう。これに致さう。これは珍しい死にやうぢや。皆の者に触れて死なう。
なうなう。太郎はちと分別を変へて、鎌首といふ事をして死ぬるが、これはつゝと珍しい死にやうぢや程に、誰そ出て見ぬか。や。誰も人はないか。
扨々、残念な事かな。いつも今時分は人がづるが、今日に限つて一人も居らぬ。近頃残り惜しい事ぢやが、是非もない。さらば、鎌首を致さう。さりながら、中々只は引かれまい。声を三つ掛けて、三つ目に引かう。やあ。ゑい。一つよ。やあ。ゑい。二つよ。今一つが最期ぢや。やあ。ゑい。《下に居て、笑うて》
扨も扨も、口惜しい事ぢや。何程引かう引かうと思うても、手が臆病で引かれぬ。何とぞ、手のいらぬ死にやうはないか知らぬ。それそれ。この鎌をかう立てゝ置いて、つゝとあれから走りかゝつて、鎌の上で二つ三つもんどりを打つたならば、その儘死ぬるであらう。これに致さう。これが正真の走り腹ぢや。この辺りが良からう。やあ。
これはいかな事。某は何程に思うても、目が臆病で、あの鎌のぎろぎろとする処を見ては、いかないかな、怖ろしうて傍へ寄らるゝ事ではござらぬ。いや。それそれ。目をあけて居るによつてぢや。今度は目を塞いで走りかゝつて見よう。やあ。《笑うて》
扨も扨も、浅ましい事ぢや。何程に思うても、もはや鎌の辺りぢやと思ふと、目がほつちりとあいて、中々この分では死なれぬ。とかく、まだ定業が尽きぬと見えた。はあ。それそれ。身共はうろたへた。誰見た者もなし、身共さへ了簡すれば、死ぬるには及ばぬ事ぢや。やれやれ。危ない事をした。既にあまの命を捨てうと致いた。どれどれ。鎌を仕舞うて山へ参らうと存ずる。
《と云うて、鎌を㭷へ結ひ付け、かたげて》
なうなう。誰そ山へ行く者はないか。行く者があらば、同道せう。や。女共が声が致す。
《と云うて、鎌を解き、肩衣を脱ぎて》
やあ。太郎は今、鎌腹をする。今が最期ぢや。
▲女「やあやあ。それは誠か。真実か。扨々、それは苦々しい事ぢや。
申し。これは何とした事でござるぞ。思ひ留まつて下されい。
▲シテ「やいやい。それへ来たは何者ぢや。
▲女「妾でござる、妾でござる。
▲シテ「わらはと云ふは、女共か。
▲女「中々。妾でござる。これはまづ、何とした事でござるぞ。
▲シテ「おのれは、身共が腹を切るを見物に来たか。そこを放せ。はらわたを打ちつけてくれうぞ。
▲女「なう。悲しや。何事も妾が悪うござつた。何とぞ思ひ留まつて下されい。
▲シテ「おのれ、よう聞け。そちが又しても又しても身共を追ひ走らかすと云うて、地下の衆も他郷の衆も、後ろ指を指いてお笑やるげな。それ故、太郎は男が立たぬによつて、もはや思ひ詰めた。その手を放せ。潔う切つて見せう。
▲女「もはや向後は、世話を焼かする事ではござらぬ程に、何とぞ思ひ留まつて下されい。
▲シテ「おのれ、今こそその様に云へ、宿へ戻つたならば、又せびらかすであらう。どうあつても切らねばならぬ。
▲女「すれば、どうあつても思ひ留まらせらるゝ事は、なりませぬか。
▲シテ「何と、思ひ留まらるゝものぢや。
▲女「それならば、妾に暇を下されい。
▲シテ「それは、なぜに。
▲女「はて。こなたの腹を切らせられて、何と妾が生きて居らるゝものでござるぞ。淵川へなりとも身を投げて死にまする。
▲シテ「何ぢや。淵川へ身を投げて死ぬる。
▲女「中々。
▲シテ「むゝ。扨々、それは気の毒な事ぢや。それならば、思ひ留まるまいものでもないが。きやうこう、某をせびらかすまいか。
▲女「何が扨、思ひ留まつてさへ下さるゝならば、中々せびらかす事ではござらぬ。
▲シテ「いゑ。それならば、思ひ留まつてやらう。
▲女「やれやれ。嬉しや。妾もそれで安堵致いてござる。
▲シテ「扨、某はあまの命を拾うたによつて、寿命は長からう。
▲女「長うござらうとも。
▲シテ「五百八十年。
▲女「七廻りまでも。
▲シテ「それこそめでたけれ。こちへわたしめ、わたしめ。
▲女「心得ました、心得ました。
《又、追ひ込みにもする。その時は》
▲シテ「何ぢや。淵川へ身を投げて死ぬる。
▲女「中々。
▲シテ「それは誠か。
▲女「誠でござる。
▲シテ「真実か。
▲女「一定でござる。
▲シテ「扨々、そなたは男勝りな、けなげな事を云ふ人ぢや。それならば、良い相談がある。
▲女「それは又、いかやうの事でござるぞ。
▲シテ「ありやうは、某も余り面目がないによつて、鎌腹を切らうと思うて、色々として見たれども、臆病で中々切られぬ処に、そなたは身共に引きかへて、けなげな事を仰しやる。とても死ぬる命ならば、某が名代に、この鎌で腹を切つてくれさしめ。
《と云うて、鎌を突き付けて逃げ入る》
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。あの横着者。どれへ行くぞ。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ「許さしめ、許さしめ。
底本『能狂言 中』(笹野堅校 1943刊 国立国会図書館D.C.)
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